「泉ちゃん、おはよ!」
 笑顔を浮かべて亜希は気だるげな目を自らに向ける男に手を振る。毎日顔を合わせる機会はここだけだ。故に彼女は毎朝必要以上に早起きをして彼の家の前を通る。
 それに関して彼は口を出す気も、時間をずらす気もないのか毎朝のその声かけに「おはよう」と端的に返す。
「今日ね、うちの学校調理実習があるんだぁ」
「へぇ……亜希、料理できるわけ〜?」
「泉ちゃん、それは失礼だよ」
「黒焦げにしてそうなんだよねぇ〜。食材が可哀想」
「お料理はできるから!」
「でも、昔クッキー黒焦げにしてなかった?」
「それは忘れて!」
 コロコロと表情を変える亜希をどこか微笑ましげに見ながら、泉は揶揄うように言葉を投げる。
 昔から近所なことに加えて親同士が仲がいいせいか、兄妹のように育った二つ下の彼女はいつもこうやって自分の後ろをついてくる。
 それが可愛らしくもあり、時々憎らしくもある。
「ほら、もっと離れて」
「酷い! まあ、泉ちゃんアイドルだもんね……」
 自分もそこそこ有名なモデルなくせに、亜希は眉を下げて一歩後ろへ下がる。従順なその様子に少しの満足感を覚えつつ、泉はちらりと後ろに視線を送る。
 少しだけつまらなそうに、俯いて歩く亜希に聞こえるように、大きくため息をついた。
「亜希、姿勢が悪いよ〜?」
「だってそれは、泉ちゃんが」
「俺が何?」
 威圧するような声色に、亜希の語尾がどんどん小さくなっていく。もはや口の中でモゴモゴと文句を言う彼女に、畳み掛けるように「言いたいことがあるならはっきり言えばぁ?」と投げつける。
 言えるのであれば苦労しない。今更遠慮しているわけではないが、それを口にしたところでまた冷たい言葉を放られてしまえば今以上に悲しくなる。でも文句は言いたい。
 そんな彼女の心情が手に取るようにわかるから、泉は小さく笑って息を吐く。
「冗談だよ。ほら、おいで」
「いっ、泉ちゃんの意地悪……!」
 再び隣を歩く権利を得た亜希は泉に駆け寄りながら頬を膨らませた。いつもこうだ。冷たい言葉を投げられたと思えば、急に優しくなる。意地の悪い幼馴染に振り回されていると言う自覚はあるが、どうすることもできないのが悔しい。
 おまけに、こうしてまた隣を歩けることに嬉しさを抱いてしまっている時点で完全に彼の掌の上で遊ばれている感がある。
 その悔しさからか、つい憎まれ口を叩いてしまう。
「離れてって言ったくせに」
「冗談だって言ったでしょ? 何、拗ねてるわけ?」
「子供扱いしないでよ。もう私も高校生だよ?」
「お兄ちゃんからしたら亜希はいつまでたっても子供みたいなものだよ」
「またお兄ちゃん面……」
 憎まれ口を叩いた結果、改めて彼の認識を思い知らされるという悲しみを引き起こす。
 亜希としては泉を兄だと思ったことはない。少なくとも最初の頃以外は。出会った当初は、確かに兄だったはずなのだ。
 それがいつから変わってしまったのだろうか。変わらないでいたなら、きっとこんなに苦しむ必要はなかっただろう。
 彼が自分を「お兄ちゃん」と称す度に、その言葉が心の深いところで澱のように降り積もっていくのを感じる。今更、彼を兄だと思えるはずもないのに。
「お兄ちゃんでしょ?」
「違うもん」
「じゃあ、なんだって言うわけ?」
 細められた彼の視線から逃げるように、亜希は目をそらす。言えるはずがない。自分を兄だと言い張る彼に、この気持ちを口にすることなど、できるはずがない。
 ふと、考える。じゃあ彼との関係はなんだろう。幼馴染? 昔から付き合いのある知り合い? モデルの先輩と後輩? 様々なものが浮かんでは、いまいちしっくりとこないと否定する。
 自分が、それ以上の関係を求めてしまっているからだ。だから、それ以上発展のなさそうな関係に収まることを心が拒否する。
 もしも、もしも叶うことなら恋人同士になりたいのだ。
 ……この調子ではあり得ないのだけど。
「ははっ……」
「何?」
「ううん、なんでもない」
 自分の立ち位置を確認しては悲しくなる。彼が兄のつもりでいる以上、それ以上なんて夢のまた夢だ。あるいは、妹でいることを甘んじて受け入れるべきなのだろう。誰よりも近い位置に居られると、そう思えば。
 だけど、と彼女はひっそりと息を吐いた。
 たとえ兄という立場であっても、自分は一番にはなれない。それが分かっているから、余計に悲しいのだ。
 泉が誰よりも優先するのはただ一人。モデル業界から消えてしまった遊木真。どれだけ彼女があがいても、超えることのできない人物だ。
 あの綺麗な顔をした少年は、今はアイドルとして活動しているらしい。風の噂で聞いた話だ。嵐や泉と同じ夢ノ咲学院に通っていると言う情報も得ている。
 時折泉が話して聞かせる彼の話に、ひっそりと胸を傷めることしかできないでいた。
 泉は自分の話をこうして誰かに聞かせることがあるのだろうか。あり得ない。分かっている。だからこそ苦しい。
「それじゃあ、ここでお別れだね」
 分かれ道。通う学校が違う以上、すぐにそれはやってきてしまう。
 離れたくないという思いを抑え込んで、亜希は眉を下げて笑う。惜しんでいる彼女とは逆に、泉は事実をそのままに「それじゃあね〜」と軽く手を振ってさっさと歩みを進めてしまう。
 そんな彼の後ろ姿を、彼女は時間の許す限りただ眺めている。いつものことではあるが、やはりこの時間が寂しくて、つらい。
 同じ学校に通っていたら、また違ったのだろうか。夢ノ咲学院にはアイドル科以外にも学科はある。ただ、それらを選ばなかったのは彼女の意思だ。
 偏差値が足りなかったわけでもなければ、今通っている高校がどうしても行きたかった場所というわけでもない。少しの反抗心だ。
 同じ学区故に中学までは同じ学校だった。あまり広くはないからの交友ではあるが、それを見る度に距離を感じてしまう一年間だった。だから、高校は違うところにしようと思ったのに、こうして辛くなる時点であまり変わりはない。
「はぁ……学校いこ……」
 先ほどよりも重くなった足取りで、亜希は自らも登校すべくゆっくりと歩みを進めるのであった。