千鶴ちゃんが私の元へ駆けこんでそれを伝えてくれたのは、夕刻だった。
近藤さんは今日はたしか、二条城で軍議に出ていたはず。
もちろん護衛もつけていたのに。
いや、それよりも一体誰が近藤さんを。
千鶴ちゃんに案内されて急いで近藤さんが運ばれた部屋へ行くと、もう既に山崎さんが近藤さんの怪我を調べていた。
「撃たれたのは、右肩ですか?」
「ああ。幸い、弾は貫通している」
弾が貫通しているなら、あとは止血さえできればいい。
でも、山崎さんが懸命に対処しているにも関わらず、出血が止まる気配はなかった。
額に汗を浮かべながら、彼は意を決したように口を開く。
「これでは血が止まらない。焼く用意を」
「…はい!」
血が止まらないのなら、傷口を焼くしかない。
苦痛は伴うけど、止血のためだ。
用意をして、火で炙った鏝を山崎さんに手渡す。
「いいですね?」
近藤さんの身体を抑える左之さんと斎藤さんが頷いたのを見て、山崎さんは傷を焼き始めた。
近藤さんが痛みと熱に呻き声を上げるのを聞きながら、その額に浮く汗を拭く。
傷を焼いて包帯を巻き終わってから、山崎さんは溜息を漏らした。
「ひとまず、今はここまでが限界だ。あとは、回復を待つしかない」
それだけ言って、彼は報告の為に土方さんたちの元へ向かう。
私は近藤さんを千鶴ちゃんに任せて、沖田さんの部屋へと向かった。
きっと彼のことだ、近藤さんが襲撃を受けたと聞いて黙っているはずがない。
早足に彼の部屋まで行くと、なんだか様子がおかしかった。
部屋の中から醸し出される空気に、肌が粟立つ。
「沖田さん…?」
遠くで銃声が鳴っているのを聞きながら障子越しに声をかけると、さっと障子が開いて沖田さんが姿を現した。
その髪は月光を反射して白く光り、瞳には血のように鮮やかな紅色。
私の目の前にいたのは、紛れもなく羅刹だった。
「ごめんね、なまえちゃん」
彼は、憂いを帯びた表情で私を見下ろしている。
鮮やかな赤の瞳に、私が映っていた。
「おきた、さん……?」
嘘だ。
彼はあの変若水を、まだ持っていた。
そしてそれを飲んでしまった。
また遠くで、何発かの銃声が響く。
沖田さんは私から視線を逸らしてその方角を瞳を細めて見つめ、突然駆けだした。
「待って…!沖田さん、待って!!」
動かない身体を叱咤して、慌てて彼の後を追う。
最近は咳もひどくなっていた彼があんなに走れるなんて、羅刹とならなければ無理だ。
いや、彼が羅刹となってしまったのは、あの容姿が何よりの証拠。
さっきの銃声はおそらく、挑発だ。
近藤さんを襲撃した者たちが新選組を挑発しているもの。
沖田さんもそれを分かっていて、彼らに復讐しようとしている。
屯所を出て彼の後を必死に追いかけるけれど、途中で見失ってしまった。
時折鳴り響く数発の銃声を頼りに、沖田さんの姿を探す。
そうしてようやく見つけたとき、彼は誰かと対峙していた。
「沖田さん!!」
私が声を上げると、彼ははっとしたようにこちらを見る。
「ああ、千鶴じゃなくてなまえが来たのか」
そう言ったのは、沖田さんと対峙している人影。
よく見ると、千鶴ちゃんとよく似た薫さんだった。
「あなたは…薫さん…?」
「ああ、そうだよ。まぁ、本当は男なんだけどね」
たしかに、今彼が纏っているのは男物の衣だ。
戸惑う私を、彼は目を細めてじっと見つめる。
「いいよなあ、君は。僕と同じように本家には引き取ってはもらえなかったはずなのに、ずいぶんと大切にされてたんだろ?女鬼ってだけでこうも扱いが違うなんて、本当に理不尽な話だよね」
薫はそう言いながら、ゆっくりと私へと歩み寄ってきた。
口に笑みを浮かべてはいても、瞳は全く笑っていない。
それどころか、私に向けられているのは嫉妬と憎悪に似たものだった。
「そうだ。君にも、この苦しみに見合うものを味わってもらおうかな。千鶴と一緒だから、構わないよね?」
さらに歩み寄る薫に思わず後ずさると、突然目の前が浅葱に染まる。
「この子に手を出したら、殺すだけじゃ済まさない」
それが沖田さんの背中だと気付くまでに、そう時間はかからなかった。
彼はじっと薫を睨んでいる。
彼が発した声は、今まで聞いたこともないくらい冷徹な色を帯びていた。
その様子を見た薫は、恐れるどころか声を上げて笑う。
「本当に大事なんだね、その女が…ああ、ひょっとして、沖田にとっては千鶴よりもなまえが大切なのかな?」
こちらを見ていた薫が、私たちの背後へと視線を送る。
一体何がと思って振り返ると、そこには物陰に姿を隠している男たちの姿。
そのうちの一人は銃を構えている。
「沖田さん!なまえちゃん!」
遠くから、私たちの元へ走ってくる千鶴ちゃんと平ちゃんの姿が見えた。
浪人の銃口は、まっすぐ千鶴ちゃんを狙っている。
こちらに意識を向けている二人には、ちょうど陰になっていて浪人たちが見えないのだろう。
「千鶴ちゃ…」
来てはいけないと言おうとしたそのとき、私の隣を浅葱色が駆け抜ける。
銃声が二発、夜の静けさの中に響いた。
銃弾を放った浪士たちは、突如目の前に現れその身で銃弾を受けた沖田さんを見て、がたがたと震えている。
「ひ、退け、退け!」
男たちは怯えた表情を浮かべて、その場から走り去っていく。
「沖田さん…!」
ぐらりと傾いで地に膝をついた彼の元へ駆け寄り、倒れるすんでのところで受け止める。
彼は苦しそうに顔を歪め、気を失っていた。
私たちの元へ辿り着いた平ちゃんと千鶴ちゃんは、沖田さんの姿を見て驚きを隠せない様子だった。
「総司…お前、羅刹になっていたのか…」
「沖田さん…どうして…」
どんなに言葉をかけても反応しない彼を、駆けつけた二人と一緒に屯所まで運ぶ。
彼は羅刹だから、銃弾さえ取り除けば傷は治るはずだ。
そのはずだった。
「おかしいですね…羅刹となったならば、銃弾さえ摘出すれば怪我は治るはずなんですが…」
屯所に戻って銃弾を摘出することができても、沖田さんの怪我が塞がることはなかった。
羅刹の第一人者である山南さんも、何が起きているのか分からないようだ。
沖田さんの身体から出てきた銃弾は鉛ではなく、銀。
おそらく、彼の傷が癒えないのはそのせいだ。
特に確証があるわけではないけれど、それ以外の理由が考えられない。
あの浪士たちと薫は仲間で、鬼である薫が銀の銃弾を使うように言ったのだろう。
羅刹が銀の銃弾に弱いことを薫が知っていたのは、きっと彼が綱道さんと繋がっているからだ。
そして薫は沖田さんを羅刹に仕立て上げ、こうして怪我を負わせることが目的だった。
沖田さんに怪我をさせ、それが自分のせいだったと千鶴ちゃんに思い込ませるために。
あの銃口は確かに千鶴ちゃんに向けられてはいたけれど、本当にあの場で千鶴ちゃんを殺すつもりだったのなら、わざわざ銀なんて使う必要はない。
どうして薫が沖田さんに変若水を渡したときに、それを取り上げなかったのだろうか。
私がそれを山南さんに渡せば、それで済んだはずなのに。
「こうなったら、二人とも松本先生の治療を受けさせるしかないな」
少し離れた場所にいる土方さんの声が聞こえた。
「二人を、大坂城に護送する」
目の前に横たわる二人を、じっと見つめる。
近藤さんと沖田さんの傍にいるのは、今は私だけだった。
すっかり夜も更けてしまって、夜の静けさが広がるだけ。
本当なら私も眠る時間だけれど、二人のことが心配で眠れそうになかった。
だから、こうして傍にいる。
近藤さんも沖田さんも、私にとっては大切な人だ。
幼い頃から一緒にいて面倒を見てくれて、今でも傍に置いて信頼してくれている。
私にとっては、家族みたいなもの。
新選組の人たちは、皆大切だ。
それこそ幹部の皆だけではなく、怪我をしたときに手当てをしてあげた隊士や、繕いものをしてあげた隊士、羅刹になってしまった隊士だって例外じゃない。
だから、誰も失いたくはないとは思う。
でもそれは、私の我儘でしかない。
戦いの中に身を置いている私たちがいつまでも生きていられる保証なんて、どこにもないから。
「なまえ、ちゃん……?」
小さな声が、私の名前を呼んだ。
はっとしてそちらへ視線を向けると、沖田さんがうっすらと瞳を開けている。
「沖田さん…」
「薫に、何もされてない…?」
こちらに伸ばされた手を握って、微笑みながら頷く。
それを見て、彼は安心したように目元を緩める。
「それで、僕は…どうなったの……?」
弱々しく尋ねてくる彼は、きっと記憶が曖昧なのだろう。
私は彼に、受けた銃弾が銀で、そのせいで受けた怪我が塞がらないことを告げた。
「近いうちに、近藤さんと沖田さんは大坂城に護送されることになりましたよ。松本先生に診てもらう為に。だから、しっかり治してくださいね…?」
「……そっか…」
沖田さんはそう言ったきり、黙り込んでしまう。
でも、その瞳は私に向けられたまま。
何か言いたげな彼をじっと見つめ返すと、私の手を握る彼の手に少しだけ力が籠もった。
「ねえ…なまえちゃん」
「なんですか…?」
「一緒に、行こう…」
真剣な表情で、彼は言った。
どこに、と聞かなくても分かった。
大坂城に一緒に行こうと、彼は言っている。
その表情と弱々しくもどこか芯の通った声が、それがただの冗談ではないことを示していた。
「どうしてですか…?」
「僕の知らない場所で、君に何かあったら…嫌なんだ…」
まるで懇願するように、彼は私の手を掴んで離さない。
「君を、守ってあげられない…」
彼の言葉に、私は迷った挙句首を横に振った。
「だめです、行けません。私は行けない…」
行くか行かないかを迷った訳じゃない。
ここまで本気で私に何かを言う彼を今まで見たことがなくて、どうしたらいいのか分からなかった。
「…山崎君がいるから…?」
彼の手が、また少し強く私の手を握る。
かけられた言葉に、私はすぐに首を横に振った。
「そういうことじゃありません。これから、何が起こるか分からないんです。怪我人ではない私まで、大坂城に行くわけにはいきません」
私の言葉に、沖田さんは少しだけ黙った後、小さく微笑みを浮かべる。
「…なら、今夜はずっとこうしててよ」
そう言って、彼は私の手を握り直した。
私は夜通し、沖田さんの手を握り続けていた。
その二日後の、十二月二十日。
近藤さんと沖田さんは治療の為、大坂城へと護送された。
そして、後に鳥羽伏見の戦いと呼ばれる激戦が幕を開けたのは、それから十四日後のことだった。
鳴り止まな大砲の音と、同時に起こる地響き。
その合間合間に耳に入るのは、怪我をした隊士の呻き声。
「う…うう……」
「血は止まりましたから、もう大丈夫ですよ。気をしっかり持って」
包帯を結んでそう言うと、目の前の傷ついた隊士は呻き声を上げながらも、しっかりと頷いた。
年が明けた、慶応四年の一月。
薩摩軍と旧幕府軍の間で、激戦の火蓋が切って落とされた。
私たち旧幕府軍一万五千に対し、薩摩軍は五千と、数の上ではこちらが優位だった。
けれど、この戦いはもはや数での勝負などではない。
銃や大砲などの最新兵器を駆使した薩摩軍の前に、旧幕府軍は圧倒され、次々とその数を減らしている。
新選組では、銃撃で受けた傷の治療の為大坂に送られた近藤さんに代わって、土方さんが指揮を執っていた。
「なまえ、手伝ってくれ」
「はい!」
怪我人に肩を貸しながら戻ってきた山崎さんの姿を見てほっとしながらも、駆け寄ってその怪我人をゆっくりと床に横たえる。
呻き声をあげる彼に手当てを施し、血に染まった手を傍らの水桶で洗った。
怪我人の状態や数を見る限り、戦況は明らかに不利だ。
戦いについてはあまり知識がない私にも、それくらいは分かる。
このまま戦い続けても、徒に人の命を失うだけ。
「おそらく、そろそろ撤退命令が出る」
私の考えを察したのか、山崎さんが険しい表情でそう告げる。
「今頃、副長たちが話し合っているはずだ」
「そうですか……」
たしかにこの状況なら、それが一番適切な判断だろう。
でも果たして、ここで撤退したとして、私たちは勝てるのだろうか。
「これから、どうなるんでしょう…」
「それは俺にも分からない。俺たちは、副長に従うしかない…あの人は、頭だからな」
「ええ…そうですね」
言い表せない妙な不安を抱えながらも、私は彼の言葉に頷いた。
それから私たち新選組は、日が落ちてから羅刹隊を先発させて陣を進み、撤退することとなった。
援軍を呼ぶため、千鶴ちゃんと井上さんが伝令に走ったということを聞いたのは、彼女たちが奉行所を出た後だった。
「伝令なら私が行ったのに…」
「そんなに心配することじゃねえだろ。別に戦場に送り込んだわけじゃねえし、源さんだってついてる」
「それは…そうですけど……」
淀城の援軍と落ち合う場所まで来て、私たちは彼らを待つ。
さっきから、ずっと胸騒ぎがする。
どうしてかは分からない。
なんとか気を静めようと、皆のいる場所から少し離れた場所まで来て、身体を伸ばす。
ずっと気を張っていたから、疲れているのかもしれない。
「おい」
あまり聞き覚えのない声に振り返ると、そこには青い髪を持つ長身のあの男がいた。
「不知火匡…何しに来たんですか、こんなところに」
小太刀に手をかけながら尋ねると、不知火は呆れたように溜息をついた。
「おいおい、そう構えるなよ。別に攫いに来たわけじゃねえって」
「それなら、どうしてここに…?」
「ちょっとした情報を教えに来てやったんだよ。聞いて損する話じゃねえぜ」
相手に戦う意思がないのを感じて、私も構えを解く。
私の無言を催促と察したのか、不知火は口を開いた。
「お前らが当てにしてる淀藩だけどな、新政府軍に寝返りやがった」
予想していなかった言葉に、私は何も言えずに固まる。
「あいつらは旧幕府軍を見切って、新政府側に味方する気だ。ったく、相変わらず人間ってのはめんどくせえ生き物だな」
「それは…本当なんですか…?」
淀城には、源さんと千鶴ちゃんが向かっている。
もしそれが本当なら、二人の身が危ない。
震える声で尋ねると、不知火はしっかりと頷いた。
「ああ。俺が嘘をついたって、何も得することなんかねえよ。それに、ここでお前を助けてやらねえと千春が怒るだろうからな。ま、そういうことだ。じゃあな」
それだけ言うと、不知火は姿を消した。
急いで身を翻して、私は土方さんに聞いたことを伝えに行く。
きっともう、源さんと千鶴ちゃんは淀城に着いていて、彼らが寝返ったことに気付いているだろう。
もしかしたら、途中で淀藩の連中が張っているかもしれない。
不知火から聞いた話を土方さんに伝え、彼と一緒に源さんと千鶴ちゃんがいるであろう場所を目指す。
しばらくして見えてきたのは、千鶴ちゃんと風間の姿だった。
「新選組のことか?奴らとて刃向うものを斬るだけだ。俺と奴らの何が違う」
「俺たちは、守るものがあるから戦っている。己のことだけを考えているお前と一緒にするんじゃねえ」
聞こえてきた風間の言葉に、土方さんが凛と言い放つ。
私は地に伏している誰かの姿に気付いて息を呑んだ。
「源さん……?」
まさかと思って駆け寄ると、それは間違いなく源さんだった。
でも、もう息はない。
その身体は血に汚れていた。
「…お前か、斬ったのは」
土方さんが、低い声で風間に尋ねる。
「土方さん、ちが……」
「だったらどうする?」
「風間さん!?」
何か言いかけた千鶴ちゃんの言葉を遮り、風間が口元に笑みを浮かべながら答えた。
おかしい。
もし風間が源さんを斬ったなら、千鶴ちゃんが小太刀を抜いているはずだ。
でも彼女は小太刀に手をかけることも、抜くこともしていない。
いつもの土方さんなら、それくらいのことには気付くはずだ。
でも土方さんは、風間を見据えたまますらりと刃を抜く。
「やれやれ、また無駄死が増えるか…何故そう死に急ぐ」
風間の呆れ声に、土方さんが目を見開いて構える。
「無駄死って言いやがったか、今!」
今まで見たことがないほど、土方さんは怒りを露わにして刀を振り上げた。
「無駄死にと、ほざきやがったか!!」
「土方さん!やめてください!」
千鶴ちゃんが止めようと声をあげるけれど、それも二人には届かない。
「千鶴ちゃん、こっちに」
近付けては危ないと思って、ひとまず源さんから離れて彼女を背に庇って離れる。
「なまえちゃん、源さんは風間さんに斬られたんじゃ……」
「うん、分かってる。土方さんもそれは気付いたと思うんだけど…どうして…」
まるで、今までの怒りを全て風間にぶつけているようだ。
相手は鬼だというのに、土方さんの勢いは止まらない。
むしろ、風間が押されている。
その瞬間、突然風間の姿が一変した。
「この姿を人の目に晒すことになるとは思わなかった…本物の鬼の姿を…!」
羅刹のような白髪に、金色の瞳。
額に角を持つ姿は、まさに鬼そのものだった。
「あれが、本物の鬼の姿…」
風間から放たれる殺気と雰囲気に、ぞわりと肌が粟立つ。
姿を変えた風間は突然姿を消し、いつの間にか土方さんの背後にまわっていた。
それに気付いた土方さんが振り返ろうとするも、刀を弾かれてしまう。
弾かれた刀は、彼の背後の地に突き刺さる。
「終いだな」
土方さんに刀を向け、風間は口を開いた。
「所詮お前たちは、一人では何の力も持たない腰抜けの集まりだ。そのお前たちに何が守れる?片腹痛いわ!」
土方さんはすんでのところで振り下ろされた刀を避け、後ずさって背後に刺さった自分の刀を抜いて再び構える。
肩で息をしている姿から、疲弊しているのが窺える。
そんな彼を見て、風間は鼻で笑った。
「そんな様でまだ抗うつもりか」
土方さんは懐に手を差し入れ、何かを取り出した。
「それは…!」
それを見た千鶴ちゃんが小さく声をあげる。
土方さんの手に握られているのは、紛れもなく変若水だった。
まさか、土方さんまで。
「変若水か、どこまでも愚かな真似を…」
風間は呆れたように土方さんを眺めている。
それに対して、土方さんは変若水をじっと見つめたまま口を開いた。
「愚か…?それがどうしたってんだ…」
やめて、と言いたいのに、声が出なかった。
私には止められない。
止めることも憚られるほどの雰囲気を、彼は醸し出していた。
「俺たちは元から、愚か者共の集団だ。馬鹿げた夢を見て、それだけをひたすら追いかけてここまできた…今はまだ、坂道を登ってる途中なんだ。こんなところでぶっ倒れて、転げ落ちちまうわけにはいかねえんだよ!!」
そう言い切って、土方さんは変若水の蓋を口にくわえて吐き捨てる。
「たとえ羅刹になったとしても所詮はまがい物。真の鬼の敵ではない」
「やってみなきゃ、分かんねえぜ!!」
そのまま、土方さんは変若水を煽るように口の中へと流し込む。
その直前、土方さんの口元が笑った気がした。
背後で悲鳴を上げる千鶴ちゃんを抑えて、様子を伺う。
土方さんの手から、変若水の入っていた容器が離れて地に転がった。
今はまだ、苦しんでいる様子はない。
でも、彼が羅刹へ変貌するのも時間の問題だろう。
「いい加減我慢ならねえ…腰抜けの幕府も、邪魔くせえてめえら鬼も…」
土方さんの黒く長い髪が徐々に白へと変わっていく。
どこからか風が吹いて、その長い髪を揺らした。
「まがいものだと?それが一体どうした…俺たちは今までも、散々武士のまがい物として扱われてきたんじゃねえか…」
小さな声で、だけどしっかりと、土方さんは呟く。
それは、今まで近藤さんと共に新選組を率いてきた彼の心の声。
「だけどな、何があっても信念だけは曲げねえ。まがい物だろうが何だろうが、貫きゃ誠になるはずだ。羅刹の俺がお前を倒せば、俺は、俺たちは、本物になれるってこったろう!!」
半ば叫ぶようにして、土方さんは風間へと斬りかかる。
その速さと勢いは先程とは比べ物にならないほどで、風間も驚いている様子だった。
これが、変若水の力。
「どうした?押し負けてるぜ!!」
そう言って土方さんが振るった刃の先が、風間の左頬を掠める。
その頬から一筋の血が流れた。
「まがい物に傷をつけられた感想はどうだ?鬼の大将さんよ」
「貴様が…貴様ごときが、俺の顔に傷を!!」
風間の表情が険しくなり、迸る殺気に肌が粟立った。
いけない。
たとえ羅刹になったところで、鬼である風間が本気になってしまったら、土方さんはきっと勝てない。
今、あの人を失う訳にはいかない。
「なまえちゃん!?」
駆けだした私の後ろで千鶴ちゃんが私の名を呼ぶ。
けれど気付いたら身体が動いていて、止まらなかった。
土方さんを庇うように彼の前へ出て、腕を広げて風間を見据える。
私の存在に気付いてはいないのか、振り下ろされる刃が止まることはない。
今、副長であるこの人を失ってしまう訳にはいかない。
新選組の要であるこの人を、こんなところで死なせるわけにはいかないのだ。
来るであろう痛みに、私はゆっくりと瞳を閉じた。
私の身体が突然突き飛ばされ地に転がったのは、その直後のこと。
予想していた痛みとは全く違った衝撃に驚き、瞳を開いて慌てて身を起こす。
「何しているんですか、副長…」
目の前で苦しそうに息をしながら土方さんを庇っているのは。
さっきまで私がいたはずの場所にいたのは。
山崎さんだった。
守りたいもの
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