約束と愛嬌

私は手にした服を軽くたたみ、スーツケースに入れる。今日は望くんの家を出ていく日だ。彼は午前中は仕事だと言っていたから身の回りの整理をして、家事炊事を軽くこなして帰りを待つ。年下で甘えたがりな彼に、私はとても救われた。私から甘えることはまだ難しかったけれど、それでも望くんのお陰で一つ重荷が消えたことは大きい。本当に感謝してもしきれないぐらいだ。

「よし…」

彼の服を全て取り込みクローゼットにしまう。さすがモデルもやっているだけあって、自分が似合う服をよく分かっている。彼の服は黒地のスマートなものが多かった。神ちゃんはもっとごちゃついていたから、まさに正反対でつい口角が上がる。…しかしすぐに神ちゃんの愛しげな声音を思い出して羞恥が襲ってきた。もう恥ずかしくなるなんてわかりきってるのに、どうしてこう何度も思い出してしまうのだろう。

「何ニヤついてんの?」
「え!!?」

突然左隣りから聞こえた声に慌てて顔を上げると、そこにはキャップを被って「今帰ってきました」と言いたげな雰囲気の望くんが立っていた。とっさに「なんでもない!」と言ってはみるが、彼は「ふーん?」と訝しげで全然信じていなさそう。

「は、早かったんだね…?」
「いや、まぁ、ふつうに急ぐやろ。今日は大事な日やし」
「え…、別に…気を使ってくれなくてもいいのに…」
「……やっぱり、甘えんのは苦手やねんな」
「う……」

じとりと見つめられとどきりとすると、彼は表情を緩めて「ええよええよ」と笑った。やっぱり年下には見えない落ち着きと大人っぽさだ。…それがもし私に甘えさせるためだったら…本当に申し訳ないことをした…。

「なんか…ごめんね…?」
「まあ、俺のやり方が悪かったんかなあってちょっと思ったけどね」
「そ、そんなわけないよ!」
「それとも年下に甘えるのはいや?」
「ちょ、ちょっと…!」

意地悪げにそう言ってくる彼を否定するが、それを証明する証拠がなくて自信がなくなっていく。望くんは悪戯っぽく笑って、「うそうそ」と私の頭を撫でてくれた。何も言い返せない…。

「む、むしろ!…甘えたな望くんは甘えられなくて大変だったでしょ?」

せめての反撃だと唇を尖らせると、彼は綺麗な目をくりくりと丸めて、「結構行ったつもりやねんけど…もっと甘えてよかったん?」と首をかしげる。その答えに迷っていると、彼はこちらに手を伸ばしてきた。背中に回りかけた手は一瞬びくりと跳ねて私の肩を優しく包み込む。

「え…っと……望くん…?」
「だって……一人寂しい言うてもおってくれるわけちゃうんやろ…?」
「うっ…」

それはそうだ。元から一週間と決まった関係なのだから。彼は可愛らしく眉を八の字にしてじっと見つめてくる。あ、こんなところに黒子だ…と意識を他に向けては取り繕う。

「もし、七人のとこまわり終わったらどうなるんやろね?」
「あ…たしかに…」
「そしたら…俺んとこ来てくれてええから。寂しがりなのんちゃんのそばにおって?」
「ず、ずるい…」

この子は自分の強みを理解している。本当に下心なんてないってわかっているのにドキドキしてしまう自分が恥ずかしい。

「約束して?」
「や、約束するから……手を…!」
「はー、良かった」

望くんは手をパッと離してにっこり笑う。アイドルって本当に末恐ろしいな…。なんて思っているとインターフォンが声を上げる。

「あ、きた」

インターフォンの画面を覗き込んだ彼はそう呟いて何やろ操作している。セキュリティを解除しているんだろう。手持ち無沙汰になった私は身なりを整えていく。

「あー、免許もっとったら送っていくんやけどな」
「そんな…、悪いし…」

刻一刻と近づいていく別れの時間に私たちはつい口を閉ざす。お互いに真正面で向かい合って、見つめ合うとしばらくして「なんやねんこれ」と望くんが小さく笑った。

「わかんない、なんだろうねこれ」
「マジな。…もうくるよ」

彼につられて私も笑って、「ほら立って」と促す望くんに従って立ち上がる。彼は私の荷物を持って玄関に向かった。その大きな背中はやっぱりたくましい。




「望の相手とか大変やったんちゃう?」
「そうでもなかったよ?すっごい頼りになるし…。甘えさせてあげれなかったのが申し訳なかったかな…」
「なんで自分が悪そうな顔するん?わからんわ〜」

マンションの廊下を私の荷物を持って前を歩く照史くんは一つの扉の前で足を止める。

「ここが俺の部屋、部屋番号覚えーな?」
「うん、わかった」

扉に記載された三文字の番号を脳内で何度も唱える。そして他の人と混ざらないように携帯のメモ欄に書いておく。

照史くんは初めて会ったときと変わらない距離感で私と話をしてくれるから、そういうのが得意な人なんだろうなって何となく察した。私も仕事上得意な方だが、素でできるのは本当に彼の人柄がいいからだろう。そんな彼に頼るのは何だか自分自身に寄りかかるような気がしてあまりすすまない。

「ほな上がり」

そう言って扉を開けた彼に従い中に入る。中は綺麗に整頓されていた。

「お邪魔します…って、うわ!」

靴を脱いで玄関に上がると、一匹の黒い犬が足元にすり寄ってきて思わず声が上ずる。小さなフレンチブルドッグだ。

「おぉ!ただいまー、シーサー」

照史くんは表情をパッと明るくするとシーサーと呼んだその犬を両手で撫でる。シーサーは気持ちよさそうに目を細めた。

「あ、静久って犬平気?」
「うん。シーサーくん?」
「そう!シーサー!かわええやろぉ!」
「かわいいね」

私も彼と同じようにしゃがみ込んでシーサーを撫でる。艶やかな毛並みに暖かな体温、やっぱり動物っていいかも…。

「あーよかった。犬苦手やったらどうしよーって思って」
「全然。めっちゃかわいい」
「そっかそっか。……よかったなぁ、シーサー」

そう言って目を細める照史くんはすごく可愛らしい顔をしていて少しどきりとする。この人があの真っ直ぐな歌声を持っているようには思えなくて不思議な感じだ。そんな彼に視線を奪われていると、どうしたん?と首を傾げられて頬が熱くなる。

「ううん、なんでもない!」

ああ、本当に、アイドルというものはもれなく全員心臓に悪い。