カーテンの隙間から零れる朝日。
けたたましく鳴るアラーム。
それはいつもと変わらない日常が始まる合図だった。
目が覚めてアラームを消すと、重い身体を引きずるように動かしリビングへと向かう。
少し昨日のお酒が残ってるのかな、と頭の隅で思いながらリビングの扉を開けると、自然とテーブルの上に置かれている物に視線がいった。
ぽつんと置かれたそれは、昨夜のことを鮮明に思い出させる、四角い木箱……。
────不意に湧き起こる感情に、思わず顔をしかめた。
その感情は、自分の中でふわふわと宙を舞うように彷徨う。
自分でも持て余すこの気持ちを、香織は見て見ぬふりするしかなかった。
いつの間にか伏せていた顔を上げ、深く息をつく。
テーブルの上を目の端で捉えながら、香織は出勤の準備に取り掛かった。
混ざり合う甘い蜜
「ねえ、香織先輩」
もうすぐ就業時間になるという頃、隣の席に座る高尾が、デスクトップパネルの横からひょこっと顔を出して香織を呼びかけた。
「どうしたの?」
「先輩、昨日飲みに出てませんでした?」
高尾のいたずらっぽく笑う姿に、香織は首を傾げた。
「どこかで見かけた?」
「路地裏の店から出てくるところ、たまたま見ちゃいました」
「ああ、それで。高尾くんも飲みに行ってたのね」
「残業終わってから、少し飲んで帰ろっかなーって思ったんで」
いたずらに笑う彼は声を潜め、「主任には内緒ですよ」と言葉をもらした。
その口振りだと、上司である主任の誘いを断りプライベートの時間を優先させたのだろう。
笑顔だけで返事をすると、高尾は続けて口を開いた。
「あのお店、俺も前から気になってたんですよねー。今度連れて行ってくださいよ」
「……高尾くん、あんな感じのお店に興味あるの?」
どちらかと言えば彼は洋食系のお店やバーで飲んでいそうなものだと思っていた香織は、白提灯をぶら下げたお店には興味ないだろうと勝手に思い込んでいた。
それに彼の世代なら、比較的安めの居酒屋などに足を運ぶだろう。
あの店はよくあるチェーン店の居酒屋とは違い、こだわりのある、所謂少しお高めのお店だ。
客層も香織より年上が多く、香織自身もよく若い子がいると珍しがられる。
だから昨日、赤司が店に来たときは年齢的に不似合いさを感じたし、高尾も好き好んで行く場所ではないだろうと思っていた。
「チェーンの居酒屋とかは、さすがに飽きてきたんで」
高尾は香織の思考を読んだかのようにそう言った。
なるほど人に好かれそうな彼のことだ、きっと大学時代に本当に飽きるほど学生仲間と行ったのだろう。
ほとほと呆れたという様子で苦笑をもらす高尾を見て、香織もその気持ちも分からなくはないと思った。
香織が小洒落たお店に行くようになったのは彼くらいの年の頃だ。
「でもひとりじゃ入りづらくて」
「そうだよねぇ、場所も路地裏だから余計に入りづらいかも」
「それに先輩、なかなか一緒に飲みに行ってくれないですし」
またも口をとがらせ拗ねるように言う姿に、香織は昨日と同じように同い年である赤司と比べようとして、その思考をはたと止めた。
比べたところで彼らは違うのだから、と思うのと同時に、赤司をすぐさま思い浮かべた自分に困惑した。
「あ、大丈夫です。奢ってもらおうとか思ってませんから」
「それを気にしてる訳じゃないんだけど……そうだね、じゃあ今週飲みに行く?」
高尾は少し表情を曇らせた香織を見て何かを察したようだが、それは見当違いのフォローになった。
しかし説明のしようのない自分の思考を伝えることも出来ず、香織は仕方なしに飲みの約束を取り付けることにした。
仕方なしに、とは言っても香織はそれなりに考えがあってのことだった。
長らく異性との関わりを避けてきたから、昨日のような出来事にも簡単に動揺してしまったのではないかと思案していたのだ。
この際、他の異性とも接して、昨日の彼との時間が、彼だけが特別のようだなんて、そう感じてしまった自分の不慣れさを払拭しよう。
職場の先輩後輩という間柄ではあるが、自分の感情などあけすけにものを言う彼ならプライベートな話もしやすいだろう。
そんなことを考えている香織に、高尾は目を輝かせると少し声を上げて懇願した。
「うわ!いいんすか? じゃあ金曜日、あのお店連れてってください!」
「……とりあえず、先に仕事終わらそうか」
声を上げたことで視線を感じ、ふと顔を上げると上司と目が合った。
上司の睨みに気づき、香織は頭を下げると高尾を制してパソコンに身体を向け仕事に戻った。
高尾も軽く頭を下げて、いそいそとパソコンへと向き直っていった。
その様子を尻目で見ながら、香織は小さくため息をついた。
あの店に行くということは、また彼に会うかも知れないということ。
(もしまた彼に会って、わたし冷静でいられるのかな……)
香織は自分自身の問いかけに手を止めたが、胸騒ぎがしてその思考をとめた。
考えてはいけない、今は仕事だ、そう言い聞かせ息をつくと、仕事の手を動かした。
*
「やーっと、一緒に飲みに来てくれましたね!」
お疲れさま、と声をかけグラスを重ねると、高尾が満面の笑みでそう言い放った。
手に持つグラスを勢い良く傾け呷る姿は、やはり学生気分が抜けていないのだろうか。
ピルスナーグラスになみなみと注がれていたビールはテーブルに戻すと半分も減っていた。
その飲みっぷりだけは中年男性のそれにも似ていると思い、笑みをこぼしながら香織もグラスをテーブルに置いた。
小洒落たテーブルが並ぶ小ぢんまりとしたイタリアンバル。
その一番隅のテーブルに、ふたりは向かい合って座っていた───。
「金曜だけど、わたし行ったばかりだし、今回は違うお店にしない?」
「先輩がそう言うなら……じゃあ、俺のオススメの店、行きません?」
そんな会話をしたのはつい先日の仕事終わり。
赤司と鉢合わせするかもと思うと尻込みしてしまい、そう提案したのだった。
自分の気持ちに蓋をしたくて会いたくないのか、高尾といるところを見られたくなかったのか、この時の香織は自分でもよく分かっていなかった。
ただどうしても今、赤司と顔を合わすことは躊躇われ、出会うかどうかも定かではないのに、避けるように店を変更したのだった。
そうして今日、香織と高尾は揃って定時きっかりに仕事を終え、繁華街の少し外れにある高尾のお勧めだという店に来ていた。
前菜をつまみながら、高尾はこの店のお気に入りポイントを説明してくれた。
どうやらこの店は彼が学生時代から気になっていた店で、社会人になったら一人飲みデビューはここで飾るんだと決めていたという。
そしてそれを達成して以来、オーナーの人柄が良かったのもあるそうだが、この店がホームのような気がしてどこに飲みに行っても最後はここに立ち寄るのだと教えてくれた。
微笑ましい話に香織も自然と口元が緩んだ。
自分にとってそういった店は『みやび』なのだが、そんな風に外食を楽しむ人が他にもいたのかと知り素直に嬉しかった。
「会社の人でここ紹介したのは、先輩が初めてですよ」
「そうなの?」
「だってせっかくのプライベートの場所で、あんまり会社の人に会いたくないじゃないですか」
「わたしも会社の人だけどね」
「香織先輩は別ですよ」
にこりと笑い、彼はグラスに口をつけた。
香織は一瞬眉をひそめた。
それに気づかれないよう、すぐさま「ありがとう」とだけ答え、香織もグラスを傾けた。
聞きようによっては特別扱いをされたと思ってしまうような言い方だ。
しかし、きっと職場で一番身近な先輩だと懐いてくれているのだろうと捉えることにした。
自惚れるような思考はあまり持ち合わせたくない。
散々おだて上げられて、嫌な振られ方をした過去を思い出して香織は思わず目を伏せた。
「……先輩?」
様子が変わったことに気付いたのか、高尾が顔を覗き込むように首を傾げている。
しまったと思い瞬時に笑顔を作った時、ちょうど良く料理が運ばれてきた。
香織はそれを見て「美味しそうだね」となんでもない振りをして言った。
高尾もさほど気にした様子は見せず、運ばれた料理を店員の代わりに詳しく説明してくれた。
食が進めば、酒も進み、程よく酔いも進んだ。
高尾はネタが豊富なのか会話も途切れなかった。
相手の話を引き出すのも上手く、彼だけがしゃべり続けることもないし、香織の話にも相槌を打ちながら聞いてくれる。
営業向きだな、などと内心、彼を仕事面で評価していると高尾は新しい話題を振ってきた。
「先輩ってよくひとりで飲みに行くんですか?」
「そうだね、周りからは寂しい女って思われてるかもだけど」
「いやいや、格好いいなって思いました」
「お世話が上手だねぇ」
「本音ですよ。ひとりで飲むって、なかなかハードル高いですよ?」
「まあ、最初はひとりで飲みに行けるってだけだったんだけどね」
友人を誘うこともあるが思い立ったら飲みに行くことが多く、さすがに頻繁に、それもいきなり誘うのは気が引けた。
そして一人飲みの気楽さの味をしめると、いつからか好んでするようになった。
周りの友人からはそれの面白さが分からないと首を傾げられるが、香織はもともと一人旅なども好んでするタイプだったためそうは思わなかった。
それに、女友達との飲み会となると必然的に恋愛話になるため、それを避けるようになると余計に気軽さを感じたのだ。
するとまさにその嫌煙するネタを、高尾があっさりと切り出した。
「先輩って彼氏いないんですか?」
「いるように見える?」
「いると思ってました、美人ですし」
「……。(こういうところが、出来る子って感じよね……)」
顔色も変えずにさらっと言ってしまえるところが凄い。
感心しつつ、心の声を漏らさぬよう笑顔を作ってからお礼を返した。
嫌味でもなく口説いている様子もなく、彼は素直に人を褒めることが出来るのだろう。
仕事面だけに留まらず、人間性としても、人徳のある人だと香織は評価を改めた。
高尾に対する株がだいぶ上昇したところで、見計らったかのように彼は更に踏み込んできた。
「どれくらいいないんですか?」
「もうすぐ一年経つかなぁ」
「そうなんですね……うーん、聞くのやめとこうかな」
「なに? 答えれられる範囲なら、答えるよ」
「嫌だったら言わなくていいです……なんで別れちゃったんですか?」
気遣いながら聞いてくれたのはありがたいが、女子会を彷彿とさせるシチュエーションに香織は少し困惑した。
苦笑いを浮かべながらも「ご縁がなかっただけだよ」と伝えると、高尾もそれ以上突っ込んで聞いてくることはなかった。
しばらく彼の学生時代の話を聞き、途中から形を変えたグラスも空になった頃、
「ワイン、空になっちゃいましたね」
高尾がそう言ってカラフェを軽く振って見せた。
テーブルの上には、空のカラフェと空のワイングラスが二つ。
料理も全て食べ終わり、お酒もちょうど良く飲み切ったとなると……、と香織が思った瞬間、彼は続けた。
「先輩、まだ飲めます? 明日休みですし、もう一軒いきませんか?」
やはりか、と思いながらも断る理由もなかったので、香織は首を縦に振った。
「じゃあ出ましょうか。あ、出る前にトイレとか大丈夫ですか?」
笑顔でそう言われ、香織は一瞬瞠目した。
薄々勘付いてはいたが、彼は女性の扱い方をそれなりに知っているのだと実感させる一言だった。
化粧直しなど何かと気を使う女子の行動を理解している上に、思い返せば席に座る時も椅子を引くなどのエスコートをしてくれた。
これは結構な数の女性が転がされているのでは……と勘ぐりそうになったが、その様子を悟られないようにとそそくさと席を立った。
赤司のような紳士的というのとはまた違うが、高尾もまたスマートな男性だと呼べるだろう。
きっと赤司は男女分け隔てなく紳士的な態度で、どちらともから尊敬されるタイプだ。
高尾の場合は、女性からは異性として、男性からは同性として魅力的に感じられ、男女ともに、所謂“モテる“タイプだろう。
鏡に映る自分を見ながら、香織はふたりを引き合いに出し分析していた。
どちらとも要は魅力的な男性だ。
きっと世の中にはそういった男性は数多くいるだろう。
それなのに、どうしてわたしはあんな男に────。
ふと気づけば、鏡の中の自分は洗面台に手をついて暗い顔を携えていた。
いや、彼はとてもいい人だったんだ、別れるその日までは……。
付き合ってからずっと、いつもわたしのことを気遣ってくれる優しい人だった…なのに……。
そうやって別れてから一年経っても引きずっていることにため息がこぼれそうになったが、香織はかぶりを振り何とかそれを飲み込んだ。
しかし結局、化粧室を出た後にふとため息はこぼれ出たのだが、それは呆れではなく感嘆して出てきたものだった。
(最近の若い子って──────)
*
「最近の若い子って、すごいね」
「香織ちゃんも、まだまだ若いねんけどな……」
僅かに呆れた表情を滲ませた大将は、目をそばめて香織がご馳走したビールを啜る。
数時間前に心の中で吐き出された言葉が今になって声に乗って出てきたのは、気軽なひとり飲みをしているからだった。
香織が化粧室を出た後、戻ってきた香織に気付いた高尾は颯爽と出口に向かい、笑顔で扉を開けると香織に外に出るよう促した。
本当に無駄がないな、と感心しながらため息が漏れた。
しかし足を進めてすぐ、あれ、と気付いた。
だがその内に彼も外に出てスタスタと歩いていく。
「気になるBARがあるんです」と振り返る彼に、やっと状況が飲み込めた香織は思わず声を上げた。
「高尾くん!」
「……ああ、気にしないでください。誘ったの俺ですし」
「いや、誘ったのわたし。それに後輩に奢らせるとか、ちょっと……」
「また付き合ってもらえたらそれでいいです。今日は日頃のお礼ですから」
「いやいや、せめて半分は出させて!」
可愛い後輩にご馳走する気でいた香織はまさか奢られるとは思ってもみなかったため、出し抜かれた気分だった。
きょとんとしながら「気にしないで」と言った彼は本当に気にしていない素振りだが、さすがにこれは引くに引けず食らいつく。
「香織先輩」
しかし、そんな香織を制するように、高尾が少し声を落として立ち止まった。
「俺、男の子なんで」
その長身を少し屈めて顔を近づけると、目を細めて、優しい声色でそう言った。
「────っ」
頬の熱が上がるのを感じ、香織はぱっと顔を背けた。
顔の近さに恥ずかしさを感じたのもあったが、先輩風を吹かせようとしていたのに女の子扱い方をされたことがとても恥ずかしかった。
「行きましょうか」という彼の言葉を合図に、なんとか歩き出したが、香織は納得できずにいた。
仕方なく「次のお店ではご馳走させて」と言ったのだが、彼が余裕綽々で「わかりました」とだけ返すから余計に釈然としなかった。
なぜ彼のほうがこうも落ち着きはらった態度なのか────。
結局、二軒目に行ったBARでも彼がそつなく会計を済まして、香織はまた財布すら出させてもらえなかった。
高尾は近所だから徒歩だというが、香織は終電の時間があるからと、BARを出たところで解散した。
駅まで送るという彼の申し出を丁重にお断りして、最初は駅に向かうつもりだったのが気がつけば『みやび』に足を運んでいた。
そして、心の内に溜め込んでいた言葉をぽろぽろと声に乗せて吐き出していた。
「今時の子にしては、男気あってええと思うけどなあ」
遅い時間ということもあり、店内は繁忙時のような賑やかさはなく、まったりとした空間になっている。
それでも、繁華街の外れにある穴場スポットのような店だが客足は途絶えないようだ。
この時間でも座敷に一組いるし、奥にある個室からも話し声が聞こえる。
しかし料理ではなく酒が中心なのだろう、大将ものんびりとした様子で香織の話を聞いてくれていた。
こんな時間に来たのは初めてだったため、香織が顔を出した時の大将の反応はまず時計の確認だった。
終電を諦めたからと伝えると、始発の時間まで営業しているからゆっくりしていけと歓迎してくれた。
優しい大将に甘え、先輩として情けないと愚痴を零しながら啜るビールは二杯目になる。
「その子、この前ここでご一緒した赤司くんと同い年なの」
「ああ、征十郎とか」
「そうそう。彼もとても落ち着いてたし、最近の若い子ってみんなあんな感じなのかなって思ったら……」
「なんや、最近は受け身な優男が多いって聞くけど、そんなんより全然ええやんか」
「確かにねー。でも、なんか衝撃的で……異性に慣れてないのもあるんだろうけど」
香織は自嘲するように本音をこぼした。
「香織ちゃん、新しい彼氏はおらんのか」
「……当分いいや」
優しい声で問われたが、香織は投げるように言葉を返した。
大将が“新しい”と言ったのは、前の恋人の存在を知っているからだった。
別れてから一度もそのことには触れてこなかったが、大将は気にかけてくれていたのだろうか。
大将と目が合うと、しばしの沈黙が流れた。
そして徐に口を開く大将を見て、何か問われるのだろうと察して構えたが、その雰囲気は引き戸の音で掻き消された。
背後の扉が開く音と共に、冷たい風が流れ込んできた。
「いらっしゃい」
大将が声を掛けるのと同時に、なんとなく香織も振り向いた。
「こんばんは」
そこには、赤い髪の彼がいた。
まっすぐに向けられる紅い瞳と視線が絡まり、一瞬で思考が止まった。
「あ……こん、ばんは」
なんとか紡がれた挨拶の言葉は、掠れた声に乗って吐き出された。
彼は表情を緩めると以前と同じように、椅子ひとつ分あけた隣の椅子に手をかける。
しかし、一旦置いたその手を徐に動かし、
「隣、いいかな」
少しに控えめにそう言うと、彼は香織のすぐ隣の椅子に手をかけ直して、優しく微笑んだ。
act.02 交錯
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2018/04/13 (2014.04.14)
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