「失礼します、なまえです。ただいま戻りました。開けてもよろしいですか?」
「ああ」

了承を返されてから障子戸を引くと、手前に敷かれた布団の奥、衝立障子の向こうからアシㇼパさんの顔がこちらを覗いていた。戸を閉めて近付けば浴衣に袖を通した姿が私だけ借りた綿入れ半纏以外お揃いなことに気付いて、つい頬が緩んでしまう。

「杉元さんは?」
「少し前にチンポ先生と交代で風呂に行った」
「む、もっと早く戻るべきでしたね」
「別に一人で平気だ」

アシㇼパさんの話から宿へ戻る途中に見かけた大きな後ろ姿の正体を確信しつつ、頭に被っていた手拭いを首にかけ直してから湯屋の帰りに気になる汚れを落としてきた普段着を衣紋掛けと衣桁に通す。何となく察しがつく牛山さんの行き先については深く考えないことにした。

荷物も片付けて外廊下とは反対側の襖横に敷かれた布団へ座り込むと、アシㇼパさんが膝と手を布団に付けたままにじり寄ってきた。意図に気付き髪に挿していた箸を引き抜いて少し首を傾けると垂れた髪に顔が近付いてきたものの、鼻先が髪に付くか付かないかの距離でで少し固まった後サッと自分の布団に戻ってしまった。

「まだちょっとくさい」
「申し訳ないです……」

相変わらずお気に召さない私のヘアケアに顔を顰めるアシㇼパさんの言葉を大人しく受け入れて、せっせと湿り気を感じる箇所に手拭いを押し当てる。とはいえ時間をかけて水気は取ったし井戸で着物を洗っている間に粗方乾いて匂いも落ち着いてきているので、晴れた日中ほどの乾きの速さはなくても就寝中にまで迷惑をかけることはないだろう。完全に乾けば無臭になることはアシㇼパさんも知っている。


髪を乾かしながら話をしていると、廊下の床板が軋む音が聞こえてきた。アシㇼパさんと二人顔を向けてすぐ障子戸の中央にはめ込まれた硝子にこれまた揃いの浴衣が映り、部屋の前で止まる。

「アシㇼパさーん、入るよー」
「ああ。なまえも戻ったぞ」
「本当?なまえさん遅かっ」

聞き慣れた声にアシㇼパさんの真似をして衝立から顔を覗かせると、ガシガシと手拭いで髪を拭きながら部屋へ入ってきた杉元さんの目が一瞬だけこちらを見て、すぐに斜め下へと逸れた。かくいう私も普段は服と襟巻きに隠れた彼の肌に残る傷跡をつい視線で辿ってしまい、意識してその後ろの格子模様を見るように努める。

「あー、なまえさん、おかえり」
「はい。遅くなってしまってすみません」
「いや、無事だったならいいんだ。……ここまで誰とも会わなかった?」
「戻る途中で牛山さんの背中を遠くから見かけましたけど、あとは誰にも」

人のお金で風呂付きの宿に泊まれたのにわざわざ洗髪料もかかる湯屋に出向いてまで久々のお湯をしっかり堪能した後、着ている物が違うんだからいっその事……!と手拭いで顔を隠してハラハラドキドキここまで来たけど、幸い部屋に入るまで知り合いと鉢合わせすることはなかった。

そんな私の返答に「そっか」と呟き後ろ手に戸を閉めて衝立の影に消えた杉元さんのどこかぎこちない様子に、「やっぱりいつもの格好に戻りましょうか?」と言いかけた口をぐっと真一文字に結ぶ。

我儘に付き合わせてしまっていることへの申し訳ない気持ちは変わらないし、私も相手この姿で男性と同じ部屋で寝泊まりすることを何とも思っていないわけじゃない。
でも今日は昼下がりの杉元さんの優しさと、リスクを心配してくれながらも「俺は平気だからなまえさんが過ごしやすいようにしてくれたらいいよ」と湯屋に出かける前に言ってくれた言葉に素直に甘えることにした。クチャでの寝泊まりや野宿に不満はないけど、風呂に入り洗濯をして布団に潜れるチャンスなんて次にいつあるかわからないのだ。札幌の時のような夜襲がないとは言いきれないけど、その時はその時で考えよう。今日はもうこの開放感のまま眠りたい。


「まだ灯りはあったほうがいいかい?」
「はい、あと少しだけ。アシㇼパさん、後ろ髪をもう少し拭きましょうか。風邪をひくと大変ですから」
「ん」

そう伝えれば、衝立に掛けてあった手拭いを取った手がこちらへ突き出された。受け取って華奢な背中に広がる翠の黒髪をひと房包む。

「そちらの湯加減はどうでした?」
「ちょっと熱かった」
「きちんとお湯の管理をしている宿なんですね。湯屋は今日は少し温度が低かったです」
「なら風邪をひかないように次はなまえの髪だな。私が拭くから終わったら後ろを向け」
「あれ、いいんですか?さすがに手には匂いも付かないと思いますけど」
「直接触らないようにする」
「わぁい」

嬉しいけど手放しでは喜びきれない気持ちを声に乗せて、まずは目の前の髪の痛みを防ぐことに集中する。行灯に照らされてつやつやと光る黒を見ていると、烏の濡れ羽色とはよく言ったものだなあとしみじみ思う。



そのまま黙々と納得のいく仕上がりを目指していると、不意に目の前の背と頭がゆっくりと胸元に倒れ込んできた。もしやと思い覗き込んだ顔はすっかり瞼が閉じていて、「あらら」と思わず声が漏れる。

「……どうかしたの?」
「アシㇼパさんを退屈させちゃいました。アシㇼパさんお待たせしました、もう布団に入りましょう。動けますか?」
「んー……」

下敷きにしている布団へ寝てもらうために背もたれ役を続けたまま問いかければ、曖昧な返事だけが返されて心地よい重さが離れていく気配はない。久しぶりなこの状況にはまんざらでもないけど、前兆にも気付かないほど髪に集中し過ぎてしまっていたことは反省する。

「…手伝おうか?」
「すみません、お願いします」

なるだけ眠りを妨げずに布団へ寝かせる方法を考えていたら、衝立の向こうから差し出された助け舟。ありがたく受け取れば、少し間を置いて杉元さんがこちら側に回ってきた。少し視線を外しながら「ごめんね」と呟く声に「こちらこそ」と本心を伝える。

逞しい腕にすっかり力の抜けた身体を預ければ、案の定いとも容易く抱き上げてくれた。私もこれだけ軽々支えられたらなあ、と杉元さんを羨ましく思いながら重石のなくなった布団を捲り上げて、そっとアシㇼパさんを横たえる腕の隙間から髪が背中の下敷きにならないように前へと流す。最後に首元に布団を掛け直せばすうすうと小さな寝息が聞こえてきて、楽しい夢を見て欲しいと思いながら頬にかかる髪をそっと払った。


まだそばに気配のあった杉元さんへお礼を伝えようと顔を上げたら、 金平糖を食べていた時よりずっとずっと優しい目がこちらを見ていた。一瞬呼吸も忘れて見とれていたら、少しだけ揺れた視線と視線が交わった瞬間素早く顔を逸らされて、急に恥ずかしくなり下を向く。

「ごめんっ……!」
「い、いえこちらこそ」
「いや、本当にごめん。その、なまえさんがあんまり優しい顔だったから、本当にアシㇼパさんを大事に思ってるんだなって思えて……」
「…それはもう、大恩人ですから」

ついさっきまでの杉元さんの方がよっぽど優しい顔でしたよと思いつつ、胸の奥に広がる温かさを感じながら事実を返せば、「ん、そっか」ともう一度眦が下げられた。記憶に新しいあの鬼のような形相と同じ顔が浮かべるその笑みを見ながら、本当にこの人は色んな表情をするなあ、としみじみ思う。

「村にいた時も子供達と遊んでいるところをよく見かけたし、なまえさんもアシㇼパさんと同じくらい面倒見がいいよね」
「一人になってからここに来るまで歳の近い人達と一緒に暮らしていたので、その名残でしょうか。でもコタンの子達はみんなしっかりしているから、むしろ私がかまってもらっているようなものですよ」

そう伝えれば「そうなの?」と今度は少し茶目っ気を含んだ笑みで尋ねてきた声に笑って頷き返しながら、ゆっくりと上下に動く布団を眺める。

「アシㇼパさんにも、初めて会った時から面倒を見てもらってばかりいます。
あの頃から強くて賢くて頼もしくて、そんなアシㇼパさんは勿論素敵ですけど、それと同じくらいこんなアシㇼパさんもずっと見ていたくなるんです。……本当はいつでも安心できるだけ、私が頼りになればよかったんですけど」

これから先に何の責任も持てない私は、ずっとずっとアシㇼパさんに与えられてばかりだ。
このまま旅に同行し続けたところで、彼女の役に立てる日は来るんだろうか。今考えたところで詮無いことだとわかっていても、どうしても考えが頭をよぎる。


「なまえさんはきっと、アシㇼパさんの支えになってるよ」

するりと耳に入り込んだ穏やかな声は、慰めのように優しい。でもきっと、この人は心からそう思ってくれているんだろう。どちらにせよ、私には過ぎた言葉だけれど。

「……そうだとしたら、すごく、すごく嬉しいです」

曖昧な言葉を返して、もう一度深い呼吸を繰り返す顔を見つめる。
今はただ、この小さな寝息を聞いていたかった。


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