いや、見慣れていたと言った方が正しい。
この天井は、どう見ても八木邸の天井だ。
天井の造りや小さな染みも、かつて私が寝起きしていた部屋のものと同じ。
突然のことに驚きながら、ゆっくりと身を起こしてまわりを見渡す。
間違いない。ここは八木邸の私の部屋だ。
でもたしか、私たちは船で江戸へ渡ったはず。
八木邸に身を寄せていたのは、もう何年も前の話だ。
縺れる足でなんとか立ち上がり、震える手で障子を開いてみる。
目の前に広がったのはやはり見慣れた八木邸の庭で、唖然とすることしかできない。
混乱する脳を必死に処理しながら立ち尽くしていると、遠くから足音が聞こえた。
そちらへ視線を向けた瞬間、私の心臓が一際大きく跳ねる。
「山崎さん……?」
その人は私に背を向けて、廊下を歩いている。
ああ、あれは私がずっと見続けてきた背中だ。
失ってしまったはずの、追い続けてきた背中。
「山崎さん……山崎さん…!」
込み上げてくる涙を拭うことも忘れて、私は駆け出した。
転びそうになりながらも、必死に追いつこうと足を動かす。
けれど、私が走り出した瞬間、まわりの景色がぐにゃりと大きく歪んだ。
さっきまでしっかりとしていた足元も、まわりの景色と共に大きく波打つ。
「あっ…!」
歪む景色に足元を掬われ、立っていることさえままならずに私はその場に倒れ込んだ。
それでも立ち上がろうとするけれど、まるで地に縫い付けられたように身体が言うことを聞かない。
縋る思いで顔を上げると、あの背中はしっかりとした足取りで、私からどんどん遠ざかって行く。
「待って下さい、待って…山崎さん!!」
声の限りにその名を呼んでも、彼は振り返らない。
こちらを見て欲しいのに、私の声なんてまるで届いていないようだ。
涙に滲む視界の中で小さくなっていく背中に、唇を噛み締めて拳を握る。
もどかしくて、悔しくて、哀しくて。
懐かしい八木邸の景色が、彼の歩む向こう側へと吸い込まれていく。
ああ、これは夢だ。
心の奥底に秘めてある願いが、夢となって出てきてしまったのだ。
やがて彼の背中は見えなくなり、いつの間にか辺りは闇に包まれる。
何も見えない、何も聞こえない深い深い闇の中に、私だけが一人、取り残されていた。
次に瞼を開けたときに視界に広がっていたのは、見慣れない天井だった。
ゆっくりと身体を起こしてまわりと見渡してみると、眠りについたときと同じ部屋。
頬に涙が伝うのをそのままに、私はまた拳を握りしめる。
どうせなら、今までの全てが夢だったら良かったのに。
羅刹も戦も、何もかもがただの夢で、目が覚めたら皆がいて。
もう一度皆で楽しく笑えて、あの人の背中を追い続けることができたら、どんなに良かっただろう。
そう思うと、涙は余計に溢れて来た。
もう、どうしても戻ることはできないのだ。
私が心から切望している、あの日々には。
私たち新選組は鳥羽伏見の戦いの後、江戸に戻って品川の釜屋という宿に身を寄せていた。
近藤さんはまだ怪我が治りきっていないし、土方さんは毎日のように出かけて、幕臣の方々との直談判を繰り返している。
そんな隊内の空気は、正直あまり良くない。
鳥羽伏見で、私たち幕府軍が敗れたことも原因のひとつだろう。
けれどそれ以上に、総大将である徳川将軍が真っ先に江戸に逃げてしまったというのも影響している。
新八さんや左之さんも、その件に対してはかなり不服な様子だ。
これから先、私たちが一体どうなっていくのか、今の私には見当もつかなかった。
目的の場所に向かいながら、久々に戻ってきた江戸の町の空気を吸い込む。
すれ違う人たちは活気に満ちていて、私たちが揺れ動く時代の中にいることを忘れてしまいそうだ。
そんなことを考えながら歩き続け、目的の植木屋の前で立ち止まる。
千駄ヶ谷の植木屋。
松本先生の勧めで、沖田さんが療養している場所だ。
家の人に声をかけて、中へと通してもらう。
庭園を眺めながら歩みを進め、奥の部屋へと向かった。
「沖田さん、なまえです」
案内された部屋の襖の前で声をかけると、中から返事が聞こえる。
そっと襖を開けると、布団から上体を起こした沖田さんがこちらを向いていた。
中へ入って襖を閉めてから、彼の傍らに腰を下ろす。
彼は嬉しそうに笑みを浮かべていた。
「なまえちゃんが来てくれるとは思わなかったよ。わざわざありがとう」
「土方さんに、顔を出してやれって言われたもので…きっと寂しがってるだろうから、って」
「たしかに、土方さんが来るよりもなまえちゃんが来てくれた方が、僕は嬉しいかな」
そう言って、沖田さんは声を上げて笑う。
口では元気な素振りを見せていても、その肌は白く、彼が病人であることを何よりも示していた。
「こんな昼間に起きていて、辛くはありませんか?」
まだ陽は高い。
羅刹の身なら、きっと起きているだけで辛いだろうに。
「一日中寝てるような生活だから、いつ起きようがそんなに変わらないよ。それより……」
沖田さんは肩を竦めながらそう言うと、じっと私を見つめる。
「なまえちゃんこそ、大丈夫なの?」
何が、とは言われなくても分かった。
心配させまいと、無理矢理笑顔を浮かべる。
「大丈夫ですよ。心配いりません」
「…そんな嘘で、僕を誤魔化せると思った?」
本当は辛いくせに、と沖田さんは私の頭に手を置いた。
懸命に嘘を取り繕ったところで、この人にはお見通しらしい。
「なまえちゃんはすぐに強がるから…僕と一緒で」
「…沖田さんほどじゃありません」
「そんなに変わらないよ、昔からずっとね」
いつもの飄々とした態度とは打って変わって、その表情と声は穏やかで優しい。
時には物騒な物言いをすることもあるけれど、私が幼い頃から一緒にいるこの人は、本当は優しい人なのだ。
「…本当に辛くなったら、なまえちゃんもここに来ればいい」
そして、とても寂しがり屋で、甘えたな人。
「もう、子ども扱いしないでください」
笑いながら、頭に置かれたままの手を掴んでどける。
そんな私を見て、沖田さんは少しだけ寂しそうな笑みを返した。
新選組が江戸に身を寄せてからしばらくして、私たちは釜屋から秋月邸に移り、そこに新たな屯所を構えることになった。
私は屯所内で、千鶴ちゃんと一緒に雑用をこなす日々を過ごしている。
本当は外で情報収集などをできれば良かったけれど、土方さんがそれを許してはくれない。
今の私の状態では諜報活動など到底無理だ、と言われてしまった。
たしかに、精神的に安定しているとは言えないのは事実。
力になりたいと思いながらも動けない自分に苛立ちを感じながらも、私は屯所内で与えられた仕事をこなしていた。
「雪村君、なまえさん」
千鶴ちゃんと二人で他愛のない話をしながら洗濯物を畳んでいると、不意に襖の外から声がかかる。
立ち上がって襖を開けてみると、そこには山南さんの姿があった。
「山南さん…!昼間から起きていていいんですか?」
千鶴ちゃんが驚いたような声をあげる。
山南さんは笑みを浮かべて中へ足を踏み入れ、後ろ手に襖を閉めた。
「ええ。これほどの妙案が思い浮かんでは、ゆっくり寝てなどいられませんよ」
その声色に異様なものを感じて、私はそれとなく千鶴ちゃんを背後に庇って後ずさった。
「妙案、ですか…?」
訝しげに眉を寄せる私を見て、山南さんは口元に深く弧を描く。
眼鏡の奥に光る瞳に、ぞくりと悪寒が走った。
「あなた方は鬼です。鬼たちは戦闘力も生命力も、人間より遥かに強い。故に、その血は羅刹の狂気を完全に抑える力があるかもしれません。なまえさんのように、例外はいるようですがね」
山南さんは変わってしまった。
変若水を飲んでしまったあの時から、人が変わってしまったようだ。
羅刹となる前の山南さんはもっと穏やかで、優しくて…こんな顔をする人ではなかったのに。
「千鶴ちゃんの血を、利用するつもりですか?」
「雪村君だけではありませんよ。あなたの血にも研究の余地はあるはずです。何せ、変若水を開発する根本的な原因となった血なのですから」
山南さんの言葉に、私は驚きを隠せずに目を見開いた。
私の血が、変若水の根本的な原因。
一体何のことだろう。
お千ちゃんから聞いた限りでは、そんな話は聞いていない。
「とある方から聞いた話ですが、幕府が変若水を開発し始めたのは、雲居の鬼の血が手に入らなくなったからだそうです。雲居の血を飲んだ者は、際限なく驚異的な力を手に入れる。そして、羅刹のように血を求めて狂うこともないのだとか……変若水とは、雲泥の差ですね」
京にいた頃、お千ちゃんから聞いた話を思い出す。
幕府によって、雲居の鬼の一族が狩られていたこと、雲居の血が人間にもたらす影響。
あの話を聞いたとき、まるで私の血は変若水のようだと思った。
「私の血が…変若水の……元凶、ということですか…」
自分の血の悍ましさに身体が震えた。
変若水のよう、どころではない。
むしろ、変若水が生み出されるきっかけとなった血だったのだ。
なんて恐ろしい血だろう。
どうして、そんな血を受け継いでしまったんだろう。
「雪村君の血で羅刹となった隊士を救い、さらにはなまえさんの血で狂わない羅刹を作ることができる。協力して頂けませんか?」
山南さんの声が、私の脳内で反芻する。
私の血があれば、救うことができる隊士たちがいる。
少し前の私なら、きっと自ら血を差し出しただろう。
新選組の役に立てるなら、と。
だけど、今はできない。
この身体は新選組の、土方さんの為に使うと決めたから。
あの人が守ったものを私が守り続けることが、今の私の生きていく理由だから。
「…できません」
発した声は小さかったけれど、揺らいではいなかった。
私の答えを聞いた瞬間、山南さんが眉を寄せる。
「何故です、羅刹の狂気を抑えるための研究が進むかもしれないのですよ?」
「私の血も、千鶴ちゃんの血も、その為にあるわけではありません。それに羅刹の発作を抑えるのなら、あの薬があるじゃありませんか」
綱道さんが開発し、山南さんが改良を加えているあの白い薬。
羅刹となってしまった隊士のほとんどが、あの薬で吸血衝動を凌いでいる。
「あれは所詮、その場しのぎでしかありません」
そう言って、山南さんは懐から刃を取り出した。
銀色が煌めいたのを見て、私と千鶴ちゃんは息を飲む。
「あなた方鬼の血は、我々全てを救うことができるかもしれないのです」
じりじりと距離を詰めてくる山南さんに、私は千鶴ちゃんを背に後退りしながら、懐に手を差し入れる。
いつも忍ばせている刃に軽く触れるけれど、きっと私はこれを抜くことはできないだろう。
いくら人が変わってしまったとしても、山南さんは山南さんだ。
彼を傷つけることは、私にはできない。
「何も、殺そうと言うのではない。ただほんの少し、血を分けてもらうだけで良いのです」
彼は、さらに距離を詰めようと足を踏み出す。
どうしたらいい。
大声で助けを呼ぼうか。
思考を巡らせていると、突然襖が開いて土方さんが姿を現した。
彼はそのまま山南さんに歩み寄ると、その刃が握られている腕を掴む。
「何やってんだ、山南さん」
咎めるような声をあげる土方さんは、鋭い視線を山南さんに向けた。
それでも当の本人は顔色を変えることも、その刃を離すこともしない。
「土方君…羅刹をより有効に活用するには、狂気を抑える術を見出しておくことが必要不可欠なのですよ」
「その為に、こいつらを斬るってのか?」
「血を分けて頂くだけです。今後の戦いは、新選組にとってますます厳しいものとなる。それでもなお、彼女らには一滴の血も流させないと?」
山南さんの言葉に、土方さんはさらに眉を寄せた。
「そういうことじゃねえ」
山南さんは土方さんをじっと見つめた後、小さく嘆息して刀を鞘に収める。
「仕方ありませんね。今日のところは引き下がりましょう。ですが、土方君も羅刹となったからには分かっているはず」
それだけ言うと、山南さんは踵を返して襖を開けた。
「山南さん。あんた、新選組を口実にして、自分の為に血を求めてるとかじゃねえだろうな?」
出て行こうとする山南さんを、土方さんが不意に呼び止める。
その声色には、まだ咎めるような響きが残っていた。
襖に手をかけたままこちらを振り向いた山南さんは、にこりと笑みを浮かべて口を開く。
「いいえ。私は常に新選組のことを考えています」
そう答えると、山南さんは部屋を出て行った。
「ありがとうございました、土方さん」
山南さんがいなくなってから、私は土方さんに頭を下げた。
私と一緒に頭を下げる千鶴ちゃんと私を交互に見てから、土方さんは小さく溜息をつく。
「これからは、夜の外出は控えろ」
「え…?」
「最近、山南さんが夜の見回りによく出かけているらしい。それが関係しているか分からんが、江戸で辻斬りが増えている」
その言葉に、いつかの君菊姐さんの言葉が甦る。
新選組の隊士が、辻斬りと称して町人を斬っている、という話。
あの山南さんがそんなことをしているなんて、思いたくなかった。
千鶴ちゃんも同じことを思い出していたようで、はっとして口を開いた。
「では、君菊さんが言っていたことは…」
「隊としても、このまま見過ごすわけにはいかねえ。いずれ、ちゃんと始末をつけねえと…」
「そう、ですか…」
そう言って、千鶴ちゃんは俯く。
そして少し考えるような素振りを見せたあと、顔を上げて土方さんを見上げた。
「土方さんは…お身体、本当に大丈夫なんですか…?」
「余計は口出しはするなと言ったはずだ」
心配そうに尋ねる千鶴ちゃんに、土方さんは抑揚のない声で言い放つ。
そしてこちらを見向きもせずに、そのまま部屋を出て行ってしまった。
「なまえちゃん…」
土方さんの背中を見つめていた千鶴ちゃんが、不意にこちらに視線を移した。
その瞳は、不安そうに揺れている。
「私には、何ができるんだろう…」
「…それは、土方さんの為に?」
尋ねてみると、案の定千鶴ちゃんは小さく頷いた。
「ずっと、考えてるの。私はなまえちゃんみたいに戦えないし、守ってもらうばかりでお役に立てるようなことは何もできていない…少しでもお役に立ちたいのに、何をすればいいのか分からなくて……」
俯きがちに話す千鶴ちゃんに、私は自分の姿が重なった気がした。
そうか、私も千鶴ちゃんも一緒なんだ。
思うように進まないことに、焦りと悔しさを感じているんだ。
「千鶴ちゃんは、十分役に立ってると思うよ」
「そう、なのかな…」
「土方さんを見てれば分かる。千鶴ちゃんは、この新選組に必要なんだよ」
「でも、私は…」
「それに、私だって千鶴ちゃんと同じ。たしかに多少戦えるかもしれないけど、いつも守ってもらってばかりで、正直役に立ったことなんてないと思う……でも、自分が役に立ってるかどうかは、案外自分では分からないことなんだよ」
役に立ちたい。
いつの日だったか、私もあの人にそう言ったことがあった。
あのときの言葉が甦って、胸が温かくなる。
「だから、役に立つかどうかを考えるんじゃなくて、今自分にできること、できると分かっていることに全力を注げばいい。無理に役に立とうなんて思わなくていいの」
そして、それに何か意味を見出せばいい。
それを教えてくれたのは、私が背中を追い続けていたあの人だ。
私よりもずっと遅くに新選組に入ったのに、あの人はたくさんのことを教えてくれた。
少しの沈黙の後、千鶴ちゃんは眉を下げて笑みを浮かべた。
「やっぱり、なまえちゃんは強いね」
そう言ってくれた千鶴ちゃんに、私も笑みを返す。
私が強い人間のように見えるのなら、それはきっと、山崎さんのお陰なんだと思う。
あの人の最期の言葉を裏切らない為に、私は生きているようなものだから。
それから幾日かして、療養していた近藤さんが新選組に戻ってきた。
隊士たちはすぐに広間に集められ、元気そうに笑う近藤さんに対面を果たした。
「いやはや、心配かけてすまなかったな。戦場に出られないというのが、これほどもどかしいものだとは思わなかった!」
怪我をする前と少しも変わらない近藤さんの様子に、思わず笑みが零れる。
本当に、戻って来てくれて良かった。
「傷は、もういいんですか?」
「ああ!この通り…」
島田さんの問いかけに近藤さんは意気揚々と負傷した肩を叩いたけれど、まだ完治はしていないのか、痛みに顔を歪める。
その様子がおかしくて、隊士たちからは笑い声があがった。
それと一緒に近藤さんも笑い、少ししてから再び表情を引き締める。
「さて、今後の行動についてだが…我々は、甲陽鎮撫隊として、甲府城に向かえとの幕命を頂戴した」
近藤さんの言葉に、さっきまで笑い合っていた隊士たちの表情が真剣なものへと一変する。
そんな隊士たちを見回しながら、近藤さんはさらに言い募った。
「甲府城で薩長を迎え撃つ。ご公儀からは、既に大砲二門、銃器、そして軍用金を頂戴している。もしこの任務が成功したら、幕府は我々に甲府城を下さるそうだぞ!これは気合を入れて臨まねばな!」
誇らしげにそう語る近藤さんは、とても嬉しそうだった。
そのあとは諸々の指示を与えられて、ひとまず解散ということになった。
広間にそのまま残っているのは、近藤さんと土方さん、幹部の皆と千鶴ちゃん、そして私。
平隊士たちもいないということで、山南さんと平ちゃんも、今は広間に姿を見せている。
なんだか重苦しい空気の中、口を開いたのは新八さんだった。
「なあ、近藤さん。甲府を守るって話を持ってきたのは、どこの誰だ?」
「勝安房守殿だが…それが、どうかしたのか?」
勝安房守。
数年前に暗殺された坂本龍馬が支持していた幕府の重臣。
たしか、以前は海軍などに関わっていた人物だったはず。
近藤さんの答えを聞いた新八さんは、考え込むような素振りを見せて眉を寄せる。
「勝か…大の戦嫌いらしいな。そんな人が、なんで俺たちに大砲や軍資金を気前よく出してくれるんだ?」
「そもそも徳川の殿様自体が、新政府軍に従う気満々らしいな。その勝なんとかさんっていうのも、同じなんじゃねえか?」
新八さんに続いて、左之さんも口を開く。
近藤さんが戻ってきたことで士気はあがったようだけれど、それでも総大将である将軍が真っ先に江戸に逃げてしまったことに対する不満を拭い切れるわけではない。
新八さんと左之さんも、やっぱりそのことについては良く思っていないようだ。
「たしかに、今は戦況が芳しくないため、慶喜公も新政府軍に恭順なさっているが…我々が甲府城を守りきれば、勝算ありと見て戦に本腰を入れて下さるはずだ!」
近藤さんはそう言って、拳を握って掲げる。
「それに、勝てる勝てないの問題ではない。お上が、我々を甲府を守るに足ると認めてくれているんだぞ!しかも今回、俺は若年寄格という身分を頂けることになった。つまりは、大名だ!此度の戦で武勲をたてたものは、家来として取り立ててやる!がんばってくれたまえ」
近藤さんが嬉しそうにしている姿を見ると、私も嬉しくなる。
だけど、手放しに喜べないのも事実。
勝てる勝てないの問題ではない、と近藤さんは言ったけれど、戦っている以上勝たなくてはいけないのだ。
勝たなくては、それだけ失ってしまうものもあるのだから。
「俺は新選組の組長だ。が、あんたの家来になるつもりはねえけどな」
新八さんは冷めた声色でそう告げた。
重苦しい空気に、私は俯くことしかできない。
なんだか、自分の手から全てが零れ落ちていってしまうような、そんな感覚がした。
もう、以前のようにはいられないのだ。
私も、皆も。
「とりあえず、新政府軍との戦いに備えて隊士を増やそう。甲府城を抑えたら、幕府から増援が来るはずだ」
不穏な空気の中、土方さんが静かにそう言った。
「それに、勝安房守殿の評判についてだが、いくら戦嫌いとはいえ避けられねえ局面があるってことくらいは分かってるはずだぜ」
「…ま、確かにそれも一理あるけどよ」
「なんにせよ、戦の準備だな」
土方さんの言葉に、新八さんと左之さんもひとまず不満を収めたようだった。
その様子を見た土方さんは、山南さんに視線を移す。
「それからもうひとつ。今回、羅刹隊はここで待機してもらう」
「なぜです!?」
その声に、山南さんは驚いて身を乗り出した。
山南さんも事前に話を聞いていなかったのか。
ちらりと平ちゃんの様子を伺ってみるけれど、彼は既に知っていたのか、黙って成り行きを見守っている。
「甲府には新選組だけでなく、他の兵士たちもいる。あんたらの姿を見られるのはまずい」
「ですが…!」
「焦るな。まだ戦は始まったばかりだ」
有無を言わせない土方さんの言葉に、山南さんは悔しそうに顔を歪めながらも身を引いた。
その場が収まったのを見て、近藤さんは立ち上がる。
「では、早急に甲府行きの準備を進めてもらいたい。期待しているぞ」
その言葉を最後に、私たちは解散となった。
すっかり空が暗くなった頃、雑用を終えた私は自室へと向かっていた。
月を見上げながら廊下を歩いていると、その先に誰かが座っているのに気付く。
それが島田さんだと気付くのに、そう時間はかからなかった。
「こんばんは、島田さん」
そう声をかけると、大きな身体のその人は私に気付いて笑みを浮かべる。
「ああ、なまえさん、こんばんは」
「どうしたんです?こんなところで」
「いやあ、今日はなんだか月が明るい気がしましてね。少し眺めていようかと」
軽く笑いながら答えた島田さんの横に、私も腰を下ろす。
そこから見上げる月は、とても綺麗だった。
こうしてじっくりと月を眺めるのは、いつぶりのことだろう。
最近は、月を見る度にあの人を思い出してしまうから、なるべく夜は部屋に籠もっていた。
そうしないと、月を見るだけで涙を流してしまうから。
「島田さん、江戸に来てから忙しくなりましたよね。ごめんなさい」
少しの沈黙の後、月を見上げたまま私は静かにそう言った。
京では、私と山崎さん、そして島田さんの三人で任務にあたることが多かった。
けれど今では、監察の仕事をしていた人間が実質二人も欠けている状態だ。
その穴埋めを彼や残っている隊士に任せていると思うと、心苦しい。
「なまえさんが気に病むことではありませんよ。仕事の穴埋めはいくらでもできますから。なまえさんは、副長の仰る通りにしていてください」
島田さんはそう言って、明るく笑った。
それが私を元気づけようとしてくれるものだと分かっているから、私も笑みを浮かべる。
「…私も、頑張らないと」
夜の闇を照らす月は、こちらをじっと見ているようだ。
あの人がこうして月を見上げながらそう言ったのは、いつのことだったか。
定かに覚えてはいないけれど、あのときの言葉はしっかりと覚えている。
そういえば、あの時は島田さんも一緒にいたはず。
「山崎さん、見守ってくれていますかね…」
そう言いながら隣の人に視線を移すと、その人ははっとした表情を見せた後、眉を下げて笑みを浮かべる。
まるで泣き笑いのようだけれど、きっと私も同じような顔をしているのだと思う。
「そういえば、そんなことも言っていましたね…」
もし自分が先にいなくなったとしても、あの月のように見守っていると、あの人はそう言っていた。
あのときは、何を縁起でもないことをと思っていたけれど、今思えばあの人が見ていてくれると思うから、頑張ろうと思えているのかもしれない。
かろうじてだけれど、哀しみに捉われず前を見ていられるのかもしれない。
「島田さん、明日はお休みですか?」
「え…ああ、そうですね。明日は一日屯所にいますよ」
「なら、ちょっと思い出話でもしましょうか」
あの人が誓った月を眺めながら、あの人を偲んで。
そう言うと、島田さんはまた、泣き笑いのような笑みを見せて頷いた。
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