殺しきれない嗚咽を必死に抑える。
どこかとても遠くから、たくさんの悲鳴が聞こえてくる夜。藪の隙間から覗いたぼんやりと暖かな光が差す草むらで、地面に倒れた女に男が覆いかぶさり着物を剥ぎ取っている。
首に掛かる男の手を掴み懸命にもがいていた女は徐々に動かなくなり、やがて力の抜けた腕がゆるやかに落ちていく。
白く細い首に男の両手が絡まり一際二人の体が近付いた時、地面に落ちた手がこちらに縋るように伸ばされた。
いやだ。母さんに酷いことしないで。
両手を固く握りしめたまま、言いつけを破り薮から飛び出す。
そして男にぶつかるその瞬間、背後から横腹を何かが一瞬で通り抜けていった。振り返った先には銃を構えた尾形さんがいて、銃口の向こうにある目と目が合ったかと思えば次の刹那私は地面に寝転がり、そんな私に馬乗りになった彼に見下ろされていた。相棒の名を叫ぶ少女の声を遠くに聞きながら、真っ赤に濡れた唇が弧を描く様を眺める。持ち上げたかった両腕はどこにあるのかすらわからない。
ねえ尾形さん、どうしてそんなに
──。
声を発するより先に落ちてきて顔が視界を覆い、全てが真っ黒になった。
***
──い、たい。さむい。
身体の芯まで響き渡る、不快な感覚。ズキンズキンと脈打つそれを痛みと理解した途端押し寄せた鈍痛に堪らず喉を震わせたら、天上から声が降ってきた。
「なまえ」
「う゛、ぁ…」
「なまえ、聞こえるか?聞こえたら返事をしてくれ」
胸に沁み入る声に導かれ重い瞼を持ち上げると、そこは薄暗い空間だった。目の前には、強さを湛えたつぶらな瞳。
「…………くま」
「違う、熊じゃない。しっかりしろなまえ」
違った。優しく肩を揺する大きな手の持ち主はよくよく見なくても谷垣さんで、左腕を首から下げた布で吊っていた。また怪我をしたんだろうか。見慣れた上着に、他の誰かを呼び起こしそうになる。
「俺が誰か分かるか?撃たれる前の記憶は?」
うたれるまえ?いまいちピンとこない単語を持て余しながらなんとなく頭を横に倒したら、隣に寝台を見つけた。膨らんでいる布団に目を凝らせば、そこには苦しげに横たわるインカㇻマッさんが
──。
「!?いん゛ッ゛…!!」
「だめだ落ち着けっ、お前も止血し終えたばかりなんだぞ!」
「おい、気が付いたのか?」
「、ああ…」
起き上がろうとした瞬間、頭を裂き腹を貫いた激痛。のたうち回ろうとした肩を押さえ込む腕や知らぬ声を気にする余裕もないまま、短くも激しい衝動を必死にやり過ごす。
お腹が痛い。頭が痛い。文字通り割れそうな頭の中に、次々と先ほどまでの光景が浮かび上がる。燃える監獄。亡骸の道標。
──私を見下ろす尾形さん。全部、全部思い出した。
考えなければいけない事は沢山あるのに自重しない不快感が思考を邪魔する中、名前を呼ばれ極々軽い力で頬を叩かれた。そのまま添えられた手の冷たさと湿り気に眉根を寄せる横で、押しこもった声が私の鼓膜を震わせる。
「時間がない、今すぐ理解してくれ。俺たちは第七師団に拘束された」
「……え?」
「すぐに尋問が始まるかもしれない、質問には正直に答えるんだ。迂闊な発言を見逃してくれるほどあの人は、」
唐突に話を切り上げた谷垣さんが素早く姿勢を正して間も無く、ガチャリと小さな音が部屋に響いた。考えなしに顔を向けた先で見つけたのは、ちょうど部屋へと入ってきた三つの人影。
扉を開けた一人をその場に残し二つの足音がこちらへ近付くにつれて、淀んでいた思考が鮮明になっていく。そうして私がいる寝台の傍に立った男性の顔がはっきりと見えた瞬間、心臓がどくんと大きく脈打った。
「はじめまして、お嬢さん。目覚めの気分はいかがかな?」
知性と教養が滲む柔らかな物腰。威厳と理性を感じる落ち着いた声。そして、こちらを値踏みするようにじっとりとまとわり付く視線。
重く張り詰めた空気が部屋を満たす中、その合間を縫って吸った息でささやかに喉を震わせる。
「……おかげさまで、なんとか」
「それは何より。頭の怪我というものは何かと予想がつきにくい」
「……失礼ながら…鶴見中尉、様。で、いらっしゃいますか…?」
「いかにも。ふむ、意識もはっきりしているようだ」
男性、改め鶴見中尉はうんうんと深く頷くと、一緒に部屋に入ってきたもう一人の男性が用意した椅子に腰掛けた。突然対峙することになった敵将を前にひとまず居住まいを正そうとしたけど、上半身に力を入れた瞬間脇腹を走った痛みに身が引き攣る。
「そのまま楽にしていなさい。臓器に損傷はないがかなりの出血だったと聞いている」
「……失礼いたします」
わざわざ抵抗する理由も気力もないので、大人しく従っておくことにした。凝った衣装を着こなすすらりと引き締まった体躯を上へと辿り、その先にある顔と改めて向き合う。
ひと目見た瞬間注視せずにはいられない、前頭部をすっぽり包み込むつるりとした額当てと、そこから這い出て頬骨の辺りにまで広がる変色した皮膚。おまけに口周りを飾る手入れの行き届いた髭と全てがこの人物の表情を覆い隠し、得体の知れない印象をより一層強調させているように思えた。
ふと鼻腔を通った血の匂いは、どこから漂ってきたものか。
「君には聞きたいことが沢山ある。が、まずは軽く現状を説明しておこう。
ここは網走近郊にある病院だ。昨夜網走監獄で起きた囚人たちによる暴動は我々第七師団が鎮圧し、負傷した杉元佐一はじめ君たちを保護した」
聞き捨てならない単語に素早く頭を持ち上げた途端、頭痛と一緒に脳を揺さぶられるような気持ち悪さに襲われやむなく首の力を抜いた。恐る恐るこめかみに伸ばした指が包帯に触れる。
「っ……杉元さんは…」
「…頭部を撃たれ危うい状況だったが、一命は取り留めた。容態もこの数時間で徐々に安定してきている」
生きてる。杉元さん、生きてる。
鶴見中尉の言葉にその事実を噛み締めて、つんとする鼻の痛みと押し寄せる感情の波に耐える。予断を許さない状況なのは分かっている。それでも、杉元さんなら大丈夫。生きているなら、大丈夫。根拠もなくそう思えた。
目頭の熱がやや落ち着いたのも束の間、もう一つ確かめなければならないことをはっと思い出して視線を鶴見中尉へと戻す。
「あし、アシㇼパさんは?」
「現在も捜索を続けているが、監獄内でも君たちが潜伏していたアイヌの村でも見つかっていない。状況や証言を鑑みるに、既にキロランケによって連れ去られている可能性が高いだろう」
再び世界がぐにゃりと歪んだ気がした。アシㇼパさんが、いない。私のそばにも、杉元さんのそばにも。彼女一人で小樽の山に入っている時とは訳が違う。どこにいるのか見当もつかない。最悪の状態で見つかっていないことは救いとはいえ、風穴の空いた胸にはさして響かなかった。
「君は監獄の東にある櫓のそばで倒れていたところを発見された。昨夜君の身に何が起きたのか、聞かせてもらえるかな?」
質問の体で告げられた命令。なけなしの頭脳を一瞬全力で回転させてみたけど、すぐに諦めた。
与えられた情報に嘘がないなら、この人は杉元さんの命をどうとでもできる立場にいる。それに先程の谷垣さんや昨夜の“あの人”の言葉から察するに、この情報将校とやらを私如きが出し抜けるとは到底思えない。
記憶を辿るため最初に思い出したのは、去り行く私たちを見送ってくれた三人の姿。
「……昨夜私は、あの人
──尾形さんと、北西側の山から、監獄を観察していました」
なるだけ余計なことを口走らないように、事実だけを並べていった。
夜になるとやがて目の前で例の騒動が始まったこと。尾形さんの判断で東の櫓へと移動したこと。
──櫓から降りてきた尾形さんに、杉元さんが撃たれたと告げられたこと。
「尾形さんにはもう手遅れだと言われましたが、私、どうしても諦めきれなくて……。先にアシㇼパさんたちと合流してほしいと伝えて、その場を離れようとしたら……その……」
「背後から尾形上等兵に撃たれた、と」
木目まで見えるようになった天井へと視線を移す。状況を考えれば、きっとそうなんだろう。それでも直接見たわけじゃないという理由だけで、どうしても完全には認められずにいた。
「…ふむ。それから?なぜ尾形上等兵は君を、」
その時、等間隔で木を叩く音が響いた。部屋中のほぼ全ての視線が一ヶ所に注がれる中、「入れ」と鶴見中尉の発した言葉に応じて入室するや規則的な所作で頭を下げたのは、またしても見知らぬ
──。
「あ」
思わずこぼれた声が聞こえたのか、姿勢を正した彼にギッと射殺さんばかりの視線を返された。が、それ以上は何を言うでもなく険しい面持ちのままきびきびとした動作でこちらに歩み寄ると、鶴見中尉の後ろで沈黙を貫いていた男性にヒソヒソと耳打ちで何かを告げる。その一言二言を聞き終えるや、すぐさま一歩前に出て鶴見中尉の耳元で囁く男性。その中継に意味はあるのか。
健康体だったとしても理解に苦しみそうな光景をただ眺めていたら、報告を聞き終えた鶴見中尉の口髭が動いた。
「杉元佐一の意識が戻ったそうだ」
「!!」
「一度失礼するよ。話の続きは改めて聞かせてもらおう」
一方的にそう告げ椅子から立ち上がった姿に咄嗟に「あのっ」と呼びかければ、早々に出口へ向けられていた目と今一度相見える。
冷徹な眼差しは何を言っても聞き入れることはないと言われた気にさせられるけど、この状況で杉元さんに会わせてもらえるとは思っていないから別に構わない。杉元さんどころか、この人とだって次にいつ会うことになるのかすら分からないのだ。
「杉元さんをお助けくださり、ありがとうございます」
だから、今のうちに伝えておきたかった。伝えた言葉にわずかに細められた目。それがどんな意図を孕んでいるのか考える余裕はもう残っていなくて、思うままに話し続ける。
「情報を得るためであるとは重々承知しております。それでも、あなた様が杉元さんを生かすとご判断くださったことに、心よりお礼申し上げます。……本当に、ありがとうございました」
考えの足りない発言だと自覚こそあれど、着々と痛みが増していく頭ではこれが限界だった。言いたいことを言い切ったちょっとした達成感に浸りながら、注がれ続ける視線を漠然とした心持ちで受け止める。
──やがて。ふっと瞼を下ろした鶴見中尉によって、止まっていた時が再び動き出した。
「なに、礼を言うのは私の方だよなまえさん」
「…え?」
「立て込んでいるとは言え初めに伝えるべきだった。非礼を詫びよう」
名前を呼ばれたことに面食らい、続く身に覚えのない話に半端に口を開けたまま瞬きを繰り返す。そんな私ともう一度向き合った鶴見中尉が纏う空気は、どことなくさっきまでとは違う気がした。
「小樽では負傷した谷垣一等卒を手厚く介抱してくれていたと報告を受けている。部下の恩人である君のことを手荒に扱うつもりはない」
寝台の反対側を見ると、口を引き結び鶴見中尉を凝視する谷垣さんがいた。明らかに動揺した様子に、おおよそを察する。谷垣さんが伝えたわけじゃないのなら、私たちが気付かなかっただけで実際にはそういうことだったんだろう。そういうこととはそういうことである。頭が回らない。後でちゃんと考えよう。
「アシㇼパが行方知れずとなった今、我々が次になすべきことは同じはずだ。少し身体を休めたら、改めて小樽での礼と今後についての話をしよう」
そう言うと、鶴見中尉はずっと側に控えていた男性と、その隣でずっと私を睨みつけていた男性
──鯉登少尉を連れて、今度こそ出ていった。見張りの兵士は扉の前に留まり、部屋には再び静寂が訪れる。
不意にふっと軽くなった胸に意識を戻すと、谷垣さんがずれた布団を掛け直してくれていた。それを合図に緊張の糸が切れ、急激に増した疲労が痛みに勝ち始める。
「よく頑張ったな。疲れただろう、今のうちに少し眠っておくといい」
「…インカㇻマッさんは…?」
ようやく訪れたタイミングを逃すまいと口にすれば、はたと谷垣さんの動きが止まった。ここではないどこかを見据え激情に揺らめく瞳に思わず確認した彼女は相変わらず苦しげで、だけど確かに呼吸を続けている。
「……インカㇻマッも頑張ってる。だからなまえ、お前もまずは自分の治療に専念するんだ」
「……はい…」
低音が子守唄のように耳をくすぐる。すっかり明るくなった天井に日の出の空気を感じながら、とうとう耐え切れず重い瞼を下ろす。
「…さむい」
「出血のせいだ。布団を探してくるから眠っていなさい」
「……杉元さんのこと、わかったら…」
「ああ、すぐに教える」
全身が酷く重い。薄明るい瞼の裏を見ていたはずの意識は、あっという間に奥深くへと落ちていく。
闇夜を照らす赤い光。
胸いっぱいに満ちる焼け焦げた匂い。
最後に見たキロランケさんの姿。
私を見下ろす尾形さんの表情。
杉元さんを呼ぶアシㇼパさんの声。
──私は、どこから間違えたんだろう。
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