「朝から体育ってちょっと怠い。そんなに身体動かせない」
「たしかにちょっとね…でも仕方ないよ。担任の先生の授業だし」
「それはそうだけどさ…」
眩しいと思えるくらい真新しい更衣室で、千鶴ちゃんとジャージに着替える。
今年から共学になるということで作られた女子更衣室だけれど、少なくとも今年一年間は私と千鶴ちゃんしか使わないのだから笑ってしまう。
きっと張り切って作ったんだろうな、と思えるくらい居心地のいい場所だ。
「しかも最近夢見も悪くてさ…何の夢見たのかは覚えてないんだけど、いい夢じゃなかったってことだけは分かるんだよね。だからすごくもやもやする」
「夢……」
「まぁ、覚えてないってことは大した夢じゃないんだろうけど……千鶴ちゃん?」
小さく呟いたきり黙り込んでしまった千鶴ちゃんの方を見ると、彼女は慌てたように笑みを浮かべた。
「ご、ごめん!ちょっとぼうっとしてて…」
「やっぱり朝から体育はきついよね、仕方ない仕方ない」
やっぱり、千鶴ちゃんも多少なりとも怠いんだろう。
それにしても、週一しかない体育がどうして朝一の授業なんだろうか。
お昼直後の体育ほどじゃないけれど、朝一は辛い。
まぁそんなことを言っていても仕方ないので、千鶴ちゃんと一緒にグラウンドへと向かう。
もう既にほとんどの生徒は集まっていて、それぞれに身体を動かしたりしている。
その表情がどこかしら楽しみで仕方ないという感じだから、やっぱり男の子は違うなと思ってしまう。
「おい、みょうじ」
名前を呼ばれて視線を巡らせると、ジャージ姿の原田先生が手招きしている。
一度千鶴ちゃんと顔を見合わせてから、何かやらかしただろうかと内心戸惑いながら先生の方へ向かった。
「お前、昨日倒れたんだろ。大丈夫なのか?」
予想に反して先生の口から出て来たのは心配の言葉で、ああそんなことか、と安堵する。
「はい、保健室で休んでたら元気になりましたし、今日も元気いっぱいですよ」
「元気いっぱいの割には棒読みだな」
「仕方ないじゃないですか、私朝は弱いんですよ」
一対一で喋るのは初めてなはずなのに、思いの外私の口はぺらぺらと言葉を紡ぐ。
前から人見知りする性格ではなかったけれど、初対面の人とそんなに話せた覚えはないのに。
「おいおい、授業なんだからせめて真面目に受けてくれよ」
「これでも大真面目なので安心してください」
真顔で答える私に、原田先生は呆れたように笑った。
「まぁ、ちゃんと受けてくれさえすれば何も言わねえよ。ただ、無理はするなよ。辛くなったらすぐに言え」
「はい、ありがとうございます」
先生に軽く頭を下げて、こちらを心配そうに見ていた千鶴ちゃんの隣へと戻る。
千鶴ちゃんを安心させようと、私は笑みを浮かべて手をひらひらと振った。
「大丈夫だよ。昨日倒れたけど大丈夫かって言われただけだし。あと、無理するなってさ」
「そっか、それなら良かった」
そう言って、千鶴ちゃんは安堵の表情を浮かべた。
一日の授業を滞りなく終えて、荷物をまとめて一息をつく。
さて帰ろうか、と鞄を抱えた矢先、後ろから千鶴ちゃんが真剣な表情で私に近づいてきた。
「ねえ、なまえちゃん」
「今日これからって…暇、かな…?」
「ううん、特にないけど。どうしたの?」
「えっと…もし良かったら、一緒に剣道部の見学に行かないかな、って…」
千鶴ちゃんは私の様子を窺うような素振りを見せながら、尻すぼみ気味にそう言った。
「昨日、武道に憧れるって言ってたでしょう?だから、もし良かったらと思って」
「剣道部か……」
たしかに、中学の頃から武道はかっこいいと思っていた。
ただ、それに気付いた頃には、既に私は他の部活に入っていたから、始める機会はなかったけれど。
どこがかっこいいとか、具体的なことはうまく言えないけれど、武道にはどこか心惹かれるものがある。
「それじゃ、行ってみようかな」
せっかくのお誘いだし、どうせ部活は考えなくてはいけないのだから、行って損はないだろう。
私の答えに、千鶴ちゃんは花が咲いたように笑った。
この学園では、学園長や先生方の中に剣道経験者が多いせいか、特に剣道には力を入れている。
剣道の強豪であることは、地元では有名だ。
昨日会った斎藤さんは、部内でもトップの実力を持っているそうだ。
そういえば、あの斎藤さんと藤堂さんとは昨日倒れたきりだ。
今朝の校門前に風紀委員の監視はあったけれど、その中に斎藤さんの姿はなかったから、本当にあれきり顔を合わせていない。
もし会ったら謝ろう、と心の内で思った。
そうしているうちに、千鶴ちゃんと私は道場に辿り着いた。
もう既に稽古に入っている生徒もいるようで、扉越しにも声が聞こえる。
千鶴ちゃんに続いて中に足を踏み入れると、どこか懐かしさを感じて思わず立ち止まる。
この場所に見慣れているわけじゃない。
でも、この肌に触れる空気が、雰囲気が、鼻先を掠める汗のにおいが、初めてとは思えなかった。
千鶴ちゃんが、立ち止まったままの私に気付いて振り返る。
「なまえちゃん…どうかした?」
「…なんか、懐かしい気がする」
「え…?」
自分の口から漏れた声は、とても小さかった。
よく聞こえなかったのか、千鶴ちゃんは首を傾げる。
「うまくは言えないんだけど、なんていうか……すごく、懐かしいの」
この学園の道場は、中学の道場とは全く違う。
私の通っていた中学は小さかったから、武道館を剣道部と柔道部で半々に使っていた。
ここの道場は中学の武道館以上に広いし、まるで学園の敷地内ではないような、昔ながらの様式なようだ。
私は、これに似た場所を知っている。
なんとなく、そんな気がした。
「ねえ、そこに立たれると邪魔なんだけど」
突然背後から声をかけられて、はっとして振り返った。
私の数歩後ろでこちらをじっと見下ろしていたのは、見覚えのある顔。
「あ…すいません……」
慌ててその場を横に退けたけれど、その人は立ち止まったまま私をじっと見つめている。
入学式の日の帰りに、私の腕を掴んだ人だ。
「沖田さん、こんにちは」
「ああ、千鶴ちゃん。君のお友達?」
「はい。一緒に見学しようって誘ったんです」
千鶴ちゃんの言葉に、沖田さんと呼ばれたその人は再び私に視線を戻した。
「初めまして、僕は二年の沖田総司。よろしくね」
「…みょうじなまえです」
「見学ってことは、入部希望なの?」
まるで私を試しているような視線に、自然と背筋が伸びる。
沖田さんは笑みを浮かべているけれど、その目が笑っていないのは私にも分かった。
その証拠に、千鶴ちゃんがどこか心配そうにこちらを見ている。
「いえ…とりあえず見ておこうかと思っただけです」
「ふーん…それじゃ、経験者ではないんだ?」
「はい、中学では他の部活だったので」
「そう。なら、ついでに体験していきなよ」
貼り付けたような笑顔で、目の前の人はさらりと言い放った。
「お、沖田さん……」
「大丈夫だよ。別に手合せしようって言うんじゃないんだし」
見かねたように声をあげた千鶴ちゃんに笑みを向けながら、沖田さんは私の腕を掴んだ。
思ったよりも強いその力に、嫌な予感がした。
「あ、あの、別にいいです。体験なんて…」
「竹刀握るだけだから」
やんわりと断ろうとしても、半ば強引に腕を引かれて行く。
助けを求めるように私の後ろをついてきた千鶴ちゃんを見るけれど、やっぱり先輩相手に強くは言えないんだろう。
なんて強引な人なんだろうと思いながらも、どこか憎めない人だとも思った。
肩にかけていた鞄を千鶴ちゃんに預けて、言われるままに竹刀を握らされる。
その瞬間、掌から伝わる感覚にぞわりと鳥肌がたって息を飲んだ。
「…随分と、軽いんですね」
誤魔化すようにとっさに口を出てきた言葉はあまりにも不自然で、自分は何を言っているんだと目を瞠る。
その上、なんて震えた声だろう。
傍らの沖田さんが、すっと目を細めて私を見下ろす。
「軽い?何と比べて?」
「それ、は……」
「沖田さん、これ以上は…」
「千鶴ちゃんは黙ってて」
非難するような千鶴ちゃんの声を、沖田さんは冷たく遮った。
私は顔を上げることもできずに、両手で竹刀を握りしめたまま動けずにいる。
がたがたと震えているのに、私の指はとても自然に竹刀を握っている。
握り方を教わったわけでもないのに、妙に手に馴染むのだ。
「ねえ、なまえちゃん。何も感じない?」
恐る恐る顔を上げると、沖田さんはもう笑っていなかった。
射抜くような視線に、息を飲む。
その瞳の奥に、期待にも似たような色が宿っているのは、私の気のせいだろうか。
「…やめてください」
勝手に口が開いて、低く唸るような声が出た。
私の声を聞いて、沖田さんと千鶴ちゃんが目を見開く。
昨日と同じだ。
頭痛や眩暈はないものの、心臓がどくどくと脈打っていてうるさい。
まるで、頭そのものが心臓になったかのように感じる。
「あなたは私に何をしたいんですか、何をさせたいんですか…」
身体の奥底から、また泣き叫びたくなるような感覚がせり上がってきた。
その衝動をなんとか押し止め、張り上げそうになる声を必死に飲み込む。
「…やっぱり、そうだったんだ」
目を見開いていた沖田さんが、何か納得したような声をあげる。
「いい加減思い出しなよ、なまえちゃん。君だけ逃げるなんて卑怯じゃない?」
「逃げる……?」
「あのときも、今も、結局君は変わらない。一人で逃げてばっかりだ」
分からない。
この人の言っていることが、まるで分からない。
そのはずなのに、私の心臓は早鐘を打ち続けている。
私の震える手から竹刀が落ちて、音を立てて床に転がった。
「知らない…」
絞り出すような声で、無理矢理そう呟く。
視界が滲んでいるのは、涙のせいなのだろうか。
どうして私は泣いているのか、それすらも分からない。
「私は知らない、何も知らない!」
私の叫びが、道場の中に響いた。
少し離れた場所で稽古をしていた生徒たちが、何事かとこちらに視線を向ける。
けれど今は、そんなことはどうでもいい。
どうにかして、この空間から逃げ出したかった。
この沖田という人は、怖い。
憎めない人だとは思ったけれど、さっきとはまるで空気が違う。
思わず後ずさる私の腕を、沖田さんはすかさず掴んだ。
「ほら、またそうやって逃げようとするんだ」
「放してください…!」
「放したら、また逃げるんでしょ?」
涙を浮かべながら、私は腕を掴んだままのその人を睨み付ける。
訳が分からないと腕を振り払うこともできたはずなのに、私の身体は縫い付けられたように動かなかった。
だから、こうして睨むことしかできない。
「もうやめてください、沖田さん!」
たまりかねた様子の千鶴ちゃんが、目に涙を浮かべながら沖田さんに詰め寄る。
それでも彼は、力を緩めることはしない。
「どうして千鶴ちゃんが泣いてるか分かる?君のせいで泣いてるんだよ」
それはあなたが私を苦しめているからじゃないのか、と心の内で呟く。
私の唇はわなわなと震えて、とてもそれを口にすることはできないけれど。
「あのときだって、この子は泣いた。この子以外にも、泣いた人がいた。君が逃げたばかりに、涙を流した人がいたんだ」
責めるような声が、私の脳内を反芻する。
沖田さんがしきりに口にするあのとき、とは何のことだろう。
私は彼らに出会って、まだ数日しか経っていないのに。
明らかにおかしいと分かっているのに、なぜ自分がこんなにも動揺しているのか分からなかった。
「何してやがる、総司」
突然、どすの利いた声と共に、沖田さんの腕が誰かに掴まれる。
声の主を見た沖田さんは私の腕を掴んだまま、怒りを露わにしている相手に向かって貼り付けたような笑みを浮かべた。
「あれ、土方先生じゃないですか。今日は早いんですね、顔出すの」
土方先生と呼ばれたその人は、眉間に皺を寄せて険しい表情を浮かべている。
「騒がしいと思って覗いたら、この有様だ。こいつを放せ」
「そんな顔で言われたら、仕方ないですね」
途端に沖田さんが私の腕を解放する。
私はじんじんと痛む腕を庇うように押さえて、その人から距離を取るように後ずさった。
土方先生は私を見つめると、静かに口を開く。
「すまなかったな。今日はもう帰れ。千鶴、そいつについててやってくれるか」
「は、はい…行こう、なまえちゃん」
千鶴ちゃんに支えられるようにして、私は鞄を抱えて道場を後にした。
「ねえ、千鶴ちゃん」
落ち着くまで座ろう、という千鶴ちゃんに促されるままにベンチに座って、私は縋る思いで千鶴ちゃんに尋ねる。
なんとなく彼女の顔が見れなくて、視線は下に向けたままでいる。
「沖田さんが言ってた、あのときって何?」
私の問いに、千鶴ちゃんは答えない。
恐る恐る顔を上げてみると、千鶴ちゃんはまた泣きそうな顔をして私を見ていた。
「…沖田さん、昔いろいろあってね」
少しの沈黙の後に千鶴ちゃんが発した言葉は、震えていた。
「意地悪な人だけど、根はとてもいい人なの。だから…」
今日のことは忘れて、と千鶴ちゃんは小さく言う。
どうして、とは聞けなかった。
なんとなく、それを口にしてはいけないような気がした。
だから尋ねる代わりに、私は黙って頷く。
忘れよう。
そう決めた途端に、なんだかとても身体が軽くなった感じがした。
もやもやとする心を抱えたまま、道場に戻るという千鶴ちゃんに手を振って、私は家へと帰った。
その日の夜、いつものように鳴り響く家の電話の受話器を手に取って、私は受話器から聞こえる声に耳を澄ませる。
「もしもし」
『あ、なまえ?元気?』
「うん、相変わらずだよ。お母さんたちも?」
『ええ、こっちも相変わらずよ』
毎日、同じ時間にかかってくる両親からの電話。
受話器から聞こえる母の声を聞けば、もやもやしている心が晴れていく気さえするのだから、すごいものだ。
今日はこんなことがあっただとかをお互い話すのは、両親が海外に行ってからの日課だった。
『お友達とは、仲良くやれてる?えっと…千鶴ちゃん、だったかしら』
「うん。すごくいい子だし、大丈夫だよ」
『そう、良かった。他は男の子ばかりなんでしょう?いい人はいないの?』
わくわく、という言葉が一番似合いそうな声色で、昨日と同じことを母は口にした。
その言葉に、思わずため息をつきそうになるのを堪える。
「まだ入学して三日だよ。そんなこと考えてる暇なんてないよ」
『あら、だって高校生なのよ?それくらい……あら、お父さんが悲しそうな顔してる』
そんなことを言いながら、母は楽しそうに笑った。
『何かあったら、すぐに言うのよ?お父さん置いてでも、お母さんそっちに行くから』
「ふふ、ありがとう」
不意に脳裏を、今日のことがよぎった。
いや、あのことは忘れようと決めた。
それに、こんなことを話せば、きっと父も母も心配してしまう。
自由が利かないのだから、あまり心配はさせたくない。
「それじゃ、そろそろ寝るね。おやすみ」
『おやすみ。ゆっくり休むのよ』
その言葉を最後に、私は受話器を元に戻した。
途端に、私のまわりは静寂に包まれる。
両親が家を出てそれなりに時間が経ったけれど、この電話の後の静けさだけには、まだ慣れなかった。
ふと、受話器から離れた自分の手をじっと見つめる。
竹刀を握った感触が、まだそこには残っていた。
それを懐かしいと思うのは、どうしてなんだろう。戻