何の音も聞こえない。
その人の唇は動いているのに、何も聞こえない。
その光景以外、何も見えない。
どうして。
どうして、彼が。
あそこにいるのは、私だったはずだ。
天霧に止められている風間の刃から滴り落ちる鮮やかな紅。
あれは、私のものであったはず。
「ど…して……」
混乱してしまって、うまく物を考えられない。
ただ分かるのは、私の代わりに彼が斬られたということ。
土方さんに何かを告げた彼の身体が、ぐらりと傾ぐ。
よろけながらも駆け寄って、すんでのところで彼の身体を支えた。
背に回した手に、べっとりと生暖かい何かが付着する。
その感触に身体が震え、激しい頭痛を感じた。
「誰か……誰か…!」
気を失いそうな気分に襲われながらも、必死に声を上げる。
自分の身体がこんなに言うことを聞かないのは、生まれて初めてだった。
「誰か早く…布を持ってきて!!お願い早く!!!!」
早く手当てをしなければ。
傷が内臓まで届いていたらどうしよう。
それより、早く血を止めなければ。
誰か、早く。
ぐらりと視界が揺らいだ。
だめだ、私まで気を失っている場合じゃない。
出血の量や彼の状態からして、一刻を争う。
早く手当てをしなければ、命に関わる。
「お願いだから、誰か…!!」
そう声の限りに叫んだ途端、私の世界が一際大きく揺れる。
より激しい頭痛と込み上げてきた吐き気に、私の意識はそこで途絶えた。
気が付くと、見知らぬ天井が視界に広がっていた。
どうしてこんな場所にいるのだろう、とぼんやりと考える。
たしか、淀城が寝返って、千鶴ちゃんたちを迎えに行ったら風間がいて。
記憶を手繰り寄せて、全てを思い出して勢いよく起き上る。
「山崎さん…」
彼は、どうなったのだろう。
あの怪我は、手当ては、容態は。
慌てて部屋を飛び出すと、ちょうど千鶴ちゃんがいた。
「千鶴ちゃん、山崎さんは!?どこにいるの!?」
縋りつくようにして彼女に尋ねると、千鶴ちゃんはすぐに案内してくれた。
あの後新選組は、大坂城へ入ったそうだ。
あの場で既に命を落としていた源さんは、ほど近い場所に遺体を葬られたと千鶴ちゃんが教えてくれた。
私が山崎さんの元へ辿り着いたとき、ちょうど松本先生が彼の様子を見ているところだった。
「松本先生……」
松本先生は私を見ると、黙って手招きをして部屋を出る。
「彼は…助かりますよね…?」
松本先生は幕府に仕えるお医者さまだ。
優秀な人だから、きっと彼を助けることができる。
縋る思いで尋ねたけれど、松本先生は険しい表情を崩さない。
「残念だが、そう長くは保たんだろう。今夜が峠だな」
告げられた言葉が信じられず、私は何も返すことができない。
「土方さんから聞いたが、新選組は船で江戸へ向かうことになったそうだ。彼も連れて行くということらしいから、せめて最期は看取ってやりなさい」
それだけ告げると、松本先生はどこかへ行ってしまった。
松本先生の言った通り、その後すぐに、私たち新選組は船に乗って江戸へと向かうこととなった。
まだ怪我の癒えていない近藤さんも、体調を崩したままの沖田さんも、そして今夜が峠と言われた山崎さんも船に乗せ、私たちは海上を漂っている。
私はずっと、船室の一角で荒く呼吸を繰り返す彼の傍で、あることを考えていた。
松本先生ですら諦めた彼を助ける方法が、ひとつだけある。
確実、というわけではないけれど、助かる見込みが全くないというわけではない。
きっと、彼は望まないけれど、こうするしかない。
彼に気付かれないよう懐から小刀を取り出して、鞘から引き抜く。
銀色の光を放つそれを左腕へと宛がったとき、突然強い力で右腕を掴まれた。
驚いて顔を上げると、いつのまに意識が戻ったのか、山崎さんが私の腕を掴んでいる。
「なまえ…」
「…放してください」
こればかりは譲れないと彼に反抗するけれど、彼は苦しみながらもしっかりと首を横に振った。
きっと私の身を案じてのことなんだろう。
この血を彼に与えて彼が助かったとすれば、その代償として私はその分衰弱するから。
でも、そんなことは関係ない。
この人が助かるのならば、私の命なんて惜しくない。
「ごめんなさい…今回ばかりは、言うことを聞けません」
弱っている彼の腕を振り払うのは、難しいことではなかった。
左腕に傷をつけ、それに沿って溢れて来た紅を口に含む。
口の中に鉄の味が広がった。
もしこの血に本当に雲居の血が混じっているなら、彼を助けられるかもしれない。
瀕死の人間には効かないと言われたけれど、やってみないと分からない。
「なまえ…!」
私を止めようと上体を起こしかけた彼の頬に手を添え、唇を重ねて私の血を彼の口へと無理矢理流し込む。
たとえこれで彼が助かって、私が死んでしまっても構わない。
自分の命よりも、目の前のこの人の命が、私にとってはかけがえのないもの。
もし私が死んでも、彼には生きていて欲しい。
きっと、自分より相手が大事なのは彼も同じだと思う。
でも、今まで守ってくれた分を今ここで返したいと言い訳すれば、彼は分かってくれるだろうか。
おそらく、分かってはもらえないだろう。
彼がようやく飲み込んだのを感じて、私は唇を離して彼の傷に障らないよう背中にそっと腕をまわして抱きしめた。
どうか効果が現れるようにと何度も願ったけれど、私にもたれかかる彼の呼吸が穏やかになることはない。
不意に、お千ちゃんの言葉が脳裏に響いた。
私の血では、死に近付きすぎた人の命までは救えない、と。
遅すぎたのだ。
「なまえ…」
耳元で、彼の掠れた声が私を呼ぶ。
「君は、生きろ…」
彼の震える手が、私の頭を優しく撫でた。
視界が滲む。
「新選組を…頼む……」
助けたかった。
たとえ自分の身を犠牲にしても、この人には生きていて欲しかった。
でも、もうそれも叶わない。
私にはもう、何もできない。
この声が、熱が、何よりも愛しくて大切なのに、私にできることはもう何もないのだ。
「俺の分も…君は……」
その言葉を最後に、私の頭を撫でていた手がするりと離れた。
そして、彼の身体の重みがさっきよりも増したのを、私はぼんやりと感じていた。
「山崎さん……?」
呼んでも、もう返事はない。
何も聞こえない。
彼の荒い呼吸も、私を気遣う優しい声も。
また無茶をしたと言って私を叱る声も、呆れたような声も。
何度呼んでも、もう返事をしてくれない。
私を愛してくれた人は、私が愛した人は、もういない。
そう思った瞬間、必至に堪えていた涙が頬を伝っていく。
止めどなく溢れる涙を止める術を、私は持ち合わせていなかった。
もう動くことのない彼の身体を力の限りに抱きしめて、その肩に顔を埋める。
まだ残っているこの温もりも、すぐになくなってしまうだろう。
それまでは、感じていたかった。
「なまえちゃん、山崎さんは……」
背後から千鶴ちゃんの声が聞こえて、その後息を呑むような気配を感じた。
でも、振り返る気にはなれなかった。
彼女は山崎さんの死を察したのか、ばたばたと船上へと上がっていく。
その音を聞きながら、私はゆっくりと彼の身体を横たえる。
少しだけ開いてしまっている瞼を閉じてあげて、その端に流れる涙を指で拭う。
どうして、彼が泣くのだろうか。
どうして、こんなに穏やかな表情で涙を流しているのだろうか。
泣きたいのは、私の方なのに。
江戸までの道のりは長いから、山崎さんの遺体は水葬されることになった。
遺体を白い布で覆い、板と共に海へ沈めるのだそうだ。
私が自分でつけた左腕の傷は、千鶴ちゃんが手当てをしてくれたから、もう痛みはあまりない。
痛みすら感じる余裕がないほど、私は哀しみに暮れているのかもしれないけれど。
甲板には、この船に乗ったほとんどの人が姿を現している。
彼を見送るために。
ついに、彼の遺体が海へ投げ込まれる。
黙って見送ろうと思っていたのに、彼が海に落ちた音が聞こえて私は思わず駆けだした。
そして船べりから身を乗り出して、海の底へと消えていく白をじっと見つめる。
また、視界が滲む。
届かないと知りながら、手を伸ばす。
もう二度と触れられない温もりを求めても、私の指先を受け止める姿はない。
「なまえちゃん…」
千鶴ちゃんが隣に来て、背中を擦ってくれる。
彼の姿が海の底に紛れて見えなくなると、私はずるずるとその場に座り込んだ。
喉から湧き上がってくる嗚咽を、抑えることもなく漏らしてうずくまる。
逝ってしまった。
もう、私の手が届かない場所に逝ってしまった。
どんなに名前を呼んでも、声を上げても、彼は戻っては来てくれない。
できることなら、もう一度だけでいい。
その声で、私の名を呼んでほしい。
たとえそれが一度きりでも、最後だとしても。
叶わないと分かっていても、願わずにはいられなかった。
分かっている。
戦いの中に身を投じていれば、いつかはこうして別れがやってくる。
そんなことは、百も承知だった。
いつまでも泣いているわけにはいかないことなんて、分かっている。
哀しみに暮れていては前に進めない。
だけど、どうか今だけは、こうして泣くことを許して欲しい。
この夜が明けるまでは、どうか。
ようやく涙が枯れたのは、東の空が白み始めた頃だった。
いつの間にか、傍にいてくれた千鶴ちゃんの姿はない。
ゆっくりと立ち上がって、そろそろ日が昇るであろう空を見上げる。
もう少しすれば、朝日が昇る。
あの人がいなくなっても、それは変わらないのだと実感した。
きっと私が死んでも、それは変わらないのだろう。
「なまえ」
ゆっくりと振り返ると、そこには土方さんの姿があった。
「江戸に着いたら、お前は奥多摩に帰れ」
突然言われた言葉に、驚くことはなかった。
予想はしていたことだった。
「そんな状態じゃ、この先は無理だろ。俺の実家に行け。話なら俺から……」
「私は、新選組に残ります」
土方さんの言葉を遮って、私は言い放つ。
決意は揺るがない。
「お前…」
「山崎さんに言われたんです。新選組を頼むと。私にどこまでできるかは分からないけれど、私はこの先を託されました」
自分の分も生きて、新選組を頼むと彼は言った。
彼が死ぬ間際に言ったあの言葉を、私は深く胸に刻んだのだ。
私を突き動かすのは、あの人の言葉。
そうすることで、彼は私の中で生き続ける。
「それに、今更普通の生活をしろと言われても無理ですよ。昔から男所帯で生活してきたっていうのに、ただの町娘になれって言われたって困ります。お嫁にだって行けるかどうか分かりませんからね」
冗談めかしてそう言ったあと、口を引き結んで土方さんを見据える。
「何を言われたって、私はどこまでもついて行くつもりです。いいえ、絶対について行きます。山崎さんの分も」
私の決意の程を察したのか、土方さんは額に手を当てて溜息をついた。
「ったく、そう言うと思ったよ。どうせお前のことだから、噛り付いてでも離れねえんだろ?」
「よく分かってるじゃないですか」
何があっても、私は新選組を離れずにいることを心に決めた。
そして彼の分も生きて、この新選組の行く末を見届けよう。
この先の道は、ものすごく険しいかもしれない。苦しいかもしれない。
私もいずれ、戦いの中で死ぬことになるのかもしれない。
でも、どんな未来が待っていようと構わない。
山崎さんは、土方さんを守ることで新選組を守った。
そして彼は、私の代わりに刃を受けた。
ならば、彼の志を継ぐべきなのは、私だ。
いつか、この命が燃え尽きるその瞬間まで、私は思いを託していった人たちの代わりに生き続けよう。
昇る太陽を見つめながら、私はどこまでもこの思いを胸に抱いて、歩んでいくことを誓った。
残された者の誓い
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