310話改変
長編で予定している展開のネタバレがごくわずかにあります。
解釈が変わり次第随時修正削除していきます。
尾形混乱&錯乱中。盲目生存ifお好きな方にはお勧めできません。
幽霊勇作さんはどちらかというと尾形の頭の中の存在だと思って書いています。
『兄様は祝福されて生まれた子供です』
耳元で囁く、かつて聞いた慈しみに満ちた声。背後から回された罪を知らない清らかな両腕が、銃口を不動のものにするため銃身へと添えられる。
ああ、どこまでも一緒に来るのか。かつて自ら手放したそれに包まれていることを思考の外で確信し、左手に握る刀を押し出す瞬間だった。
「だめッッ!!」
かすかに鼓膜を震わせた悲痛な叫び。耳障りな音に底の見えない真っ暗な穴からわずかに視線をずらせば、こちらに駆け寄るあいつの姿があった。その必死な形相に焦点が合った瞬間、無で塗り潰そうとした思考にいつかの記憶が浮かび上がる。
“いきて”
樺太で病院から脱出したあの日、一緒に連れ去る筈だったあいつは杉元の放った銃弾に驚き暴れた馬から振り落とされながら、引き上げようと俺が伸ばした手を振り払い確かにそう言った。その唇の動きを全て思い出した瞬間、今まで見てきたあいつの姿が激流となって頭の中に流れ込む。
杉元の後ろでこちらの様子を窺う警戒の滲んだ顔。銃の腕に向けられた尊敬の眼差し。食料を持ち帰った俺へ礼を告げる笑顔。アシㇼパに絡まれている俺を見る締まりのない表情。毒で生死の境をさ迷う俺の世話を焼きながら浮かべていた、思いつめた顔。他にもいくつも、いくつもいくつも。
あいつで埋め尽くされていく思考をどうすることもできずにいる中、ふと銃身に添えられていた手がひとつ離れたことに気が付いた。俺を正面に捉えていた銃口が下へと向かっていく。少しずつ、確実に。止め方の分からない現象を愕然と見下ろす中、離れた手は引き金に添えた刃を血を流すこともなく握り込む。切先が引き金の上で滑り始め、得体のしれない不快感が生まれる。違う、違う、俺じゃない。やめろ。なんで。どうして。一緒に堕ちるんじゃなかったのか。
その時、全身に大きな衝撃が走った。踏ん張ることができなかった身体が横に崩れ、刀の柄が左手から抜けていく。ふわりと浮く感覚。視界に広がるのは晴天と、久しく触れることのなかった風に靡く髪。正面から俺を抱き込む貧弱な身体の向こうを流れ去る列車を眺めながら、離れないよう両腕をきつく交差する。
背後から伸びた黒に近い濃紺が、俺の腕ごと全てを包み込んだ。
受け身の取れなかった全身を襲った激しい痛みと衝撃は、何度も転がり止まった後も引くことはなかった。特に右腕と左足は力が入らず、起き上がりかけた身体はすぐさま均衡を崩して他に伏せる。
だがそんなことはどうでもいい。顎を地面に擦りながら周囲を見回せば、目と鼻の先にそれは落ちていた。早く、早く。あの引き金を引かないと。辛うじて動く左手を伸ばそうとした瞬間、勢いよく背中に乗り上がってきた重さに肺から酸素が押し出された。ああ、まだいた。安堵した瞬間、頭上から伸びた腕が小銃を明後日の方向へと弾き飛ばした。もう腕を伸ばしただけでは届かない距離に、激しい焦燥感に襲われる。だめだ、だめだ。早くしないと。上半身をその場に押さえつけようとする着物を纏った腕に構うことなく這い進む。手足が痺れて上手く動かない。
「尾形さんストップ!!止まって!!」
「うるさい、どけ」
「どいたらまた死のうとするでしょうが!!どくわけないでしょう!!」
「うるさい黙れ、今ならあいつが、勇作がいるんだ。考えるな、早く、早くしないと」
「誰よその男っ!!尾形さんを連れて行こうとする奴なんか勝手にどっか行け!!」
「黙れッ!!」
頭の中で何かが切れた。痛みを無視して起き上がり、背中にいたそいつを地面へと勢いに任せて転がし倒す。何かを堪えるように呻く顔へ憎しみと怒りを叩きつける。
「お前に何がわかる!!何も知らないくせにッ!!」
「っ…き、聞かされてもないのに知れるわけないでしょうが!!教えてくださいよ私察しが悪いんですから!!誰にどれだけ話してきたのか知りませんけど、私はまだ尾形さんのことを尾形さん自身から碌に聞いてないんですからね!!嫌味にはあんなに口が回るくせに自分のことは全然話してくれないんだから!!」
「うるさいっ…うるさいうるさい!!勇作だけなんだ!俺を愛してくれたのは!なのに俺は、俺は」
「はぁっ!?私だって愛しとるわッ!!」
叩きつけられた言葉の意味が、理解できなかった。ただでさえおかしくなっている脳味噌が一層かき回されて思考が追い付かない。歯を食いしばり息を荒げてこちらを睨みつける目からボロボロと水が零れ落ちている理由も分からない。こいつは今なんて言った。おれを、いや、そんなわけがない。そんな奴いるはずがない。
「違う、ありえない。だって俺は大勢を、おっ母を、お父っつぁまを、勇作を、愛してくれていた弟をこの手で」
「う、うるさい!私が愛してるって言ったら愛してるんですよ!否定したって何遍だって言ってやりますからね!!
ンぐっ……後で詳しく聞きますけど、尾形さんが人を殺すことで、その時救われた誰かがいたんでしょう?杉元さんや谷垣さんのことだって、許されることじゃないとしても、その時は正しい選択だと思っていたんでしょう?そうじゃなかったこともあるなら後で聞きますよ馬鹿っ…でもあったって、許されなくたって、絶対死なせてなんてやらないですからねばかぁッ……」
「……違う。だって、全部、全部間違いだった。俺は祝福されて生まれて、欠けた人間なんかじゃなくて、なのに、なのに自分で間違った道を選んできたんだ。他の道だって選べたのに、祝福された道を選べたかもしれないのに、俺は、俺は」
「ぜ、全部かどうかは聞いてみないと分からないですけど、死ぬ前に気付けて良かったですね。ここからはいい感じに反省を活かして生きていきましょうね。祝福は今後私がし、しますのでご心配なく。後で誕生日と好きな食べ物教えてくだざい」
「ちげぇ…」
「うるさい尾形さんのばーか。ばか、ばかバカバカッ…!なんっ、で死のうとしたんですかいや今聞きましたけどぉっ…!!」
頭が重い。自分が何を言っているのか分からない。目の前で涙と鼻水をたらし嗚咽を漏らすこの女が分からない。なんで、どうして好きにさせてくれない。俺はもう何も考えたくないのに。
「おが、おがったさん」
呼ばれた、と思う。しとどに濡れた目はまっすぐに俺を見ている。何も知らないくせに。俺の気持ちを碌に理解できなかったくせに。光が散らばる二つの瞳の中には、歪んだ小さな俺がいる。
「教えてください。私、勇作さんにお会いしたことがないから分からないんです」
「…俺がころしたから」
「だまらっしゃいその話は後でしっかり聞きます。まずは病院です。
…ねえ、尾形さん。勇作さんは……あなたを愛してくれた弟さんは。あなたを愛して一緒に生きていてほしいって願う人間がここにいるのに、それでもあなたが死ぬことを望むようなお方だったんですか?」
耳障りでしかない筈の声が紡ぎ出す言葉の一つ一つが、するりと耳の奥に入り込んでくる。その声に従い記憶を辿れば、いつかの。俺を正面から強く抱きしめた力と、俺のためだけに流された涙を思い出した。
「
──ち、がう」
力なく頭を横に振る。違う。勇作は……あの人は。ただひたすらに清い心の持ち主だった。純粋な心で俺を慈しみ、愛してくれていた。
「…あの人は、最後まで俺と一緒にいてくれようとしてるだけだ。あの人だけが俺を確かに愛してくれた。ずっと祝福してくれてた。まっすぐで、眩しくて、人目も憚らずに俺を慕って、俺を哀れんで、俺のために泣いて
──」
自分の呟いた言葉にはっと顔を上げる。汚く鼻を啜る女の顔は似ても似つかないというのに、いつかの姿と重なる。
苦しい。息ができない。血の気が引いていく。一段と重く意思の通らなくなってきた身体を辛うじて起こし続けながら、余力で喉を震わせることを選んだ自分が理解できない。
「……俺は」
「はい」
「俺は、欠けた人間ではなかった、の、かもしれない」
「はい」
「勇作の、言う通りだったのか。俺は、俺は自分の中の勇作から……罪悪感から、目を背けていただけだった」
「…はい」
言葉を紡ぐほどに腹の底からじわじわとせり上がって来る、それの正体は分かり切っている。震え始めた身体をどうすることもできず、背中が丸まっていく。
「いやだ…いやなんだ。全部、全部俺に返ってくる。受け止めきれない。負ける。このままじゃいられない」
「……ごめんなさい。生きてください」
「いやだ、もう何も考えたくない」
「それでも生きてください。ここで死なないでください。…もしどうしても耐えられないのなら、死ぬのは私を殺してからにしてください。尾形さんのいない世界で生きるなんて苦しすぎるから。もちろん全力で抵抗しますけど」
「いやだ、できない。殺せない。お前まで殺したくないっ…!」
「じゃあまずは生きてください。生きて、尾形さんの口から尾形さんのことを私にたくさん教えてください。生まれとか、年齢とか、食べたいものとか、今までの嬉しかったこととか、辛かったこととか、悲しかったこととか。尾形さんのことを少しでも私が理解できるように」
「……そんなこと、今更何の意味があるんだ」
「それはやって確かめてみましょう。頑張って長い目で見てくださいね」
俺が死ぬより酷い目に遭うと分かりながら、それでもこいつはこのまま引き金を引くなというのか。なんて残酷な奴なんだ。勇作はあんなにも優しいのに。愛を与えようとしてくれているのに。
そう間違いなく本心から思っているのに、もう銃を探す力は残っていない。何も考えたくない。でも諦めきれない。
「……今なら勇作が……俺を愛してくれた人が、一緒にいてくれるんだ……」
「…きっと勇作さんは、これからも尾形さんが望む限りずっと一緒にいてくれますよ」
「お前に勇作の何がわかる…」
「だから教えてくださいって言ってるじゃないですか。……でも強いて言うなら、同じ人を愛した者同士ですから。
だから尾形さん。今は私と一緒に生きてください。何が何でも、どれだけ時間がかかっても、私に愛されていると、あの時死なずにいて良かったと思わせてやります」
否定しないと。ここから離れないと。でも何も思いつかない。何も言い返せず睨みつけた顔がこちらへ近付いてくる。
ああ、頭がクラクラする。世界が回る。何も考えたくない。気を失う前兆の眩暈に吐き気を催し、最後の力が抜けていく。身体が横に倒れ頭が地面に着く直前、そっとすくい上げられ柔らかなものに乗せられた。ゆっくりと息を吸って吐き出せば、心地良い温度の手のひらが汗の滲む砂まみれの額に触れる。
「尾形さん、今から傷口の周りの肉をき、切り取ります。アイヌの毒は解毒できないから、肉ごと取り除かないといけないんです。お、おお願いですから私に殺されないでくださいねっ…!」
頭上から強張り震える声がする。意味は飲み込めない。でも俺だけに注がれているのだとわかるそれが耳に馴染み、瞼を重くさせていく。
ずっと昔の、遥か遠くの記憶に思いを馳せる。何も知らないくせに。俺のことも、勇作のことも、おっ母のことも。お父っつぁまのことも。
瞼を落とし切った時、頬にポタリと何かが落ちた。
「…生きてほしくてごめんなさい。縛り付けてごめんなさい。私のわがままで苦しめてごめんなさい。でも、それでも死んでほしくないんです。生きて幸せになってほしいんです。いつまで一緒いられるかは分からないけど、その間に」
「──あ゛?」
意識が落ちる瞬間聞こえた不愉快極まりない言葉。気力を振り絞り無理やり覚醒して痛む首をわずかに捩じり、こちらを見下ろす顔をもう何も見ずに済むはずだった目で睨み上げる。
「ふざけるなよ…お前がいなくなろうとしたら、それより先に俺がいなくなってやるからな。お前と違って勇作ならいつまでだって一緒にいるんだ」
定まらない思考の中に浮かび上がってきた言葉を吐き出せば、こいつはまた両の目からぼたぼたと水をこぼしながらくしゃくしゃの顔で笑いやがった。
「──だったら私だって、ずっとずっと尾形さんのそばにいつづけてやりますから」
何がおかしい。俺は本気だからな。続けようとした恨み言を吐き出す前に、今度こそ視界が、意識がぶつりと途切れる。
耳元で、昔聞いた隣で嬉しそうに笑う声が聞こえた気がした。
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