36度で拒絶を溶かして
シーザーは悩んでいた。最近彼がアプローチをしている女性の名前について。最近越してきたばかりだという同い年の女性は鉄壁のガードでシーザーの誘いの言葉を跳ね除けていた。ジョセフ曰く歯ががたがた浮くようなキザな言葉を言われても、鼻先がかすかに当たるほど顔を近づけられても、いじらしく頬を染めることなく、ただ軽く胸を押し返すだけだった。シーザーの愛の言葉を受け「また会ってくれるかい」という甘えた言葉に名前は澄ました顔で「Addio」と言ってのけた。もう会う気は無いわ、とつれない態度を示した名前の態度がシーザーの胸に火を点けた。それ以来シーザーは名前の気を引くために試行錯誤していた。女性なら喜ぶであろう贈り物や言葉。しかしどんなに手を尽くしても微笑すら見せない名前に、シーザーではなくジョセフが苦言をいってきた。
「もう諦めろって、ぜってぇー無理だと思うぜ」
「うるさい」
「あんな鉄仮面女のどこがいいんだ? ……まあ確かに? 目を引く美人だとは思うけどよぉ」
俺だったらあんな無表情女は嫌だね、と言って首を振ったジョセフを睨むシーザー。うっと言葉を詰まらせたジョセフを一瞥してシーザーは深くため息を吐いた。お前はなにも分かってない、と言いたげに。
「確かに彼女は滅多に笑わないが、子供やお年寄りが相手だとよく笑ってるんだぜ」
「ゲッ! まじで……」
想像できねーと零すジョセフを見て失礼な奴だな、と吐き捨てる。だが、シーザーもそれを知ったのはつい最近のことだった。街を歩いていたところをたまたま見かけたのだ。数人の子供に囲まれた名前は心に染み入るような優しい笑みを浮かべていた。シーザーが一瞬別人ではないかと思ったほど、見たことがない表情だった。それを見て、シーザーは胸がきゅんと痛くなる感覚を覚えた。
それから何度も隠れるように名前の後を追い(傍から見れば相当怪しかっただろう)彼女の笑みを見ては胸が締め付けられて息苦しい思いを味わっていたのだ。その後は素知らぬ顔で名前に声をかけ、凍った仮面のような表情の名前とのギャップに心を震わせていた。
「押してだめなら引いてみろって言うわよ」
「スージーQ!」
ジョセフの背後から現れたスージーQの言葉に、ジョセフが「それ良いな!」と同意する。シーザーは澄ました顔でそれぐらい心得ているさ、と言った。
「最後に名前相手に引いたのはいつだ?」
ジョセフの言葉にシーザーが言葉を詰まらせる。名前と出会って数ヵ月、引いたことは一度もなかった。ほれみたことか、と得意げな顔をする二人に「引いて、彼女が追いかけてこなかったら・・・って考えるとな」と自信無さげに呟くと、ふたりは母親のような慈愛深い目をシーザーに向けて言った。
「シーザー……お前、本気であの女のこと好きなんだな・・・」
「驚いたわ、あのシーザーが……」
二人の言葉を聞いて微かに顔を赤くしたシーザーを見て、謎の使命感に襲われた二人は声を揃えて「作戦を立てよう!」と言って立ち上がった。シーザーはその勢いに驚き反射で「ああ」と返してしまう。目を輝かせて会議を始める二人に置いていかれたシーザーは、今頃名前は何をしているのだろうかと思いを馳せた。
その日、シーザーは大通りを避けて路地を歩いていた。通りかかった階段を一番上まで登りその場に腰掛ける。暇をもてあそび波紋を込めないシャボン玉を次々と飛ばしていた。
ジョセフとスージーQが考えた計画は至って単純で、しばらく名前に会わないというものだった。作戦を決行して三日目、これまで毎日名前と顔を合わせていたシーザーはたいへんなしょげようだった。似たような後ろ姿を見かけたときの異常な反応は横に居たジョセフがドン引きするほどだ。
名前は顔を見せにこない自分のことをどう思っているだろう。何かあったのかと心配してくれているだろうか。気づいてすら居なかったらどうしよう。むしろ顔を見なくてラッキーと思っていたらどうしよう。暗い気持ちにさいなまれるシーザーの背を蹴飛ばす役目の友人達は今朝から出かけていた。
ただひたすらシャボン玉を飛ばし、高く飛んでいくそれを陶酔したように虚ろな目で見ていたシーザーは、ふと視線を感じ目線を下げた。階段の一番下で、誰よりも会いたかった相手がこちらを見上げていた。
「……っ……!?」
口に出さず全身で驚きを表現するシーザーを、取り澄ましたような涼しい顔で見ていた名前は一段一段、踏みしめるように階段を登っていく。好き好きでたまらない相手が近づいてくる。シーザーは情けないと自覚しつつも逃げ出したくなった。名前は階段を登り距離を詰めていき、反比例するようにシャボン玉は遠くへ飛んでいく。
手を伸ばせば届く距離になると、名前は立ち止まった。
「隣に座っても?」
「あ、ああ」
返事を聞いた名前がシーザーの隣にゆっくりと腰を下ろす。ふわりと香った目を閉じたくなるほどのいい匂いにドキドキしつつ、言葉を待った。
「シャボン玉を辿ってきたの。子供がいるんだと思ったわ」
あなたが居て吃驚、と続けた名前はそれっきり黙り込んだ。シーザーが慌てたようにシャボン玉を作ると、名前はゆっくりと飛んでいくそれを目で追う。
「あなたから石鹸の匂いがする理由がやっと分かった」
控えめな微笑を浮かべる名前の横顔を食い入るように見つめていたシーザーは、気づけば「好きだ」と声に出していた。激しい愛情が胸いっぱいに溢れ、堰を切ったように言葉が零れ落ちる。君が好きだ。恋しくてたまらない。君のことが頭から離れない。君が愛おしい。シーザーの言葉を聞いて目をパチパチさせていた名前は、心なしか穏やかな顔で言った。
「二日会えないだけで不安になるくらいには、好きね」
誰がとは言わない名前の言葉に、シーザーは胸が張り詰めてくるのを感じていた。決まりが悪そうに顔を逸らした名前は立ち上がり階段を下りていく。シーザーが慌てて名前を呼ぶとゆっくり振り返り、落ち着いた声で言った。
「a domani」
階段を下りそのまま行ってしまった名前の背を見送ったシーザーは、嬉しさと照れで緩みまくった頬を抑えしばらくその場に蹲っていた。ジョセフとスージーQの作戦はこれ以上ないくらい大成功だった。