山崎にとっての裏切り少女

昼休みの間に委員の仕事を進めておこうと保健室の扉を開けると、ひとつだけカーテンの閉められたベッドがあることに気付く。
保健室内を見渡しても、山南先生の姿はない。
この学園で、生徒が授業をさぼって保健室で寝ているということは珍しくないことだ。
山南先生がいない以上、その確率は高い。
人知れず溜息をついて、カーテンを引く。
そして目に飛び込んできた姿に、喉まで出かかっていた言葉を飲み込んだ。

「…なまえ……」

ベッドの中で静かに寝息を立てているのは、紛れもない彼女だった。

『とにかく、余計なことは一切するな。分かったな』

何故彼女がここに、という疑問より先に脳裏に浮かんだのは、数日前の副長の言葉。
そうだ、無理に関わるべきじゃない。
今すぐにカーテンを閉めて、何も見なかったことにするべきだ。
そう心の内で言い聞かせていても、俺の足は勝手に動いてなまえの傍らへと歩み寄る。

目の前で眠る彼女は、記憶の中にいる姿と変わらない。
新選組として、監察として隊務をこなしていた日々の記憶を取り戻したのはいつだっただろう。
あの頃の俺の傍には、いつでもなまえがいた。
思い出す記憶の端々に彼女の姿があり、彼女が俺の名を呼ぶ声は今でも覚えている。
彼女が真実を告げ、俺の目の前で命を散らしたあの瞬間も、哀しいほど鮮明に焼き付いていて離れない。

気付けば、俺は眠るなまえの頬に触れていた。
肌を通して伝わる温もりは、彼女が確かに生きている証。
生きている。
彼女はこの世で、生きているのだ。
俺と同じように、新しい命を受けて、新しい人生を歩んでいる。
記憶はなくとも、俺のことを覚えていなくとも、それでも彼女が生きている。
その事実が何より確かなことで、そして愛しい。
なまえの頬を撫でて、名残惜しさを押し殺してそっと手を離す。

これでいい。
あの頃のことを、何一つ覚えていなくても。
彼女の心に、俺が欠片もいなくても。
生きていてくれるなら、それでいいと思えた。



それから何度か、なまえのことは耳にしていた。
沖田さんが道場で彼女にしたことも、もちろん聞いた。
そして、彼女は記憶を失くしたのではなく、忘れているだけなのだということも。
それでも、自らなまえに関わるようなことはしない。
仮に、記憶を取り戻させたところでどうなる。
それでまた彼女が離れていくのなら、いっそ関わらないでいるべきだ。
心の奥にある想いを押し殺しながら、自分に言い聞かせる。
再びなまえを失うくらいなら、このままでいた方がいい。
たとえ隣にいることができずとも、彼女が生きてさえいれば構わない、と。
それでも、記憶の中にいるあの姿は、俺の心を揺さぶってくるのだ。
もう一度やり直せるなら、と思わずにはいられないほどに。

少しでも心を鎮めようと、一人になるために屋上へ向かう。
放課後のあの場所は誰もいないことが多いから、一人になりたいときにはよく行っている場所だ。
屋上へ続く階段を昇り、扉を開く。
聞き慣れた扉の音を聞きながら屋上へと足を踏み入れてからようやく、そこに先客がいることに気付いた。
そして、振り返ったその姿に、時間が止まったような錯覚を覚える。

「なまえ……」

掠れた声が、口から漏れる。
脳裏に焼き付いたあの笑顔が、目の前の彼女と重なった。
彼女に関わるべきではない、今すぐ踵を返すべきだと思うのに、身体が動かなかった。
こちらを見つめる瞳が、揺れている。
その瞳に、俺はどのように映っているのだろうか。
不意に、なまえがゆっくりと唇を震わせた。

「やまざき、さん……」

震える唇から発された言葉に、身体がびくりと震えるのを感じた。
思わず目を瞠って、目の前の彼女を凝視する。
なまえは困惑した表情で、涙を流していた。
やはり、彼女は完全に忘れているわけではないのか。
それを実感した途端、押し留めていたはずの感情が溢れてくる。

「なまえ……!」

愛しい名を口にして、ゆっくりと彼女へと足を踏み出す。
最期に愛していると告げて、俺の目の前で命を散らした彼女。
愛しいと思った存在だった。
いつも、傍にいるものだと思っていた。
あのときは、それは叶わなかった。
だが、今ならばもしかすると、と思わずにはいられない。
やり直せるのなら、もう一度、彼女と共に。

歩み寄る俺を、なまえは泣きながら眺めているだけ。
今なら、手を伸ばせば彼女に届く。
その涙を、拭ってやれる。
だが、躊躇いがちに伸ばした手は、後ずさった彼女に届くことはなかった。
なまえの様子に、ようやく自分が何をしようとしていたのかに気付いて、思わず視線を下げる。
近くにはいても、その心は遠いところにあるというのに。

彼女は辛そうに表情を歪めると、俺の脇をすり抜けて走り去っていく。
追おうとは思わなかった。
今の俺に、彼女を追う資格はない。
なまえが階段を駆け下りていく音を意識の端で聞きながら、雲に覆われた空を見上げる。
今にも雨が降り出しそうな空模様をぼんやりと眺めていても、脳裏に浮かぶのは彼女の表情であり、耳に残るのは彼女の声。
俺は今でも彼女を愛しているのだと、実感せずにはいられなかった。

たとえなまえが裏切り者だったとしても、愛しい存在に変わりはないのだ。
|