Adagio -ソレは緩やかな関係-


休日の昼間、部屋で書き物をしていると控えめなピアノの音が聴こえてきた。
赤司は手を止め、しばしその音に耳を傾けた。

「今日はカノンか」

そうぽつりと呟き、口元を緩めた。
目を伏せその音色に溶け込むように、穏やかな旋律に合せ呼吸をする。
時々弾むような音が聴こえ、赤司は彼女の姿を思い浮かべひとり笑みを零した。






────彼女を家に招いた日。
広い家だとはしゃぐ彼女に好きに使うよう伝えると、彼女は家中の扉を開けて回った。
その時ひとつの部屋でピアノを見つけた名前は、とても喜んだ。

「きっとピアノが好きだったんだよ」

その物言いは他人事のようだったが、飛び跳ねるようにピアノのそばへと駆け寄ると、愛おしそうに光沢のある鍵盤蓋に触れた。
そして、ゆっくりとその蓋を開けた。

「……触ることが出来るのか」

思わず零した言葉に、彼女は目を瞬かせた。

「あれ、ほんとだね」

そう零すと、はにかみながら彼女は優しくピアノを撫ぜた。
思えばベンチにもしっかりと座っていたし、先程も扉を開けていた。
彼女のほうからは触れることが出来るらしいと知り、赤司はそれならと名前に提案した。

「なら、なにか弾いてみたらどうだ?」

「弾けるんだろう?」と続けて聞くと、彼女は椅子に座り、穏やかな表情で鍵盤を見つめた。
人差し指でひとつひとつ鍵盤を確認するように撫ぜると、徐に両手をかざした。
ゆっくりとした動作で、鍵盤の上に手を置く。

すると、彼女を取り囲む空気が一瞬にして変わった。

ふわふわとした空気を纏っていた彼女は、背筋を伸ばし、慈しむように瞳を閉じて鍵盤に触れている。
その姿は、澄み切った水の底をすっと泳ぐ魚のように、雄大な自然のなかを風に乗って飛ぶ鳥のように、とてもきれいな姿だった。

「鍵盤、冷たいね……」

そう小さく呟くと、彼女は笑うような、しかし今にも泣き出しそうな表情を浮かべた。
その歪んだ顔でさえ、赤司には神聖なもののように映った。

彼女は最初の音を、大切なものを扱うかのように、静かに響かせた。
少し力を加え押した鍵盤。
それはちゃんと反応し、音を奏でた。
わっと、感嘆の声を漏らすと、彼女はゆっくりと弾き始めた。
嬉しそうに弾く彼女の様子を静かに見ていようと、赤司は近くにあったイスに腰掛けてその姿を見つめた。

彼女が放つ雰囲気はとてもきれいだった。
歪みがない、まっすぐな音と空気は、緩やかに二人がいる空間を包み込む。
赤司は目を閉じてその空間に浸った。

暫く聴いていると、所々で跳ねるような音を奏でることに気付き、彼女の顔を見やる。
リズムが弾む瞬間、その表情は少し拗ねるような、むっとした表情になる。
彼女の苦手な所なのだろうと思うと、思わず笑みが零れた────。






それ以来、名前は毎日ピアノに触れた。
今まで粛然としていた家を彩るかのように、その音は家の中に響き渡る。
今日も所々で弾む音に耳を傾けつつ、赤司はペンを走らせた。










キミノオト











どうしたらいいかと途方に暮れていた時、彼と出会った。
目が合うということだけで、幾分か心が晴れた。
なんとなくだったが、彼は解決してくれるんじゃないかと思った。
しかし、自分が曖昧な存在なのだと言われ、名前は戸惑った。
たしかに自分自身の記憶はないが、死んだ記憶もないのだから幽霊だなんて信じられなかった。
そしてどこからか聞こえる重苦しい音は、記憶のない名前をさらに動揺させた。

「名前というんだね」

困惑する名前に、彼は優しい音色を奏でるようにその名を口にした。
馴染みのあるものに聞こえたそれに、名前はゆっくりと頷く。
彼の声色で落ち着き始めた名前は、自分の鼻をすする音さえも響く空間の中でしばし呆然とした。

冬の日暮れは早く、気付けば周りはあっという間に暗闇に包まれていた。
暗闇と静寂が二人を包み込み、月明かりに照らされた水面は名前の表情と裏腹にキラキラと輝く。

「どうしよう…………」

無意識に漏らしていた言葉は、もう問いかけではない独り言のようなものだった。
どうしたらいいかと思っていたが、これはどうしようもない事態ではないかと名前は嘆くことしか出来なかった。
隣に座る彼は呆然とする名前を横目で見ると、何かを考えるかのように顎に手を添えた。
そして徐ろに、ぽつりと言葉をこぼした。

「オレの家にいても構わないが……」
「……お兄さんの家?」

それは思いもしない提案だった。
すると彼は微笑し、

「征十郎だ」

と、先程と変わらない優しい音色で言った。

彼の名は赤司征十郎といい、家は自分ひとりしか住んでいないから構わないと言った。
行く宛てもなく自分のことを調べるにもここにいては仕方が無いと思った名前は、すんなりとこの提案に乗った。

途中、もし地縛霊という類だったらこの場所から動けないんじゃないか……という赤司の言葉に不安に駆られたが、それは杞憂に終わった。
どうやら地縛霊ではないらしい。
まず自分は死んでいないと思っているので、地縛霊というのは違うと名前はその後抗議した。
もしものことを考えるのも大切だとさらりと返され、大人だなぁと、名前はあっさりと諭された。
自分より年上だと思っていた彼は、道すがら大学生だということを教えてくれた。
ならば自分は高校生くらいだろうか。
自分では中学生ではない気がするのだが、彼はそれには口を閉ざした。
自身の容姿は自分の視界に入る首から下しか分からない。

「高校生には見えない?」

そう聞くと、

「そうだな……高校生にしては、少し……幼い顔立ちに見えるな」

少し眉を下げて彼はそう答えた。
気を使わせてしまったことに名前は申し訳なさを感じ、それ以上そのことは口にしなかった。

赤司の家に着くとそれは豪華な建物で驚いた。
大学生のひとり暮らしというのはマンションの一部屋だと思っていた名前は唖然とした。

「お金持ち?」

思わず短絡的な感想をこぼしていた。
くすりと微笑する赤司の反応を見て、素直に聞いてしまったことに恥ずかしさが込み上げた。
しかし赤司は何も答えず、玄関の鍵を回し扉を開くと、中に促すように優雅に手を動かした。

「好きに使うといい」

中に入ってすぐ部屋中を見渡す名前に彼はそう言った。
聞くと彼の実家は東京で、高校から京都に来ていて、そして今はこの別宅にひとりで住んでいると言う。
ついでに、家政婦が週に何度か来るがその時だけ気をつければいいだろうと、彼は平然と言い放った。
お金持ちで間違いないらしい内容に、名前は慄いたがそれはすぐに消え去った。

好奇心から目に入る扉を開けて回り、ひとつの部屋の扉を開けた刹那。
名前はその空間の奥から風が駆け抜けるような衝撃を覚えた。

「征十郎!」

思わず彼の名を呼び、興奮を隠すことなく捲し立てた。

「ピアノがあった!征十郎のピアノ? 征十郎はピアノ弾くの? それなら弾いてみて!」

そんな名前の唐突な申し出にも、赤司は動じることなく返答した。

「オレのではないよ。弾くのは構わないが、名前はピアノが好きなのか?」

その質問には言葉が詰まった。
なぜ衝撃を感じたのか、なぜこんなにも心が弾むのか、名前には理由が浮かんでこなかった。
それでも、ピアノを見ると気持ちが高揚することだけは確かだった。
何を弾けるのかも分からなかったが、いざ盤に触れると指が勝手に動いた。
いくらでも弾いていたいと思った。
それから毎日、赤司が家にいるときだけピアノを弾くようになった。

赤司がいるときだけというのは、彼にそう言われたからだった。
最初は首を傾げたが、誰もいない家からピアノの音が聴こえたらきっと近隣の人が訝しがるだろうからと、そう言われ納得した。

そして、一人で外に出ることもなるべく控えるように言われた。
元々土地勘のない名前はひとりで出ることに躊躇していたので素直に応じた。
図書館や警察署に行って密かに調べることを考えたりしていたのだが、外で物を持つことに対し赤司は難色を示した。
家の中では普通に過ごしているが、もしかしたら赤司以外の人間が見たら、名前が持つものは宙に浮いている状態かもしれない。
赤司はそれを懸念した。
騒ぎになってもそこに幽霊がいると噂が立つだけのことなのに、そう言うと、余計な混乱を生じさせるだけだからと、外に出ても物を持たないよう繰り返し言われた。

その代わり、赤司は毎日たくさんの新聞を持って帰ってきた。
過去の新聞を大学から譲り受け、それを名前に渡してくれた。
毎日、順々に遡って行く新聞を読むのは名前の日課になった。
自分が関わっていそうなニュースはネットで検索して、写真や詳しい内容を確認した。
少し面倒なことは、名前は自分の顔が分からないので赤司が帰宅したら確認してもらわなければならないことだった。
名前の姿は、鏡には映らなかったのだ。

新聞を確認し終わると、本を読んだり庭に出て歌を歌ったりして過ごした。
初めて家政婦と出くわした時、何にも触れてはいけないことに気付いた名前は変に物音を立てないようにと、庭に出て歌を歌って過ごした。
それ以来、赤司がいないときにピアノが弾きたくなると、替わりに歌うようになった。

本を読むのも嫌いではなかった。
赤司の家には沢山の本があり退屈しなかった。
そして時々、読み進めてふと知ってる内容だと感じる本に出会うことがあった。
きっと読んだことがあるのだろうと、それを見つけたら赤司が帰宅すると必ず報告した。
それは彼に、何か思い出したり自分に関わる情報があれば教えるように言われていたからだった。

そうして毎日が過ぎて行った。
しかし自分に関する情報はなにもつかめないまま、赤司の家に来てひと月近く時が経っていた。











「征十郎はいつも忙しそうだね」

名前はリビングで課題をする赤司の側で、床に広がる絨毯の上に新聞を広げていた。
それは日課となる夜の寛ぎの時間だった。
名前は知らないことだが、夕食を済ますと赤司は部屋には戻らずリビングで大学の課題をこなすようになった。
そんな寛ぎの空間の中、名前はいつも思っていたことをふと口にしていた。
だが赤司はなんのことかと言わんばかりに、いつもの冷静な物言いで答えた。

「いや、そうでもないよ」
「……でも、あんまり家にいないから……」

この時間は一日の中で唯一、二人が一緒に居てゆっくりと過ごす時間だった。
しかしあまり会話はなかった。
時々、名前が読めない文字に首を傾げると、すぐそれに気づき彼はその文字の読み方を教えてくれた。
だが赤司は課題をしているため、名前はなるべく邪魔をしないようにと話しかけないでいた。
彼から話しかけることもめったにないので、とても静粛とした時間だった。

それでも、名前にとってこの空間はとても心地良いものだった。
彼が持つ空気がそうさせるのか、赤司のそばにいると名前はとても安心感に包まれた。
自然に向き合ってくれる赤司のおかげで、自分が不確かな存在だということを不安に思うこともなかった。
全く不安を抱かないと言えば嘘になるが、その気持ちに押しつぶされそうになることはなくなった。

きっと赤司と出会わなかったらそれは生き地獄でしかなかっただろうと想像し、名前は首を竦めた。
そんな名前を見て、赤司は顎に手を添えると徐に口を開いた。

「明日は一日休みなんだ。用事はあるが、午前中に終わる。午後は出かけよう」

その言葉に名前は口を開けて固まった。
最後のそれは、言外に名前も一緒だと伝えた。
次第に顔を綻ばせると、すっくと立ち上がり名前は言い放った。

「行く!」

威勢のいい返事に赤司は目を細め頷くと、今日は遅いから寝ようと言い、名前を寝室へ行くよう促した。

毎日、赤司は名前が寝室に使っている部屋まで付き添い、名前が布団に入るのを見届ける。
そして必ず、「おやすみ」と声をかけてから彼は自室へと戻る。
名前はそうしてもらうことがくすぐったくて、でもとても気に入っていた。
そして彼が用意してくれたベッドは綿菓子のようにふわふわしていて、そのことも名前のお気に入りだった。
名前はこの日、この家に来てから初めて外に出ることになったことが嬉しく、ついいつもよりマットレスを弾ませてベットに潜り込んだ。

「おやすみ」

その姿を見て小さく笑みを浮かべると、そう言って赤司は部屋の扉を閉めた。
離れていく足音を聞きながら、名前は明日に思いを馳せ瞼を閉じた。







Adagio -ソレは緩やかな関係-








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2018/12/14(2013.12.24)

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