杉元さんの生存を確認した翌日。枕元の柵に上体を預けて見ていた扉の向こうに複数の気配を感じてすぐ、ガチャリと取っ手が回る。──来た。

「おはよう。気分はどうかな?」
「おはようございます。お陰様で随分と楽になりました」
「それは結構。…おや、谷垣一等卒は?」
「先ほどいらした兵士殿…様、と出ていかれました。谷垣さんに急ぎの御用があるとのことで…」
「なんと間の悪い。心細い思いをさせたね、すぐに呼び戻そう」
「滅相もございません。皆様お忙しいことは重々承知しております、どうかお気遣いなく」
「ふむ、ではその心遣いに素直に甘えるとしよう」

そう言って鶴見中尉は寝台横に置かれた丸椅子に腰掛けた。続いて入室してきた知った顔二名がそれぞれ位置につく間に、一日ぶりに再会した姿を窺う。
眉のある位置は額当てに隠れ、目元の皺や筋肉の動きも傷跡のひきつれに紛れて非常に感情が読み取りづらい。他に本心を覗く糸口はないかと視線を動かしたところで、こちらを見つめるあの夜の網走川のような瞳に気付く。

「妙齢の女性には一段と気味が悪いものだろう。先の戦争で前頭葉を損傷してしまってね」
「いえ、決してそのようなことは⋯不躾に失礼いたしました。ご回復何よりでございます」
「ありがとう」

和らいだ声で気さくなセリフを返し、口髭の下で緩やかに口角を上げ目を細める。なるほど感情の表現には困らないらしいと妙に納得しながら、釣られて僅かに口元が弛む。

「引き続きお見苦しい姿で失礼いたします」
「構わないとも。本来であればゆっくり休養を取らせてやりたいところだが、生憎我々には時間がない」

流れるように戻された声色に背筋を伸ばす。

「杉元佐一は我々と手を組んだ。怪我の具合が安定し次第、アシㇼパ奪還任務の先遣隊として私の部下たちと共に樺太へ向かう」

からふと。記憶を手繰り寄せ、それが北海道よりさらに北にある島であることを思い出した。二年前の日露戦争終結時、日本がその島の半分を所有することになった話で小樽の町は持ち切りだった。アシㇼパさんの家にあるトンコリの生まれ故郷。キロランケさんとウイルクさんが、北海道への旅路に選んだ土地。
なぜ樺太へ向かうことになったのか詳しく知りたいところだけど、当然口を挟むことなどできない。ともかく杉元さんが直接アシㇼパさんを追える状況に小さく安堵して続きを待つ。

「協力関係を結ぶにあたって杉元が我々に提示した条件に、君が関わるものが二つある。
一つ、君の身の安全を保証し、杉元佐一が樺太へ出立するまでの間定期的に面会の時間を設けること。
そしてもう一つ、君を先遣隊に同行させることだ」
「……っ」

ああ、杉元さん。
広い背中に感じていた一抹の不安が杞憂だったと分かった瞬間、肩から抜けた力に代わって這い上がってきた寒気に堪らず身震いする。

「今日は一段と冷えるね。鯉登少尉、なまえさんに何か羽織るものを」
「、haイッ!」
「いえお構いな、」

不意の指名に動揺する彼に遠慮しかけたところを鋭い眼光で牽制され口をつぐむ。そのまま彼──鯉登少尉は、軍靴を鳴らして扉の向こうへと消えた。やはりかなり嫌われているらしい。足音が遠のき顔の向きを元に戻すと、私を眺めていた顔ににっこりと笑みが浮かぶ。

「杉元は随分と君を気にかけているようだ」
「…有り難い限りです」
「親しい間柄なのかね?」

少しばかり身を傾けてこちらの様子を窺う目からは、茶目っ気のような、好奇心のような匂いがした。傷に響かないようにそっと頭を左右に振る。

「杉元さんはとても優しい方です。無理を言って旅についてきた私のことですらよく気遣ってくださいます」
「それにしては今回の話は随分と強行だ。一つ目の条件については我々も異存はない。だが君は女性で、それも決して浅くはない傷を負っている。樺太という過酷な地へ無理に同行させるよりも、安全で適切な処置を受けられる北海道で回復に専念させるべきだと私なら考えるがね」

妥当で私への配慮まで感じ取れる発言。自然と好ましい印象を抱こうとする心を、この人があの監獄の惨劇を指示した張本人だという事実が引き留める。

「仰る通り、ここに留まるべき身であると理解しております。ですがご迷惑は承知の上で、私自身も樺太へ同行することを強く望みます」
「アシㇼパが北海道に戻り次第、すぐに会わせてあげると約束しよう。旅の間も電報や手紙で杉元たちと定期的に連絡が取れるよう手配もできる」
「……」
「…私の言葉は信用ならないかね?」
「、ぃっ…」

はいそうですとは言えず、咄嗟に首を振った瞬間頭に走った痛みに下を向く。
手を組んだことが事実だとしても、鶴見中尉はもちろん、杉元さんの真意も今の私には分からない。だから今はとにかく杉元さんが望む通りに行動すべきで、単身樺太に向かう手段を探すこともやぶさかではないが、できれば穏便に事を進めておきたい。
それに……私にもやりたいことがある。杉元さんには絶対に託せない、樺太に行かなきゃできないことが。


「…ただ、一刻も早くアシㇼパさんに会いたいのです。あの時杉元さんが生きている可能性を少しでも感じていれば、アシㇼパさんはここを離れなかったはずです。そして恐らく、私のことも同様に伝えられたでしょう。
アシㇼパさんはとても愛情深く、強い責任感と使命感を持った方です。彼女が必要のない悲しみまで背負い込まないように、一刻も早く真実を伝えたいのです。誰からの口伝でもなく、直接彼女自身の目に」

言い終えても反応はなかった。そこに廊下から足音が近付いてきて、間を置かずに勢いよく扉が開かれる。

「はオヰを持っΦ§ゞtっ!」
「なまえさんにかけて差し上げなさい」
「キェッ」

記憶に新しい異音に顔を上げたら、ぎょっとした顔の鯉登少尉を発見した。そういえば旭川の飛行船の上でも同じような声を聞いたっけ。
判明した鳴き声の正体に軽く面食らっている間に、意を決した表情で鶴見中尉とは反対側の枕元に立つ鯉登少尉。荷物を受け取ろうと私が出した手を無視して持っていた羽織を広げると、指一本たりとも触れまいと意志が伝わる手つきで羽織を肩に掛けてきた。「ありがとうございます」と述べた礼に案の定返事はなく、そのまま鯉登少尉は元の立ち位置で直立不動の姿勢に戻った。

「こう男所帯にいると女性の扱いを学ぶ機会がなくてね。多めに見てやってほしい」
「それは…さようで...」

本人を前に曖昧に返事をすれば、鶴見中尉はふっと口元と空気を緩ませた。足を組む所作ひとつにも滲む優雅さが、育ちから来るものなのか彼自身の努力によって培われたものなのかは分からない。

「谷垣一等卒の件への礼を伝えそびれていたね。私の部下の命を救ってくれたこと、心から感謝しているよ」
「身に余るお言葉です。そもそも谷垣さんを救うと決めたのはアシㇼパさんであって、私は彼女が留守の間のお世話を任されていたまでです」
「だが君の献身的な看護が谷垣一等卒の早期の回復に繋がったことは事実だ。ああいった状況には慣れているのかね?」
「…ああいった状況、とは?」
「おや、特に深い意味はないよ。傍目にも手慣れた様子だったと聞いていたからね」
「…動けない方のお世話をすることは以前にもありましたので」
「ほう」

胸の内にじんわり広がる不穏な感覚。咄嗟に質問に質問を重ねてしまった自分を苦々しく思い虚空を見据える私の視界で、「なるほどなるほど」と大げさに頷いてみせる鶴見中尉。

「そういえば、君は五年ほど前に大怪我を負って村に運び込まれたそうだね」
「はい」
「元よりなぜ君はあの村を訪れ留まることに?ぜひ聞かせてもらいたい」

始まった。
柔らかに紡がれる選択の余地ない問い。追及の目から外した視線を上掛けの上で握りしめた自分の手に固定する。
遅かれ早かれ私の素性を洗い出しにかかることは予想できた。だから昨日からずっと考えていたルールと、谷垣さんの忠告を頭の中で復唱する。質問には正直に答える。嘘はつかない。ゆっくり息を吸って──

──恥ずかしながら、私にもわからないことばかりです。ある日家路で突然見知らぬ誰かに襲われて……気付いた時には、コタンで治療を受けていました」

部屋の隅、小さな机で月島軍曹が筆記具を走らせる音だけが流れる。じっとりとした空気に全身を包まれ息をすることさえ憚られる中、口を開いたのはやはり鶴見中尉だった。

「拐かされた、と」
「…どう、なのでしょう。発見された当時、私は山奥で一人で倒れていたそうです。他に人の気配はなかったと」
「ふむ...気を失う前にいた場所は?」
「内地…本州の西です」

紙を引っ掻く音が止まった。

「……かなりの距離だ」
「……」
「京都、大阪…それとも岡山の辺りかな?」
「わかりません」
「…と言うと?」
「以前同じように地名を挙げていただいたのですが、どれも腑に落ちなくて...住んでいた土地かと問われれば、違うように思います」
「...犯人に心当たりは?」
「あまり治安の良い場所ではなかったもので何とも。追い剥ぎか人斬りか…怨恨はなかったと信じています」
「……では他に憶えている物事は?家族や知人の名前、地名や風景、出来事、何でも構わない」
「……ええと...」

これも考えてある。知られたところで毒にも薬にもならないざっくりとした範囲から、ひとつずつ記憶を引き出していく。
生まれ育った村や近くの山の名前。家族と友人たちの名前。時々買い出しをしに遠出した町の様子や、往来から見た風景。時折足を延ばした海の色。
どれもこれも、今は私以外誰も知らない本当の話。情報将校なるものがどれだけ優秀でも、導き出す答えは私の正気を疑うものだろう。まずは樺太に行くまでその結論を先延ばしにできれば十分だ。

嘘はついていない。だけど真実でもない。唾液を飲み込む音が、鼓膜の内側でやけに大きく聞こえる。自分の一挙一動が観察されているこの状況で、平静を装う必要がないことは不幸中の幸いだった。


やがて筆記用具の音が止まり、再び静寂に包まれた部屋。おもむろに鶴見中尉は呟いた。

「壮絶な経験をしたね」

心からの哀れみを滲ませるような声に、私は何も答えない。彼の言う壮絶がどれを指しているのか、どうにもピンとこなかった。

「縁もゆかりもない北海道で五年も…ご家族もさぞ心配されていることだろう」
「幸い…と言っては何ですが、既に全員を見送っておりますので...」
「…そうか。すると故郷にはなんの未練もないと?」
「ご縁のあった方を探しに、いずれ…とは考えております。……でも今はただ、アシㇼパさんに、会いたい……っ」

嘘偽りない言葉に込み上げた感情が、声を震わせる。寝台の端にそっと置かれた手を辿り顔を上げた先には、静謐をたたえた眼差しがあった。

「君の思いは聞かせてもらった。樺太への同行について、改めて前向きに検討しよう」
「!あ、ありがとうございま」
「ただし、君の身体が最低限の回復を見せなければ選択の余地は無い。まずは出立までの2週間しっかりと治療に励みなさい」
「はい、必ず間に合わせてみせます」

まっすぐに言い切った私に頷き返すと、鶴見中尉は軍袴から鎖で繋がれた金属製の円盤を取り出し、蓋を開けて中を見た。

「少々長居が過ぎてしまった。後でまた話を聞かせてもらえるだろうか」
「こんな話でよろしければいつでも。お忙しいところありがとうございました」

席を立ち扉へと向かう背中を見送っていたら、ふと足が止まりこちらへと振り返る。

「そういえば、君の家名を聞いていなかったね」
「...かめい」
「苗字のことだよ。思い出せないかね?」
「……いいえ」

訊ねられた瞬間に頭に浮かんだ音。最後に口にしたのは、アシㇼパさんたちに助けてもらったお礼と共に改めて名乗った時だったっけ。苗字を持たないアイヌや奇妙な縁から始まった杉元さんたちには私が私でさえあれば十分で、ここでは誰からも必要とされなかった、私と家族を繋ぐ音。


「みょうじ…みょうじ、なまえです。」


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