混ざり合う甘い蜜
「お疲れ様です」
その一言を残し、香織は足早にオフィスを出ていく。
やっと一日が終わった、と小さくため息をついて、エレベーターのボタンを押した。
「あれー? 香織先輩、もう帰っちゃうんですか?」
ゆっくりとその数を増やすエレベーターの表示を見ていると、後ろから声をかけられた。
振り向くとそこには、後輩の高尾和成が両手に書類を抱えて立っていた。
「うん。高尾くんは残業?」
「明日の会議の準備に借り出されました。先輩と飲みに行きたかったのにー」
高尾は口をすぼめると恨めしそうな顔で書類に目を落とす。
彼は入社一年目の新人で香織が教育を任されているのだが、仕事も早くしっかりしていると高評判で、社内では将来有望と言われる青年だ。
しかし目の前で口を尖らせる彼の姿はまだまだ子供っぽさを感じさせ、その姿を見て香織は小さく笑った。
「またそんなこと言って。準備、頑張ってね」
そう言って落ちそうになっている書類を整えてやると、「ポーン」とエレベーターの到着を告げる無機質な音が響いた。
「また今度行きましょうねー」
香織がエレベーターに乗り込むと、高尾は書類を持ったまま手を軽く上げて笑顔を向ける。
社交辞令のお手本のように「また今度ね」と返すと、ボタンに手を伸ばし扉を閉めた。
香織はエレベーターの中でひとり、「いつかね」と言わなかった自分を褒めたくなった。
入社して半年ほど経つ彼だが、人当たりが良く好感度も高いためか、よく上司に誘われ仕事帰りに飲みに行っているようだった。
香織も何度かその席に誘われたことはあったが、何かと理由をつけては断っていた。
時には後輩の気持ちを汲んであげたほうがいいだろうか、と思うのだが、なかなか重い腰が上がらない。
過去に付き合った男性と嫌な別れ方をして以来、相手にその気がなくともプライベートで男性と関わることに二の足を踏んでしまっていた。
恋人などの存在がなくても日常は成り立つのだ。
失恋した次の日も、いつものように仕事をしている自分に気付きそう思った。
────香織にとっての日常。
それは朝起きて仕事に行って、仕事が終われば家に帰り、朝を迎えればまた仕事に行く。
そうやって毎日、平凡な日々を送る。
要領のいい後輩がいて、上司や同期とも関係は良好。
職場環境は恵まれていると思うし、生活に不自由もなく、特に不満もない日常だ。
しかし時に、その日常がひどく面白くないものに感じることがあった。
それが今日だった。
(やっぱり、今日は飲みに行こう……)
ここのところ仕事も忙しく、そろそろ息抜きが必要だと感じていた香織は、今日は定時きっかりに仕事を終えた。
そして会社を出ると、足早に繁華街へと歩き出した。
*
(うん、今日のお酒も美味しい!)
口の中に広がる独特な味わいを堪能しつつ、きれいに盛り付けられた刺身をつまむ。
香織は足繁く通うお気に入りの和食料理屋『みやび』に来ていた。
店内に入ると横長のオープンキッチンが目の前に広がり、重厚感のある天然無垢材のカウンターテーブルが目を奪う。
六人がけのカウンターの他には、四人がけの座敷が二つと、奥に個室があるだけの小さな店だった。
香織はこの店に来るといつもカウンターの一番右端に座った。
真後ろが店の出入口なので冬場は戸が開くたびに寒い思いをするが、きれいな木目が一際目をひくその席をとても気に入っていた。
今日もいつものようにその席に座り、お猪口に入った日本酒をひとり呷っていた。
美味しいお酒に美味しい料理、そして時に店の大将となごやかに談話していると、日頃の疲れも消えていくような気がした。
香織は初めて来たときからこの店を気に入り、度々訪れるようになってから彼此もう二年になる。
店で使われる一枚一枚違う陶磁器の皿は、大将の好みで集められているのだと以前聞いてから香織は気にかけるようになった。
大将がお客さんに合わせ皿を選び提供しているのだと知った時は、大将のこだわりに感嘆したものだ。
今日のお皿も素敵だな、と皿を愛でるように撫でると、背後で扉が開く音がした。
「いらっしゃい!」
大将は人が好い笑顔を浮かべ、暖かく迎え入れるような優しい声を響かせる。
この優しい声がこの店の良さを増幅させているのだろうと感じながら、お香織は猪口に口をつけた。
「久しぶりやねぇ、今日はひとりかい?」
大将の声がかけられるのと同時に、隣の椅子が動いた。
正確には椅子ひとつ分あけた隣の椅子、そこにきれいな所作で座る人物に香織は目を奪われた。
「ああ。ここ最近、忙しくてね」
おしぼりを手渡され、控えめに微笑みながら答えるのは、赤い髪を携えた青年だった。
香織はお猪口に口をつけたまま、彼の一連の動作を盗み見るように見ていた。
横顔がとても端麗で、漂う雰囲気も落ち着いているのにどこか幼く見え、年齢的にこの店には不似合いだと感じた。
成人しているようだが、ここにひとりで来て酒を呷るような年齢だとはとても思えない。
しかし物腰が柔らかい様子に加え、悠々と話す彼の姿はこの店の雰囲気にとてもよく似合っていた。
下手すると女ひとりで居る自分の方が浮いているかもしれない。
香織はそう思案して少し居たたまれない気持ちになった。
それでもここで大将と談笑しながら飲む時間は好きだからと、香織は徳利に手を伸ばす。
徳利をつかむと思いの外すんなり持ち上がり、それは中身の少なさを伝えた。
「大将。次のお勧めのお酒、おねがいね」
「はいよ!」
大将の威勢の良い返事を聞くと、香織は徳利を傾け最後の一滴までお猪口に注ぐ。
店にある酒も全て、大将が気に入ったものや時期に合うものを仕入れているという。
香織はこの店で日本酒を知り、いつも大将のお勧めの日本酒を注文しては密かにその知識を仕入れていた。
「日本酒が好きなようだね」
不意に、隣から声をかけられた。
顔を向ければ、赤い髪を揺らす彼と、目が合った。
「……ええ」
突然のことに、香織は小さく頷くだけだった。
すると彼は大将に声をかけ、何やら大きな袋を手渡した。
「今日はお土産があってね。希少な日本酒を手に入れたんだ」
「よかったら彼女にも」と続ける彼は、香織に目を向けると優しく微笑みかける。
「え、そんな……」
香織は戸惑って思わず大将をちらりと見やった。
しかし、大将は受け取った袋から一升瓶を取り出して「おぉ…!」とひとり感動しており、香織の視線には気付かなかった。
その様子を見ながら彼は口を開いた。
「気にしなくていい。ひとりで飲むより誰かと飲むほうがいい」
「そや、飲んどき香織ちゃん、こりゃなかなか出会えへん酒や」
続けて大将までもが嬉しそうにそう言った。
それを見た彼は、きれいな紅い瞳を香織に向ける。
「一緒にどうかな?」
その目を見つめ、香織はただゆっくりと頷くしかなかった。
*
「大学生、か……」
彼がお裾分けと言って香織に渡した徳利は、もう空になっていた。
お猪口に残された最後の一杯を大事そうに飲みながら、香織は彼の肩書きを復唱した。
赤司征十郎と名乗った彼は、徳利を傾ける姿も、お猪口に口をつける仕草も、どれも優雅さを感じさせた。
若そうなのに洗練された感じはもしや年上ではと思わせる。
先ほどまで大将を介して会話をしていたが、大将が他のお客さんの方へと行ってしまい会話が途切れた。
そこで香織は、気になっていた質問を投げかけた。
何をしている人なのかと、純粋に興味が湧いたのだ。
「香織さんは社会人だね」
穏やかに微笑みそう問いかける彼、赤司は雰囲気を崩すことなく徐にお猪口を静かに啜る。
自分が知っている大学生はこんなにも落ち着いた雰囲気を持っていただろうか。
その姿を見て内心慄きながら、香織は答えた。
「うん、君から見たらおばさんかもね」
すると赤司は一瞬瞠目すると、真面目な顔で口を開いた。
「いや、同い年だと思っていたが……」
「……嬉しいお世辞ね。ちなみに赤司くんはいくつなの?」
「征十郎でかまわない。今年で二十三になる」
「そうなの? 思ったより近かったなー。わたし二十六歳だよ」
大学生なら二十歳そこそこなのかと思っていた香織は、この雰囲気でそれもないか、と心の中でぼやいた。
すると隣から彼の申し訳なさそうな声が響く。
「すまない、本当に同い年くらいかと思っていた……」
「ははっ、気にしないで。よく童顔って言われるし」
「いや、しかし……」
「征十郎くんも童顔だけど……でも君は落ち着いてるし、年齢不詳だって言われない?」
「ああ……たしかに、人によって反応は違うかな」
「やっぱり? 最初は未成年かと思って、でもさすがにないかーって見てたら私より年上みたいな雰囲気も持ってるし、全然分かんなかったよ」
お互いが勝手な印象でお互いを見ていたのだと知り、しばし顔を見合わせると堪らずふたりで笑った。
聞けば彼は六年制の大学に通っているため、同い年はだいたい社会人になっているのだそうだ。
それで同い年だと思っていたのに社会人だと言い当てたのか、と香織はひとり納得した。
すると隣からも同じように得心がいったというような声が聞こえた。
「どうりで落ち着いているのか」
「そう? 征十郎くんの方がとても落ち着いてると思うけどね」
自分の場合は年相応の態度だと思うが、若く見られていたのなら同世代よりは落ち着いているように思えただろう。
だが彼は見た目でも年齢でも、それは相応のものとは思えなかった。
「この際だから、もう敬語にしなくてもいいかな」
「気にしないでいいよ。むしろ話してると私の方が年下なんじゃないかって思うもの」
見た目はそうでも、彼の話す時の雰囲気は、威圧的な言い方もなく本当に物腰が柔らかいという印象を与えた。
思わず赤司と同い年であるはずの職場の後輩を思い浮かべる。
しかしそれは、今日の彼の子供っぽい仕草を思い出し、赤司との雰囲気の違いに戸惑うという結果に終わった。
気分を変えようと、香織は話題を変えることにした。
「このお店には、よく来るの?」
「ああ。大将は料理の腕もいいしセンスもいいからね、気に入っているんだ」
「私も、この店お気に入りなんだ。飲みたいって思ったらいつもここに来ちゃうの」
「──そうか」
相槌を返す彼は、口元を緩めとても穏やかな表情を浮かべている。
───その様子が、香織にはひどく印象的に映った。
たった一言の相槌だけだったのに、とても穏やかな時間が流れ、心地よささえ感じる。
そのことに、香織は内心ドキリとした。
自然と彼の魅力に惹かれそうになっている自分がいる───。
香織は手元に残された酒を見つめると、一瞬芽生えた感情ごと流し込むように、一気に飲み干した。
その後も、大将と赤司が勧める酒を飲み比べたりなどして、楽しいひと時を過ごした。
赤司は香織の好みを心得ているかのように、勧める酒はどれも美味しく、勧める料理も香織が気に入るものばかりだった。
会話も無駄がなく、話し続ける訳でもなく絶妙な間で食事に意識を向けさせてくれたり、ひとりで来ていることも楽しませてくれる。
素直に称賛したくなるほど、彼はスマートとしか言いようがなかった。
こんな人もいるなら世の中捨てたもんじゃないなぁ、などと感慨深く思いながら香織は最後の酒を呷った。
明日も仕事のためそろそろ帰ろうとした時だった。
大将に声をかけてしばらくすると、徐に赤司が鞄に手を伸ばした。
「もし良かったら……何かの縁だ、受け取ってくれないかな」
そう言って鞄から取り出し香織に手渡そうとしてきたのは、薄い木材で作られた小さな箱だった。
「え? いやいや、悪いよ」
突然のことに戸惑い首を横に振るも、目の前の彼は笑顔のまま「気にすることはない」と言う。
「自分用に買ったんだが、香織さんが使う方が似合うと思ったんだ。きっと気に入ると思う」
なかなか受け取らない香織に痺れを切らしたのか、赤司は香織の前に木箱を置いた。
これでもう君のだよ、と言われた気がして、香織はなんと反応したらいいのだろうかと頭を捻る。
「開けて見てくれ」
すると赤司は優しい声色を響かせ、促すように木箱の前に手をかざした。
ここまで言われたら、もう手に取るしかない。
香織はついに諦め箱に手を伸ばし取ると、ゆっくりとその蓋を開けた。
「わあ……!」
木箱の中には、とてもきれいな薄紅色のお猪口が入っていた。
形、大きさ、色合い。
どれもが自分の好みにはまっていて、一目で気に入った香織は感嘆の声をあげた。
「気に入ってもらえたかな」
「……とても、気に入ってしまいました」
香織が思わず敬語で心中を伝えると、赤司はくつくつと喉を鳴らして笑った。
「家やこの店で、使ってくれたら嬉しいよ」
その言葉でふと彼が持つお猪口へと視線が動いた。
彼は、マイ箸やマイボトルならぬ、マイお猪口を持ってきていたのだ。
鞄から小さな巾着を出し、さらに中から取り出したちりめんの小さな手拭いを彼が広げた時、香織はその中の物に目が釘付けになった。
前に年配の男性がマイお猪口で飲んでいる姿を見た時に、とても素敵だと感じたが、この年齢で彼はなんと乙なことをするのかと驚いた。
「……でも、本当にいいの?」
「ああ。気に入ってくれたんだろう? なら受け取ってくれ」
「ありがとう。大事に使うね」
香織はお礼を伝えると、しばし箱の中を見つめた。
軽く放心状態とも言っていい香織の姿に、一部始終を見ていた大将が笑みをこぼして声をかけた。
「良かったなぁ香織ちゃん。大事に使いや」
「あ、はい。大事に、します」
大将の声で我に返った香織は、会計を済ますと大事そうに木箱を鞄に入れて身支度を整えた。
「本当にありがとう。お裾分けで頂いたお酒も、美味しかった」
「喜んでもらえてよかったよ」
赤司は安心したような笑顔を浮かべ、
「気をつけて帰るんだよ」
と続けた。
その言い方も、年下に言い聞かすような言葉なのになぜか嫌な気持ちにはならず、素直に「ありがとう」と返した。
扉を開け一歩外に出ると、少しひんやりとした風が香織の頬をかすめた。
振り返り彼を見やれば、彼はまだ見送ってくれていた。
香織は小さく手を上げると、彼もまた小さく手を上げ応える。
そして優しい微笑みを携えて、呟くように、でもはっきりと、彼はその声を香織へと届けた。
「また、ここで」
act.01 会遇
扉を閉めた香織は、暫らくその場に佇んだ。
突然のプレゼントがなかなかの衝撃だった為か、幾分か酔いは覚めていた。
それでも頬に手をあて、自分の体温を確かめる。
酔いとは違う体温の上昇を感じていた。
年下なのに今まで出会ったどの男性よりも紳士的で、年上といるような安心感と、身近な人といるような心地よさを彼から感じた。
異性とこんなに心安らかに会話をしたのはいつぶりだろうか。
しかし彼はきっと、誰にでも分け隔てなくあんな風にスマートに接するのだろう。
そう思うと、感心すると共に言い知れぬ苦しさも感じ、それがどうしてか分からないほど子供でもなく、香織は余計に心苦しくなった。
たった数時間で、いや、一瞬で─────
遠くで、車のクラクションが響く。
ふと顔を上げ、小さくかぶりを振ると、香織はゆっくりと歩き始めた。
耳元で鳴り響く鼓動は、きっとお酒のせいだ。
だんだんと歩を進める速度が早くなるのは、少し肌寒いから。
華やぐ心は、きっと、あの木箱のせい……。
そう言い聞かせて、香織は家路を急いだ。
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2018/04/11 (2014.04.14)
(
Clap!)
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