本誌310話改変前提の話。
長編で予定している展開のネタバレがごくわずかにあります。
解釈が変わり次第随時修正削除していきます。





自らを撃ち抜こうとする尾形さんに無我夢中で飛び付き一緒に列車から落ちた私は、その後騒ぎを聞きつけ集まってきた方々に助けられて気絶した尾形さんを近くの診療所まで連れて行くことができた。

突然運び込まれてきたボロボロの軍人に驚きながらも精一杯の治療を施し続けてくださった診療所の先生のお力は勿論のこと、厚い筋肉によって矢が内臓まで到達しなかったこと、そして何よりも本人の強い生命力によって、尾形さんはひとまず危うい状態を脱することができた。
先生には軍に連絡してもっと設備の整った病院に入院することを勧められたけど、脱走兵である尾形さんのことを知られる訳にはいかなくて、ここにいさせてほしいと頼み込んだ。明らかに訳ありな様子の私たちに困惑する先生を一緒に治療のお手伝いをされていた奥様が説得してくださって、ひとまず尾形さんの意識が戻るまでは滞在させていただけることになった。
先生の見立てでは私も肋骨にヒビが入っているとの事だったけど、無理はしないと約束して奥様に助けていただきながら尾形さんの看病を続けた。列車の上から落ちたことを伝えたらこの程度の怪我で済んだことをとても驚かれて、改めて自分たちに起こった不幸中の幸いを実感した。本当に、なんて運が良かったんだろう。


峠を越してからも毒の症状に苦しみ意識が朦朧としたままの尾形さんは、時折勇作さんの名前を口にした。その度私が尾形さんを呼べば、尾形さんは暫しの沈黙の後、小さく私の名前に唇を動かす。返事をして手を握り、そばにいますよ、まずは身体の傷を治しましょうねと伝えれば、徐々に呼吸を落ち着かせてやがて意識を飛ばす。それを昼夜問わず繰り返した。
お世話になり始めて三日目の夕方には、診察を終えた先生が目頭を押さえながら好きなだけここにいなさいと言ってくださった。それから、必ず幸せになるんだよ、と。なんだか色々と思い込みをされているようだったけど、今はその厚意をありがたく受け取ることにした。

あの後アシㇼパさんたちがどうなったのかは、まだ確かめられずにいる。函館駅の方で列車の事故があったと診療所に来た患者さんたちの世間話で耳にしたけど、それ以上のことは怖くて聞けなかったし、なるだけ尾形さんのそばから離れず聞かないようにした。
今はとにかく尾形さんのそばにいかった。もし私が離れている間に尾形さんの意識が覚醒したら、その時の尾形さんは何を考えていて、何をしようとするのか──。嫌な想像ばかりがグルグルと頭の中を巡り続けて、奥様が私のために用意してくださった布団に横になる気にもなれなかった。


***


尾形さんが倒れて四日目の朝。落ち着いた呼吸をするようになった尾形さんの眠るベッドの端に頭を乗せて微睡んでいた私の意識を、何かが現実に呼び戻した。ぼんやりとしたまま薄目を開けたところで、握り続けていた私よりも大きく体温の低い手がピクリと動いて飛び起きる。ずっと力の入ることがなかった腕を上へと辿れば、窓から差し込む朝日が尾形さんの顔を照らしていた。
息を殺して見守る先で長い睫毛が震え、両瞼がそっと持ち上がる。途中で動きを止めた少しだけ凹んだ右目の隣に吸い込まれそうな瞳が見えた時、とうとう呼吸ができなくなった。涙腺が潤む。鼻の奥がツンとする。でも、そんなこと今はどうだっていい。

どこを見据えるでもなく漠然と宙を見上げていた尾形さんの黒目が緩慢な動作で左右に揺れて、思わず握る手に力を籠めれば唯一無二のそれがゆっくりと私へと向けられた。歯を食いしばりぼやける視界でなんとかその目を見つめ返す私を表情のない顔で眺めた後、尾形さんは再び天井へと視線を移して、掠れた声で「みず」と呟く。急いで机に置いていた吸い飲みを取り横を向いてもらった口元へ差し出せば、時間をかけて数度喉が動いた。

「……どうなった」
「っ…わからない、です……」

それがあの列車の上の、金塊と権利書を巡る結末のことだと分かって震える声で事実を返す。吸い飲みを机に戻す間もその顔から目が離せない。

「俺は、どのくらいここにいる」
「…四日です。列車から落ちた日に函館駅の方で騒ぎがあったみたいですけど……あとは何も、大きな出来事、は…」

淡々と紡がれる言葉に答える間にも、胸の中で不安と恐怖がどんどん膨らんでいく。“死なせてなんてやらない”なんて大口を叩いたけど、尾形さんがその気になれば私の妨害なんて何の意味も持たないことは冷静になってみればすぐに分かることだった。
もう一度杉元さんを殺そうとしたら。勇作さんと二人で、今度こそ私の声が届かない場所に行こうとしたら。私はどれだけの時間彼を引き止めておくことができるんだろうか。

「っ…」

お願い尾形さん、どこにも行かないで。ベッドに投げ出されたままの手を両手で強く閉じ込めたら、尾形さんの目がじろりとこちらを捉えた。

「……いてぇ。もう少し緩めろ」
「だって、だって…!」
「……ああ、そうか。お前、ッ…!」
「ダメです動かないでください!腕と足の骨が折れてるんです、お腹の傷だって塞がってないし…!」
「っクソ、またか……あ?」

右腕を動かそうとして顔を顰めた尾形さんを、慌ててそっとベッドに押し留める。痛みに耐える中、偶然視界に入ったソレに気付いた尾形さんが不快さを露わにしてこちらを睨んだ。後ろめたさについ視線が下がってしまう。

「おい。なんだこれ」
「だってぇ゛…」

尾形さんが顎で指し示した自身の右手首は、幅広の布紐で作られた輪に通してあった。伸びた紐の先は、ベッドの柵。
それは私が先生にお願いして付けさせてもらったもので、尾形さんはまだ気付いていないようだけど私が握ったままの左手にも、両足首にも通してあった。今は簡単に外れるくらい緩めてあるから皮膚や手首に負担はないはずだけど、大変気に入らないとその声色が訴えてくる。

でもだって、怖かったんだ。あの時の尾形さんは明らかに冷静じゃなかったけど、どこまでが彼の本心で心から望んだ上での言動だったのか、私に見極めることはできなかった。まともに睡眠をとっていない頭が思い付くことなんて碌なものじゃないと分かっていても、尾形さんを止めるために思い付く限りのことをしておかないと不安で不安で仕方なかった。

あれだけ威勢よく啖呵を切っておきながら、結局私はこんな形でしか尾形さんを引き止められないんだ。“何も知らないくせに”と吐き捨てられたあの時の尾形さんの言葉が今日もまた頭の中で鳴り響いて、堰を切ったように涙が溢れる。

「ごめんなさい、ごめんなさい尾形さん。お願いします、どこにもいかないで。私頑張りますから。一緒にいて、いなくならないでっ……!」

自分の不甲斐なさにほとほと嫌気が差す。それでも口から飛び出す懇願を止められずに体温の移った手を抱え込んでいたら、抑えきれない泣き声の合間に「お前は、」と耳にするだけで心惹かれる声がした。恐る恐る顔を上げると、じっとこちらを見据える目がひとつ。荒れて縦皺の目立つ唇が薄く開く。

「まだ本気で俺を愛そうなんて思ってるのか」

始めは意味が分からなかった。でもそれがあの時の尾形さんの言葉と結び付いた時、不安と恐怖を押し退けて悔しさが湧き上がった。悔しくて、哀しくて悲しくて、また頬に生温い水が伝う。
尾形さんは私の気持ちをいらないとは言わない。存在そのものを疑っている。きっと今まで尾形さんには不要なものだったから。不要なことが彼の中では正しい世界の在り方だったから。そう信じてしまうよう彼の世界の根元を作った何かがあって、その上に尾形さんは自分の信じる世界を積み上げてきたんだ。
それを止めてくれる人の存在を見つけられないまま。気付けないまま。気付かないふりをしたまま。


ギュッと瞼を閉じる。そうして出し切った涙を袖で拭って、力なく枕に置かれていた頭を両手で包みその顔を覗き込んだ。されるがまま私を見上げる瞳に影が落ちる。

だったら次は私が尾形さんのそばにいる。一緒に歩いて、一緒に考える。必要なら嫌われたって止めてやる。どれだけ時間がかかっても、いつか尾形さんに私の愛を信じてもらえるように。尾形さんがこれから生きていく中で私以外の誰かから渡されるかもしれない、色んな形の愛に気付けるように。
自惚れだとか力不足だとか、そんなこと考えてる場合じゃない。少なくとも今そのきっかけを作り始められるのは、この世に私しかいないんだ。

「──当たり前じゃないですか。っていうかもう愛してますってば。あの場で咄嗟に嘘が言えるほど私、賢くないんです。
尾形さん大好き。何遍口にしたって足りないくらい愛してる。正しかろうと間違っていようと、考えて選んで戦ってここまで懸命に生き抜いてきたあなたが愛おしくてたまらない。尾形さんに触れて言葉を交わせることが泣きたいくらい嬉しい。これからも尾形さんとずっと一緒にいたい。あなたがっ、……そばにいてくれるだけで、私は幸せ」

“私を必要としなくなくなるまで、そばにいさせてほしい”
最後に付け足そうとした言葉は、別の本心へとすり替えた。

結局私も、今まで尾形さんを苦しめていたものと同じもので尾形さんを縛り付けようとしているのかもしれない。気付いた瞬間生まれた尾形さんへの罪悪感に、すぐさま蓋をする。
そうだとしても、今はとにかく尾形さんを引き止めたかった。彼が自分の中に見つけた愛に包まれて全てを終わらせる前に、もう一度だけチャンスをもらいたかった。


ジンジンと熱い目玉からまた涙が落ちて、尾形さんの頬を濡らす。それでも微動だにしない大きな黒目を負けじと見つめ続けていたら、やがてもぞもぞと動き出した尾形さんの左腕がゆっくりと持ち上がった。予測の付かない行動に身構える私の頬に力の抜けた手のひらをべたりと押し当てながら、尾形さんはどこかぼんやりとした様子で呟く。

「……お前がいたから、押させなかったのかもな」
「……え?」
「それにしても、よりにもよって列車から突き落とした上に腕の骨まで折りやがるとは……本当に馬鹿だなぁお前。あのまま俺を引き止めるだけにしておけば、ゆくゆくは第七師団長に死ぬまで生活の面倒見てもらえたってのによ」
「…?」
「まあその頭じゃどちらにせよ軍人の妻として表に立つなんて無理だったな。出す気もなかったが」
「……?」

尾形さんはまだ混乱しているんだろうか。今度こそ言っている意味がさっぱり分からない。とりあえずムズムズしてきた鼻を小さく啜ったら、「きたねえ。顔洗ってこい」と手が落ちていった。

「……戻ってくるまでどこにも行ったりしませんか?」
「こんな状態でどこに行って何しろってんだ。毒のせいか手足が痺れてまだ上手く力が入らねえ。まったくアイヌの知恵も厄介だな」

目覚めた直後よりも大分回るようになってきた口から出てくるチクチクした言い回しは、一緒に旅をしていた頃の尾形さんと何も変わらない。それでも不安は拭い切れなくて動けずにいたら、そんな私を見て尾形さんは鼻からひとつ息を漏らした。

「……今は頭もはっきりしてる。もうあんな馬鹿な真似はせん。いいからさっさと行ってこい」
「……っ」

本当に?なんて口に出しても意味がないと分かり切っている言葉をぐっと飲み込む。一緒に持ってきた銃は隠してある。でもそんなの尾形さんには大した問題じゃない。
今は動けなくても元気になったらどこかに行ってしまうかも。やっぱり早いうちに紐を革製に変えておいたほうがいいのかもしれないと閃いたところで、「おい」と呼び戻された。顔を上げれば再び尾形さんと目が合う。

「あの時俺は毒で混乱してた。だが正気のお前が言った言葉は全部憶えてる」

元通りとはいかない。でもしっかりと意思を持って発せられる言葉にただ聴き入る。一度区切った声の合間に、私を見たまま尾形さんはわずかに目を細めた。

「……生半可な愛や祝福で俺が満足すると思うなよ。手を抜いたらすぐに消えてやるからな」


今の尾形さんとあの時の尾形さん、どちらが本当の尾形さんなのか、まだ私には分からない。
でもいいんだ。どんな尾形さんだって尾形さんだ。全部まとめて愛してやる。祝ってやる。

「分かったらさっさと顔洗いに行ってこい。3分以内に戻れよ。あと飯。手が使えんからお前が食わせろ。握り飯がいい」
「グスッ……はい」

声も態度もどんどん元気になってきた尾形さんから離れる決心をようやくつけたところで、言われたことを実行する前に吸い飲みを置いた机の上にあった手拭いを広げて捩じり、再び尾形さんの方を向く。

「は?おいなにす、ムグッ…!」

でき上がった猿轡を無理やり尾形さんの口に突っ込んだら非常に不本意だと訴える目を向けられたけど、気にせず頭の後ろで結び上げた。
それはそれ、これはこれだ。嫌なら早く私の顔色を窺うその目をやめて、愛されているのが当然だって顔を見せてみろ。
あとあなたの今朝のご飯はお粥です。


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