努力と弱音

「ちょっと待っててねー」

キッチンで料理を作る私の足元でシーサーがチョロチョロと動き回る。彼が私に餌を要求していることはわかってはいるのだが、いかんせん今は夕食を作っている途中で手を離せない。
常日頃から料理をするという照史くんのキッチンは、調理道具も材料も十分揃っており、炊事に苦はない。彼はグループの中でも割と忙しいようで、今は舞台の稽古とロケと収録が立て続けにあり、家事炊事の殆どを私に一任してくれた。忙しいのはいいことだけど、無理して溜め込んで、私みたいにならないように一番近くで支えていけたらいいな、なんてただの希望的観測に過ぎないのだが。

料理がひと段落ついたためシーサーのご飯に手をつける。ドッグフードをお皿に入れて差し出すと彼は嬉しそうにそれに飛びついた。まだ子犬だし、無邪気ですごく可愛い。くりくりの目が照史くんにそっくりだ。

「かわいいなぁ、お前は…」

ご飯にがっつく小さく艶やかな頭を撫でていると、ガチャっと解錠音が聞こえて慌てて玄関に向かう。玄関では今帰ってきたのだろう照史くんがスニーカーを脱いでいた。

「おかえりなさい、照史くん。ご飯できてるよ」
「ん、ただいま。おおきに」

一緒に過ごしてみて驚いたのは意外と彼の口数が少ないことだ。オンオフがはっきりしているというか、どちらかというと物静かな方で、いつも私の話を聞いてくれる。

彼の後ろについてリビングに入ると、ご主人様そっちのけでご飯を食べているシーサーに照史くんは「何食うてんねん」と笑って帽子を脱ぐ。そしてキッチンを覗いた彼はそこに並ぶ料理に笑顔を浮かべて、「今日も美味そうやなぁ」と呟いた。この一言がすごい嬉しいなんて恥ずかしくて言えないけれど。

「まだ作ったばっかりだから暖かいよ」
「お!じゃあ早く食べてまうかぁ」
「食べたらすぐお風呂はいる?」
「おん」
「ん、わかった」

彼は舞台の稽古で毎日汗をいっぱいかいて帰ってくる。少しでも早く汗を流したいみたいで、ご飯の後すぐお風呂に入ることが多い。だから私はご飯を食べる前にお湯張りを始めておくのだ。

「静久ー、ご飯つけていい?」
「あ!うん、お願い!」

何を出しても美味しい美味しいと、本当に心から言ってくれる彼との食事時間はすごく楽しい。舞台があるから仕方ないのだけれど、もっとたくさんこの顔が見れたらいいのになぁ…なんてただの自己満足に過ぎないか。




「照史くん、毎日お疲れ様」

遊び疲れたシーサーを膝の上に乗せながら風呂上がりの彼を出迎える。仕事に行くときは髪をあげて出かける彼だが、家にいるときは基本的に下ろしていることの方が多い。もともと幼く見える彼がもっと幼く見えて、とてもだが年上には見えないくらいだ。
私の労いの言葉に彼は丸い目をくりくりとさせて、「別に」と口を開いた。

「お疲れ様ちゃうよ。これは自分で決めた道やからさ、毎日充実しとるし、楽しい。もっと色々試したいこともあるぐらいやし、まだまだ頑張り足りへん」
「………」

彼のまっすぐな瞳がまるで自分と正反対で変な汗がこぼれ落ちた。背中がひんやりと冷たい。
こんなに努力家で前を見続ける彼に、あの時の私は、今の私はどう映っているのだろう。なんだか居た堪れない気がして視線を下ろすと、膝の上のシーサーが私の手の甲をチロチロと舐めた。

「照史くんは、すごいね」

やっとのことで絞り出せたのはその一言で、しかも馬鹿みたいに震えていて、彼の息を飲む声が聞こえる。でも謝られたって困るし、彼は間違っていないし、何かを言われる前に次の言葉を吐き出す。

「私にはできないことだから、尊敬する」

違う。
こんな皮肉みたいな、僻みみたいなことが言いたいわけじゃない。
でも彼みたいに今一度頑張ってみるか?と問われれば、苦しくて息ができなくなりそうだ。もう頑張りたくないけれど、このまま堕落したいわけじゃなくて、だから私はいったいどこへ向かっているんだって、それがわからないからこんなにも、他人を認められない。そんな自分が一番認められないし、許せないし、嫌いだ。

「ごめん…お風呂行ってくる」

このままじゃ平坦なこの関係を壊してしまいそうで、私はシーサーを彼に渡して立ち上がる。とにかく今は頭を冷やしたい。

「待って」

だけど、あの時みたいに君は私を引き止める。今度はやんわりと優しく。私が逃げないって知ってるから。
彼はシーサーを床に下ろすと、私を引き寄せた。彼の腕の中に収まると余計に泣きそうになって唇を噛みしめる。

「努力の尺度も、限界も人それぞれや。俺はもっともっと目指したい景色がある、それだけ。静久は今を精一杯生きる方が大切なんやから、俺と比べたらあかん。絶対にあかん。苦しい方に行かなくてええんやで。楽して、好きなことして笑うてた方がええ。死んでしまうより、絶対に」

はっきりとした言葉。
暖かい温度。
君は私を救うのに相応しすぎる。

「照史…くん…」
「泣いて死ぬより、笑って生きてこ?な?」

小さく頷く私を、彼は離して頭を撫でてくれた。ずんっと沈んでいた心が幾分か晴れやかになる。私は慌てて涙を拭いて、「お風呂いってくるね!」と矢継ぎ早に言い、洗面所に走った。

バタンと閉じた扉に背中を預けてふぅと息を吐く。こんな弱音見せるつもりじゃなかったのに。もっと彼の喜ぶ顔が見たいはずなのに。どうすれば…。

「あ…」

真っ白になった頭の中に一つ、いいアイデアが浮かんだ。

ーそうだ、お弁当を作ればいいんだ。

変な空気になっちゃった謝罪も込めて、美味しいと笑ってくれるその顔がもっと見たいから。
そうと決まれば急いでお風呂に入って、冷蔵庫の食材確認しないと。明日も早起きしないといけないし。

……なんでだろう。あんなに頑張ることが嫌だったのに、彼のために頑張ると思うだけで、こんなにも楽しくなっているなんて。我ながら単純すぎると、半笑い気味に呆れた。