Grave -ソレは重苦しい音-
人や騒音が行き交う市街地から少し足を伸ばすと、そこには深々とした閑静な住宅街が広がっている。
自分の息遣いだけがやたらと大きく聞こえる空間。
日課のロードワークをこなしていた青年は、視界に映るものに違和感を抱き、その足を止めた。
静寂だけを運ぶように流れる川のほとりに、”それ”はいた。
いつものような底冷えは少し和らいでいるにしても、盆地と呼ばれるこの街の冬は寒い。
なのに目に映る”それ”は、明らかにこの寒空の下にはそぐわないものだった。
青年は眉をひそめて、しばらくその存在を探るように見つめていた。
だが一向に”それ”は動く気配を見せない。
訝しい様子があるわけではないが、存在自体が怪しさを放っている。
足を止めたのは自分だが、これは関わらない方がいいだろうと案じ、踵を返そうとした。
しかし、その時だった。
”それ”は突然振り返り、柔らかな印象を与える丸い瞳を見せると、その目でしっかりと青年を見据えた。
そして小さく、なのになぜかはっきりと聞こえる凛とした音で、”それ”は声を発した。
「あのっ!」
駆け寄る”それ”の足には、何もまとわれてはいなかった。
しかし”それ”はあまりにも当たり前のように、颯爽と駆け寄ってきた。
自分の方がおかしいのかと青年は一瞬眉をひそめ戸惑いを見せた。
「……あのっ!」
怪訝な様子を顕わにして”それ”を見つめていると、目の前にきた”それ”は青年を見上げ、また凛とした声を発した。
”それ”は驚いたような、しかし安心も混ざったような不思議な表情を携えていた。
「なにか?」
努めて冷静に返答すると、自分でも驚くほど低い声が出た。
その声を聞いた”それ”は一瞬肩を震わせ、小さい歩幅で一歩遠のいた。
それでも何か意を決したと言わんばかりに大きく息を吸い、もう一度しっかりと目を合わすと、その言葉を吐き出すように紡いだ。
「あのっ!ここって、その……どこですか……?」
「……」
それが、彼女との出会いだった。
キミノオト
「それはなんというか……可哀想だね」
「はい、困りました……どうしたらいいでしょうか?」
青年は少しばかり困ったように呟いた。
すると彼女は、潤ませた目を青年に向けて、心底困ったという顔で問いかけてきた。
先ほどからこの会話、主に彼女からの問いかけは、何度繰り返されたことだろうか。
ベンチの端に深く腰掛け、彼女の話を聞いていた青年、赤司征十郎は、顎に手を添えて思考を巡らせていた。
最初の問いかけから、かれこれ一時間ほどは経っている。
目の前に広がる水面は赤く染まり、川の周りの家屋や飲食店の看板に明かりが灯り始めた。
赤司の思考回路に点在する彼女は、ベンチの隅に座り、心許ないのだろうか両足をぷらぷらと揺らしている。
側から見れば、二人仲良く並んでベンチに座っているように見めるだろう。
だが実際はそんなことはないのだと、赤司はその事実をしっかりと受け止めていた。
*
────遡ること一時間。
「あのっ!ここって、その……どこですか……?」
彼女が大きく息を吸った割には尻すぼみに、そして気の抜けるような問いを仕掛けたところから、この状況は始まった。
思わず呆然とした赤司だったが、すぐに立て直し冷静にここの土地の名を伝えた。
しかしその名を理解されることはなく、なおも詳しく伝えるが返事は分からないの一点張り。
そもそも彼女はこの近辺の地名を知らなすぎた。
知らないだらけでは迷子になる要素しかないが、どうも違和感を感じ、赤司は少し大きい範囲で地名を伝えた。
「ここは京都だ。そう言ったら分かるか?」
「きょうと?きょうとって、あの京都?」
「君の知る京都と僕の知る京都が同じかは分からないが、日本にある京都だよ」
「京都かー……」
「そっかー……」と、呟きながら周りを見渡す彼女。
どうしたら自分の居場所がその規模で分からなくなるのだろうかと、赤司は軽く首を傾げた。
しかしまず気になることが、咎めたいことが、彼にはあった。
それは一番最初に抱いた違和感。
「君は、寒くないのか?」
「え?」
きょとんとする彼女は、なぜそう聞かれたのか分からないといった様子だった。
だが明らかにその姿は赤司から見れば異質だった。
「こんな真冬にワンピース姿で裸足……とてもまともな神経を持ち合わせているようには思えないんだが」
「わっ……結構きついことさらっと言うね」
「一般的な感想だと思うけどね」
そう、彼女は白いノースリーブのワンピースに裸足の姿で、川のほとりに佇んでいたのだ。
この寒空の下でそれはひどく目を引くものだった。
彼女は首を竦めて、僅かに警戒心を込めたような目を向けてきた。
しかし、赤司はそんな彼女の視線を物ともせず、眉をひそめてまるで品定めするかのように上から下へと目を動かす。
すると彼女は、何かを諦めたような口調で言葉を続けた。
「やっぱり冬なんだねぇ。ここ通った人、みんな寒そうにしてるからそうなのかなぁって思ってた」
「寒さを感じないのか?」
「うーん。寒いような気もするんだけど……わかんないっ」
最後の言葉は、もはや投げやり気味な言い方だった。
「普通の人なら、君の姿を見ただけでも寒いと感じるだろうね」
そうため息混じりに言うと、彼女はへへっと笑いながら首をこてんと横に倒した。
最初の怪しさからは想像していなかった幼い笑顔に、思わず赤司は警戒心を緩めた。
しかし印象が訝しいから奇妙へと変わったにすぎず、これ以上はあまり関わらないほうがいいだろうと思案した。
先ほどまでロードワークをこなしていたが、火照っていた身体は徐々に熱を失い指先の動きも鈍り始めていた。
年の瀬も迫り、つい先日にはこの街でも初雪が降ったという季節だ。
なのに彼女はこの寒さが分からないと口にした。
実際、息を吐き出せば自分の口からは白い息が零れでるのに、彼女からは、それが見えないのだ。
奇妙でしかない存在だ。
未だ周りを見渡している彼女を一瞥し、赤司は立ち去ろうと口を開いた。
「もういいかな」
その声に、彼女ははっとした表情で赤司を見つめた。
そして途端にその表情を歪めると、
「どうしたらいいと思いますか……?」
と、泣き出しそうな声色で呟いた。
その姿に赤司も、さすがに自分よりも年下であろう少女をそのまま放置しようなどとは考えていなかったので、
「近くに交番がある。そこで助けてもらうといい」
そう言って、交番まで案内することを伝えた。
どんな理由があって見知らぬ土地にいるのかは疑問が残るところだ。
だがこの場合、どうしたらいいかと問われたら頼るのは一般市民より国家機関のほうがいいだろう。
しかし交番と聞いて彼女は顔を曇らせ口をつぐんだ。
家出少女なのだろうかと逡巡するが、どのみちこのままでは埒が明かない。
「どこに行くつもりだったのか分からないが、知らない場所で立ち往生していてもどうしようもないだろう」
「そうなんですけど……」
「僕としても、君がこのまま寒空の下で凍えながら一晩過ごして、結果死なれたとあったら後味が悪い」
凍えるのかどうかは知らないが、と心の中で独りごち、赤司は彼女に視線を落とす。
なるべく優しい声色で諭したつもりだったのだが、彼女は怯えるように立ち竦み、動こうとしない。
様子を見ようと赤司も口を閉ざすと、暫く無言の空間が広がった。
その沈黙を破ったのは、零れるような小さな声だった。
「……無理、だと、思います」
突然の否定は、脈絡がなかった。
「無理? 何がだ?」
「えっと、その……無理、だったんです……」
……だから何が無理なのだろうか。
困惑しつつも、赤司はその疑問をそのままぶつけた。
「何がどう無理だったのか分からないんだが」
「……わたしも分からないんです」
「……」
赤司は言葉を失った。
話が読めないというより、驚くほど会話が成立しない。
仕方なく、少しでも彼女の情報を聞き出し対処法を考えようと赤司は根本的な質問をしてみた。
「そもそも、なぜそんな格好でここにいるんだ?」
寒さを感じないにしても時期にそぐわない夏服で、なぜ見知らぬ土地にいるのだろうか。
すると彼女は呆けたように首を傾げると、徐に項垂れてその首を横に振った。
「それも、分からないんです」
「どうして?」
「気がついたらここにいたから……」
その言葉を聞いた赤司は、もしや……と瞬時に思案した。
「どこから来たか分かるか?」
「……分かりません」
「どこに住んでいたかも?」
「……えっと、分かりません」
「そうか。では君の名前は?」
「……なまえ?」
次は怪訝そうに首を傾げた。
思った通りの反応に、赤司は小さく息を吐いた。
「やはり、警察に行くことをお勧めするよ」
「……?」
不思議そうな表情を浮かべた彼女を一瞥し、赤司は続けた。
「どうすればいいかと聞いただろう」
「警察に行ったら、どうなりますか?」
「君がどこの誰なのか、調べてくれるだろう」
どうやらこの奇妙な少女は記憶がないようだと悟り、赤司は常識的な助言をした。
しかしこの後に返された彼女の言葉で、常識というものがここでは通じないことを知らされる。
「でも、私に気付いてくれたのも、お話できたのも、お兄さんが初めてだから……」
赤司は思わず顔をしかめた。
腕を組み、顎に手を添えるとそのまま押し黙った。
何も話さなくなった赤司に対し、彼女は目をキョロキョロと動かし戸惑いを顕わにする。
その様子を映す赤司の目は、何も寄せつけないような厳粛さを帯びた光を放っていた。
彼女は狼狽えることをやめ、ワンピースの裾を両手でぎゅっと握って立ち竦んだ。
そんな彼女の姿を前に、しばしの沈黙を作った後、
「……失礼」
と言って、赤司は彼女の左肩に触れようと手を伸ばした。
─────しかしその手は、何もつかむことはなく。
するり、と彼女の体を通り抜けた。
「……幽霊というのは、本当にいるんだな」
一瞬の出来事に瞠目しながらも、赤司は思いの外落ち着いた声でその感想を述べていた。
さすがに多少は驚き、暫く宙に浮いた手をそのままにしていたが、すっとその手を戻すと徐に近くにあったベンチに腰掛けた。
「君も座るといい」
「え……あ、はい」
戸惑いながらも素直に応じた彼女は、そうして赤司の隣に腰掛けたのだった────。
*
彼女が隣りに座るのを確認した赤司は、いつからここにいるのかと聞いたがやはり答えは「分からない」だった。
ただ、日が明るい頃からいるということは会話をしていく内に判明した。
今は日も傾き冬の澄んだ空は綺麗な夕焼けを映している。
何日も何年もいるわけではないようだ。
赤司と出会うまでの間、彼女は幾度と無く通る人に声をかけたが誰も自分に気付いてくれる人はいなかったと言う。
しかし赤司だけがその足を止めてくれたのだと、小さく微笑みながら彼女は話した。
なるほどだから無理だと述べたのか……と、赤司はひとり納得していた。
俄には信じがたい話ではあるが、最初の訝しい印象から奇妙な子だと思った彼女は、本当に奇妙な存在だった。
『たぶん幽霊』という、曖昧でしかも物理的に存在しないであろう物体なのだが、目の前にいるので認めざるを得ない。
実際、彼女に触れることは出来なかった。
これは彼の友人のひとりが確実に「有り得ないのだよ」と一蹴りするであろう出来事だ。
だが赤司はとても冷静にそのことを受け止めていた。
それでも、さすがに完全無欠だと謳われる彼でも最後の問いかけには当惑していた。
彼女はどうしてここにいるのかも、なぜ幽霊のような存在なのかも分からないと言って項垂れていた。
なんの記憶も持たないそんな彼女に、赤司は可哀想だと述べるほかなかった。
こういった事柄には勝ち負けもなければ頭が良かろうと家柄が良かろうとそれは何も意味を成さない。
そこで最後の「どうしたらいいでしょうか?」というダメ押しの問いかけ。
全てにおいて完璧にこなす彼でも、これにはさすがに閉口した。
「君はどうしたい?」
どうすることも出来ない赤司は、彼女が自ずと解決策を見出す流れを目指した。
「どうしたい……でしょうか」
潤ませた目はそのままに、他人ごとのように呟く彼女を見て赤司は諭すように優しく言葉を続けた。
「これは君自身の問題だ。申し訳ないがオレにはどうしてやることもできない。どうしたいかが分からないなら、逆から考えるといい」
「……逆から?」
「ああ。例えばこうなることは避けたいだとか、これは嫌だということがあれば、それをしない行動をとればいい」
「うーーん……」
彼女は難しいと言わんばかりに眉間に皺を寄せ唸った。
単に意味を理解していないのか、理解した上で答えを導くのに難航しているのか……。
赤司は話を進めようと勝手に後者だと捉え答えを促した。
「避ける行動があれば自ずとやるべきことが分かってくるはずだ」
「じゃあ……たとえば、自分が分からないのがイヤっていうのもそういうこと?」
「……そうだな。ならば自分が誰なのか調べることから始めたらいい」
やはり、何も分からなければ自分のしたいことなど分かるはずもないか、と僅かに苦笑すると、優しい声色で赤司は答えた。
「どうやって調べたらいい?」
「まずは……ここ最近の事故や事件を調べてみるといい。被害者の中に君がいるかも知れないからね」
「わたし、事故にあったの?」
「それは分からない。でももしかしたら君が誰か分かるかもしれない」
「分からなかったら?」
「その時は違う方法で調べたらいい。そうやってすることを決めていくと行動しやすくなるだろう」
「なるほどー」
自分のことのはずなのに、彼女はまたも他人ごとのように感嘆の声をもらした。
そんな彼女を一瞥して、赤司は気になっていたことを告げた。
「まず、本当に最近そうなったのかも疑問だな……」
その言葉に彼女は興味を示したのか顔を寄せて問いかけてきた。
「どうして?」
「その服装だ。どう見ても夏服だろう」
「じゃあわたしは夏に死んだの?」
「それはオレにも分からないな」
赤司が肩をすくめて答えると、彼女は「そうだよね……」と小さく呟き、思案顔でたゆたう水面に視線を向けた。
綺麗な夕映えを携えていた水面は、すでに暗闇を映している。
話している内にだいぶ日が落ちていた。
二人で街灯の光で僅かに輝く川を眺めていると、彼女は徐に口を開いた。
「わたしね、死んでないと思うの」
そもそも死んだ記憶もない彼女からしてみれば、死という事象を受け入れることは難しいのだろう。
自分は死んでいないと思うのは当たり前かもしれない。
赤司は無意味に刺激することを避け、彼女の言葉に同意するように頷いた。
「そうかもしれないな」
「そうだよ。だってね、ずっと重たい音がするの」
「……重たい音?」
「うん。深いところから耳鳴りがする感じ。でも違うところから耳に入ってくるの」
彼女の独特な感性なのだろうか、把握しづらい説明に赤司は首を傾げた。
「違うところから聞こえるのか?」
「ここじゃないところから、聞こえるの」
「確かにここでは騒音は聞こえないな。重低音もオレには聞こえない」
「ううん。重低音とかじゃないの。静かで、でも苦しいような……重たい音なの」
「……難しいね」
それは理解し難いという意味で赤司は呟いた。
しかし、感覚的な言葉を織り交ぜたやり取りは、ふいに彼女の真剣な声色によって打ち切られた。
「これ……わたしの名前かなぁ……」
彼女は誰に言うでもなく、独りごちた。
自分には分からない彼女の意識の話。
赤司は記憶と対話しているのだろうと思い、その様子を静かに見守った。
そして水面に目を向けたままの彼女は、暗闇からなにかを見つけ出すかのように目を細めた。
「名前って、聞こえるの……これ、私の名前なのかな……」
消えてしまいそうな小さな声で、彼女はそう呟いた。
彼女の瞳から、溢れ出そうに揺れる涙が光った。
気が付けば、赤司は彼女の頬に手を伸ばしていた。
だが、やはり彼女に触れることは出来ず、嗚咽を漏らす彼女を静かに見つめることしか出来なかった。
彼女にしてやれることはなにもない。
そう、彷徨う手を軽く握りしめた──その時。
不意に、指先に違和感を感じた。
手を開き、その存在を確かめる。
赤司はもう一度、求めるように、彼女へとまた手を伸ばした。
Grave -ソレは重苦しい音-
その手はまた虚しく空を切ったが、指先には、確かに彼女の涙が伝い流れた。
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幽霊夢主
という設定でもう出オチしている感が否めず
数話書いてお蔵入りにしたおはなし
2018/12/01(2013.12.24)
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