「お姉ちゃん聞いて〜!」
 とある撮影現場にて、嵐に泣きつくように駆け寄る少女が一人。文字通り泣きそうな顔で目の前に現れたのは、昔からの友人である坂本亜希であった。
 モデル仲間としてよく意見を交わしあったり、お互いのオススメコスメの話をしたりとガールズトークに花を咲かせることができる、「彼」を「彼女」として扱うかず少ない友人のうちの一人だ。
「あらあら、どうしたの?」
「……あのね、泉ちゃんのことなんだけど」
「わかったわ。場所を移しましょ」
 周囲を用心深く見渡して声のトーンを落とす亜希に、嵐はそっと片目を瞑って提案する。
 件の話は大声で言いふらすようなことでない上に場所も選ぶべき話であると察しての配慮だ。彼女のそういった話を聞くのは初めてではない。
「亜希ちゃん、このあと撮影は?」
「もう終わった。お姉ちゃんの都合に合わせられるけど……今日、大丈夫?」
「当たり前じゃない! 可愛い妹のために、すぐに終わらせてきちゃうわよォ〜」
 安心して頂戴。と笑う嵐に、亜希もほっと息をついた。
 それじゃあ、とよく行く喫茶店で落ち合う約束をして、亜希は先にそこへと向かうこととなった。

 その場所は、落ち着いた雰囲気ではあるもののあちらこちらでさざめきが起こり、誰一人として周囲の話に耳をそばだてていないような、そんな店だった。
 意味もなくアイスティーをストローでかき混ぜながら、亜希は「お姉ちゃん」がくるのをただ待っていた。
 ……いや。正確には、何をどう話せばいいのかという思考を巡らせながら。
 小さい頃から憧れていた、近所に住んでいる顔の綺麗なお兄さん。その人がいたからこそ、追いかけるように彼女はモデルの道へと足を踏み入れたのだ。
 バレエはなんとなく肌に合わずにすぐに辞めることとなったが、彼のいなくなったモデル業界はそこそこ彼女の性質にあっていたのか、未だにカメラの前に立ち続けている。
 超有名モデルになったわけではないが、知っている人は知っている。それが現在の彼女だ。
 アイスティーに浮いた氷が、カランカランと涼しげな音を立てる。グラスの表面に浮かんだ水滴が雫となって滑り落ちる。「泉ちゃん」は、自分のことなど何とも思っていない。そんなわかりきったことが、彼女の胸へと積もり行く。
 じっとグラスを眺めている彼女の表情が、だんだんと曇る。元々、沈む心を浮上したいがために彼女は嵐に声をかけたのだ。
「亜希ちゃん。ごめんなさい、待たせちゃったわね」
「お姉ちゃん!」
 不意に聞こえてきた声にパッと表情を明るくして、亜希は振り返る。
 嵐は彼女の座る席を見て、「ソファーの方に座ればいいのに」と苦笑を漏らす。肩をすくめて空いていた席へと腰を下ろし、彼は手早く注文を済ませた。
「それで、今度は何をされたのかしら?」
「そんな、いつも泉ちゃんが何か危害を加えてるみたいな……」
 目を細めて問いかける嵐に、慌てたように亜希は両手をばたつかせる。しかし、「違うのかしら?」と目を瞬かせる嵐に今までを思い返して返す言葉も見つからない。
 物理的に傷をつけられているわけではない。彼からしたら大したことでもないだろう。そんな彼の、いずみの一言一言が彼女の胸に傷をつける。
 今回だって、例に漏れずそうだ。
「お姉ちゃん……」
 あ、と思った時には遅い。一瞬のうちに高ぶった感情に促されるまま、亜希は両目から大粒の涙をこぼし始める。ポロポロと音が聞こえそうなほどに、透明な雫が頬を伝ってテーブルの上に落ちた。
 予想していたとはいえ、目の前で妹のように可愛がっている人物が涙を流す姿は胸が痛む。「あらあら」と、いつもの調子で口にしながら、カバンの中から可愛らしい花の刺繍があしらわれたハンカチを取り出し、亜希へと手渡す。
 嗚咽を押し殺しながら、ひとしきり涙を流し切る。零れ落ちるそれをハンカチで押さえながら、頭に浮かぶのはつい数時間前のやりとりだ。
 かの人の、何気ない一言。「別に、亜希には関係ないよね〜?」そんな突き放すような一言が、鋭い刃物となって突き刺さる。それ自体、はじめて言われる言葉ではない。何度も何度も、同じところに突き刺さる針はいつしか癒えぬ傷を生み出していく。
「わたっ、私っ……確かに、いっ、泉ちゃんにとってはっ……、どっ、どうでもっ、よくて……っ、関係なっ、ないかも……しれなっ……」
「亜希ちゃん、無理はしなくていいのよ」
「おねっ、ちゃ……!」
 ポロポロと目から溢れる透明な雫を吸い込んでいく淡い色彩のハンカチは、どんどんくすんでいく。アイメイクもどんどん落ちてそれによって汚れていくことも気にする余裕なんてなくて、亜希はただ、声を押し殺しながら涙を流す。
 向かいに座る嵐は眉を下げてそんな彼女の頭をあやすように撫でることしかできない。何を言っても今の彼女には届かない。無理に泣き止ませるよりも、今はただ涙を流させることの方が大事だろう。だから、彼はただそうしていることしかできなかった。
 ――どれだけの時間そうしていただろうか。
 しゃくりあげていた彼女の目からはようやく収まったのか、枯れてしまったのか、涙が流れることはなくなった。
「落ち着いたかしら?」
「はは。ごめんね、お姉ちゃん。汚しちゃった」
 真っ赤な目で、無理やり笑顔を作り出して彼女ら小首を傾げた。
 聞いてほしいことがたくさんあったのに、それらが全て涙に代わって流れてしまったようで言葉が出てこない。
 言葉にしてしまったら、それが再び引き金となって涙を流しかねないせいでもあった。
 落ち着くために大きく息を吸って、震えながらもゆっくりと吐く。何回かそれを繰り返して、ようやく彼女はそれを口にする。
「私ね、こんななのに、やっぱり泉ちゃんのことが好きみたい」
 突き放されてばっかりなのに、おかしいね? 作り出したはずの笑顔は歪んでどこか歪なものになってしまっただろう。引きつったように笑う亜希を抱き寄せてしまいたい衝動にかられながら、嵐はやはり眉を下げて笑う。
「もう、亜希ちゃんってば。しょうがない子ねェ」
 そんなに辛い思いをするならやめてしまえばいいのに。抱いた感情を放り出して、真に幸せにしてくれる男を探すべきなのに。
 喉まで出かかった想いは、それができれば苦労はしないのだとわかっているからこそグッと飲み込む。
 昔から可愛がってきた「妹」が、幸せになれないこんな現実。壊せるものならそうしたい。しかし当人が望んでいない以上、彼が何かをすることなどできない。
「えへへ、ごめんねお姉ちゃん。いつも迷惑かけちゃって」
「亜希ちゃんにかけられる迷惑なら喜んで。お姉ちゃんがなんでも聞いてあげるわよォ〜」
「ふふ。いつもありがとう」
 ふわりと浮かべた彼女の笑みは、ようやく笑い方を思い出したかのように柔らかなものだった。