「よぉ〜なまえちゃんっ」
綿毛のような浮雲が漂う秋晴れの空の下、背後からリズミカルに聞こえてきた自分の名前。
釣瓶竿を握る手にぴくりと余計な力が籠るが、構わず井戸底に沈めた桶を引き上げる。
「いやぁ気持ちのいい朝だこと。ぐっすり眠って酒も残らずいい目覚めだぜ」
樽に水を移し終える間、そのままどこかへ通り過ぎてくれたらと願った足音が徐々に近付き、背後で止まった。桶を手放し両手を空けて、深呼吸。
「今日の朝メシなーに?串焼きってまだある?俺昨日食いそびれてさ〜」
「…んでした」
「へ?」
「昨日はたいッッへん失礼いたしましたッ!!」
「…あー…」
踵を軸に半回転、すっかり見慣れた長靴に勢いよく頭を下げた。力の抜けたような、気不味そうな声に居心地の悪さが爆発して、直角近くまで折っていた腰をさらに深く折り曲げる。
杉元さんに連れられ元の席に戻り、残りのサヨを食べ終えた時にはまだなんとも思わなかった。結局食事の後片付けに参加することは許されず、最低限の寝支度を終えアシㇼパさんの隣で横になる頃には自分のしでかしをうっすら気取りつつも、正気に戻る前に意識を手放した。
そして今朝。何一つ失われなかった記憶により頭から被った毛皮の中で悶絶しかけたことは言うまでもない。
「働いた無礼と晒した醜態の数々、さぞご不快な思いをされたと存じます!どのようなお叱りやご指摘も重んじて受け入れる所存ですッ!!」
後悔罪悪感自己嫌悪、怒涛の勢いで押し寄せる感情に奇声を発したくなるのを堪えて謝罪を述べる。ところが返ってきた呆れ声には、怒りや冷たさは感じられなかった。
「…ったく、朝っぱらから無駄に重っ苦しい空気なんて勘弁してくれよ。せっかくの気分が台無しじぇねえか」
「だって、だって…!」
「あんな酒の失敗可愛いもんだって。俺が前にやらかした話聞く?」
「白石さんと比べてたらどんどんダメ人間になっちゃうっ…」
「せっかく人が慰めてやってんのにヨォ」
程々長い付き合いとなった今、白石さんが昨日の出来事を重く受け止めずにいてくれていることは分かってはいたが、言葉と態度で明確に示されどっと押し寄せる安堵。それでも私が大失敗を犯したことに変わりはなく、頭の中では昨夜の醜態が延々と繰り返される。
貴重な酒を湯水のように飲み続けるわ、礼儀の欠片も無い振る舞いで方々に絡むわ、デリケートな話題に訳のわからない持論を展開するわ、挙句公衆の面前で厚かましくも先生へよ、夜の世話を頼みかけるわ
──ああ、恥ずかしさと申し訳なさで爆発しそう。穴があったら入りたいとはまさにこのことだが、咄嗟に思いついた穴は昨日のうちにトンネルへ変わってしまったし、そもそも今日は看守のカドクラさんとやらに話を聞きにいくので私がトンネルを占領できる時間はない。
冷静を欠いた頭で、手前勝手を承知で希う。
「白石さん…こんなことお願いできる立場にないことは百も承知なのですが、どうか、どうかこの件はこのまま胸に仕舞っておいていただけないでしょうか…!」
「えぇ〜?俺は昨日の提案けっこうほん
……あーもう、わーったわーった」
顔を上げたらニヤニヤ笑っていた顔がぴしりと固まって、ため息を吐きながらぐりぐりと頭を撫で回された。ひとまず承知してもらえたことに心から感謝し、白石さんの今来た方向が厠であることについては言及しないことにした。今晩は髪を洗おう。
「じゃ、俺先戻るぜ。朝メシもうまいもんよろしく〜」
「はーい…」
どうせなら水を運ぶのを手伝ってくださいなんてお願いできる状況ではないので、後ろ手に手を振り立ち去る背中を大人しく見送った後、最後の1汲みのためにもう一度桶と竿に手をかける。
チセに戻って朝食の支度をある程度済ませたら、時間をもらって先生方にも謝罪に行かなければ。勝手な話だけど、あの場にいなかった谷垣さんたちを気まずい空気に巻き込むことは避けたい。
なお今朝のうちに謝罪したアシㇼパさん杉元さんキロランケさん大叔母様からは「気にしなくていい」と優しいお言葉を頂戴したが、全員何かしら言葉を吞み込んでいる様子だったので、大なり小なり引かれたことには変わりないようである。自業自得だけど辛い。
井戸底に差し入れた竿を勢いを付けて引き上げる。体に染み込んだ単調な作業は意識の外へと追いやられ、引き続き思考を占有するのは目下の問題たち。
まずはぶっちぎりでご迷惑をおかけした先生に謝罪しないと。それから訳の分からない八つ当たりで困らせた夏太郎さんと、手数をかけた土方さんにもだ。
彼らの人柄に赦しへの淡い期待を捨てられない中、とにかく3人への謝罪について考える。それは過ちを犯した身として当然のことではあるのだが、同時にそうでもしていないとその後に待ち受ける到底許してくれそうにない最後の一人との対峙の時について考えてしまっ
「おいどすけべ処女」
「うぎっ…」
掴んだはずの桶がずるりと手から滑り落ち、穴の底で水音が響いた。来 た な。
固まっているうちに背後から地面を蹴る音が躊躇なく迫る。我を忘れてこの場から逃げ出したい衝動に辛うじて耐えながら、無駄と分かりつつもぎゅっと目を閉じ息を押し殺す。
「夕べはお楽しみでしたねぇ。男どもの欲を浴びながら呑む酒はさぞ美味だったでしょうなぁ?」
背後に浮かぶ三日月をありありと想像させる楽し気な声。昨晩あんなに微笑ましいチタタㇷ゚を披露してくれた人物からとは思えぬ発言が胸に突き刺さるが、そう言われても仕方がない行動を取ったのは私自身である。
「声高に男を知らないと言い放つだけでは飽き足らず、ああも見境なく相手を漁ろうとする尻の軽さにはいっそ感心したぜ。
──そんなに持て余してるなら、その処女俺が捨てさせてやろうか?お望み通りどれだけ下手クソで具合が悪くても使い物になるようにみっちり仕込んでやるよ」
そんな気!
さらっさら!!
ないくせに!!!!
的確に心を抉る選び抜かれた言葉たち。量の拳を握りしめ耐えに耐えていたが、熱い吐息が耳の縁にかかった瞬間全てが爆発。弾けるように身を翻し井戸脇へ一歩退き、勢いそのまま深々と頭を下げる。
「さ、昨日はとんだ醜態をお見せして大っ変失礼いたしました!!全て私の未熟さが原因で、どんな非難にも弁明の余地はございません!
……でもその、自分で申告しておきながらですがね、尾形さん…?私のと、殿方との経験不足の件については、他の人たちの前では口外をお控えいただければと
……」
上下関係に厳しいこのお方に喧嘩を売ってしまったのだ、尾形さんには白石さんのように私の願いを全て聞き入れてもらえるとは思っていない。失態の数々については暫くの間蒸し返される覚悟を決めたが、自ら知らしめた事実とはいえ個人的な問題をこう茶化され続けては私の精神がもちそうにない。
それに何より、尾形さんに揶揄われる私を見たアシㇼパさんやチカパシに、私の選択そのものが間違っているとは思われたくなかった。昨夜の先生のお言葉は正しかったし、長い年月女性を急き立て続ける価値観そのものが、倣うべき根拠だと理解はしている。
それでも。
“まずは自分の身体について正しい知識を持ちなさい。そして、よく考えるのです。
どんな生き方を送ることになったとしても、あなたたちの心と体を最後まで守れるのはあなたたちだけですよ”
厳しくも優しく私たちを導いてくれた紅が紡いだ言葉が間違っていたとは、どうしても思えなかった。
……とはいえ、目の前にいるのはあの尾形さん。地面を見つめたまま恐る恐る訴えてみたものの、少し待っても肯定も否定も返ってくる気配はない。
きっと頭上でニヤニヤと薄ら笑いを浮かべ、今の私の様をたっぷり楽しんでいるのであろう。
そしてその後は
……。
身から出た錆と甘んじて受け入れるしかないのか。…いや、まだだ。まだ諦めない。
対価を望むのであれば、金平糖だろうが本だろうがいくらでも差し出そう。
言葉の拳で叩きのめされる前に交渉を持ちかけようと、意を決して顔を上げた。
ところが。
「
──?」
尾形さんは笑ってなどいなかった。
私に向けられた黒い眼差しの先に私はおらず、真剣にも虚ろにも見える静かな表情で目の前にあるここではないどこかを見つめている。
そのまま私が袖の下について提案する前に、尾形さんは踵を返し立ち去ってしまった。
そしてその場に取り残される私。
「
……?」
……とりあえず、当分の間お酒は控えようと思う。
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