誰かの押し殺すような泣き声を聞いて、私は閉じていた瞼を開いた。
畳の匂いのする部屋で、私は隅で膝を抱えて座っている。
その部屋は襖や障子で囲まれていて、私の傍には文机もある。
テレビや漫画で見たことのある、江戸時代の部屋だ。
そして私から少し離れた場所で、誰かが何かを腕に抱いて、肩を震わせていた。
緑色の衣を纏うその人は私に背を向けているから、顔を見ることはできない。
ただ、だらりと力なく投げ出される手足が見えるから、その人が抱いてるのは人間なのだろう、と予想はついた。
「また、この夢…」
思わず小さく呟いたけれど、その人がこちらを振り向くことはなかった。
ここ最近、同じ夢ばかりを見てしまう。
いつも眠りについたと思ったらここにいて、目の前であの人が泣いている。
でも、私はこれ以上身体を動かすことができないし、この場から動くこともできない。
かろうじて口は動くけれど、どんなに声をあげても、その人は一度も私を振り返ったりはしないのだ。
まるで、私とこの人の間に見えない壁があるかのように。
だから、あの人の顔も私は知らない。
知りたいと思うのに、叶った試しがない。
いつも、思う。
あの人が抱いている人は、もしかすると死んでしまったんじゃないか。
だから、あの人はあんなに肩を震わせて泣いているんじゃないか。
そんなに哀しいのなら、声を押し殺さずに思う存分泣けばいいのに。
「その人、そんなに大切な人だったの?」
答えが返ってこないと分かりながら、私は問いかけた。
相変わらず、その人はこちらを振り向きもしない。
「泣くなら、思いっきり泣けばいいのに」
そうすれば、ずっとすっきりするのに。
「私の夢だから言うけど、毎日毎日目の前で泣かれてたんじゃ、さすがに私も困るよ」
聞こえないことをいいことに、私は小さくそう言った。
本当は、それだけじゃない。
なぜだか分からないけれど、泣かないで欲しかった。
その人が泣いている背中を見ているのが辛いと感じる私がいた。
できることなら、その背中を撫でてあげたい。
泣かないで、と言いたい。
知らない人なのにそう思ってしまうのは、もう何度も夢で見た光景だからだろうか。
震える背中を眺めていると無性に泣きたくなったから、私は涙を抑えるように瞼を閉じた。
次に瞼を上げたとき、視界に広がったのはいつもの天井だった。
ゆっくりと上体を起こして、ぼうっと宙を見つめる。
あの剣道部見学の一件から、数週間が経った。
あれ以来、沖田さんは私に近寄るようなことはしない。
むしろ、すれ違ったとしてもこちらに見向きもしないくらいだ。
そして、あの日からずっと、同じ夢を見続ける。
知らない場所で、知らない人が、知らない誰かを抱いて泣いているあの夢。
時計に視線を送ると、まだ朝の三時だった。
通りで、カーテンの向こうはまだ暗いわけだ。
もう一眠りできると思って、私は再びベッドに潜り込む。
目を閉じると、再び睡魔が襲ってきた。
眠りにつく直前、またあの押し殺したような泣き声が聞こえた気がした。
午前の授業を終えて鞄からお弁当を出していると、既にお弁当を手にした千鶴ちゃんが私の隣に立った。
「なまえちゃん。今日は屋上に行ってみない?」
「屋上って…鍵開いてるの?」
突然のことに驚きながらも、私は千鶴ちゃんに尋ねた。
すると彼女は、嬉しそうに笑って大きく頷く。
「この前、先輩たちが連れて行ってくれたの。結構高いフェンスが設置してあるから、開放してるんだって」
「そうなんだ。今時珍しいね」
小さな頃は、屋上でお昼なんて憧れだった。
でも小学校や中学校を経て、屋上が常に施錠されていることを知ったし、むしろ屋上に行ける学校自体少ないことを知って落胆したのを覚えている。
「私もびっくりしたんだけど、なかなかない機会だから行ってみない?」
「そうだね。行こう」
そう言って、お弁当を抱えて千鶴ちゃんと一緒に屋上へ向かう。
屋上へのドアを開いた途端に吹きこんできた春特有の暖かい風と、差しこむ穏やかな陽の光に思わず目を細めた。
屋上には既に何人か先客がいたけれど、それぞれが思い思いに過ごしている。
見回してみると、たしかに全体にフェンスが張り巡らされていた。
それなりに高さもあるし頑丈そうだ。
ちょうど日陰に空いているスペースを見つけて、千鶴ちゃんと一緒にそこに座り込む。
空を見上げると、雲ひとつない青空で、吸い込まれそうな錯覚を覚えた。
「もう、四月も終わっちゃうね…」
一緒に空を仰いでいた千鶴ちゃんが、寂しそうに呟いた。
来週末からは、五月だ。
新しい生活であたふたしていたせいか、時間の流れがずっと早く感じる。
「桜も散っちゃったしね。できればお花見したかったな」
「そうだね。来年は桜の下でお昼とか食べてみたいかも」
この学園の桜は、とても立派な木だ。
グラウンドをぐるりと囲むように植えられていて、風が吹いて花びらが舞う様は、とても綺麗だった。
「あのね、千鶴ちゃん」
少しの間の後、私はなんとなく口を開いた。
「最近、毎日同じ夢を見るんだ」
千鶴ちゃんにこの話をしても、何の意味にもならないとは分かっている。
だけど、本当になんとなく、誰かに聞いて欲しかった。
「同じ夢?」
「うん。誰かが、私の前で泣いてるの。私は動けなくて、その人は私に背中を向けてるから顔も見れないし、後姿も見覚えがない人なんだけどさ」
脳裏に焼き付いて離れない、あの姿。
今でも、あの声は私の耳にこびりついている。
「その人着物着てるし、いつも夢に見るのは畳の部屋だから、時代的には江戸時代とかそのあたりだと思うんだけど…」
「…なまえちゃんは、その人のことが気になるの?」
青空から千鶴ちゃんへと視線を移すと、彼女は真剣な表情で私を見ていた。
「どうして?」
「なんとなく、そんな口調だったから…」
違ったらごめん、と彼女は眉を下げて笑う。
俯いて少し考えた後、私はぎこちなく頷いた。
「こういうの、気になるって言うのかは分からないけど…どうして泣いてるのか知りたいし、できれば泣かないで欲しいとも思う、かな」
正直な思いを、私は口にする。
こんなこと、中学時代の友達に言ったら笑われるか、呆れられるかもしれない。
でも、千鶴ちゃんになら言える気がした。
「あと、できれば顔も見たい。何か引っかかるものがあるんだよね」
「…なまえちゃ……」
「あ、いたいた。みょうじ」
何かを決意したように顔をあげた千鶴ちゃんを遮って、誰かが私を呼んだ。
声の主の方を振り返ると、そこには同じクラスの小林君の姿がある。
席が近いせいか、ここ最近話すようになった男子の一人だ。
「さっき原田先生が、昼飯食べてからでいいから職員室に来いって」
「え…なにそれ」
小林君の言葉に、思わず顔をしかめる。
そんな私の様子に、彼は肩を揺らして笑った。
「未だに入部届出してないの、みょうじだけなんだってさ」
そういえばそうだった、と私は嘆息する。
剣道部でのあの一件以来、ずっと後回しにしていて忘れてしまっていた。
帰宅部という選択はないそうで、相応の事情がない限り部活動に参加しなければいけないのだから、困ったものだ。
「まだ決めてないなら、バスケ部のマネやらない?」
「やらない」
数日前にも言われた言葉にすかさず答えると、今度は彼が顔をしかめた。
「即答かよ。あ、雪村さんも大歓迎だよ?」
「わ、私は剣道部って決めてるから…」
突然話題を振られた千鶴ちゃんは、苦笑を浮かべながらやんわりと断りを入れる。
女子二人に断られた小林君は、わざとらしく肩を竦めた。
「ま、その気になったらいつでも言ってくれよ。じゃ、俺戻るけど、ちゃんと先生のとこ行けよ、みょうじ」
「うん、ありがとう」
踵を返して手をひらひらと振る小林君の後姿を見送りながら、私はようやくお弁当の蓋を開く。
そこではっとして、千鶴ちゃんに視線を移した。
「ごめん、千鶴ちゃん。何か言いかけてたよね?」
さっきの千鶴ちゃんの真剣な表情を思い出して尋ねると、彼女は眉を下げて笑いながら首を横に振る。
「ううん、いいの。何を言おうとしたのか忘れちゃったし…それより、先生に呼ばれてるんだから早く食べちゃおう」
そう言いながらお弁当を開ける千鶴ちゃんに腑に落ちないものを感じつつも、私も彼女に倣って昼食に手をつけた。
「で、何で呼ばれたかは分かってんだろ?」
椅子に深く座って腕組みをしながらこちらを見る先生に、苦笑を浮かべながら口を開く。
「入部届の件、ですよね…」
「ああ。そろそろ提出して欲しいんだが…まだ決まってないのか?」
「決まってないっていうか…その……」
何と言おうか迷っていると、とりあえず座れ、と原田先生は隣の椅子を指した。
明らかに他の先生の机だろうけれど、お言葉に甘えて腰を下ろす。
「まだ決まってないなら、雪村がいる剣道部に入るのもありだな。あいつがいれば、お前も安心だろ」
「いや、剣道部はちょっと…」
たしかに、千鶴ちゃんがいた方が心強いというか、安心できる。
たった二人の女子だから、同じ部活に入れれば一番いいのかもしれない。
だけど、剣道部と聞いて思い浮かぶのは、あの沖田さんだ。
それに、剣道部には斎藤さんや藤堂さんだっている。
こうして考えると、あの部活は私が苦手とする人たちばかりだ。
あまり乗り気ではない私の様子を見て、原田先生はああ、と声をあげる。
「そういえば見学に行って、総司にいじめられたんだったか?」
「いじめられたってわけじゃ……なんで、原田先生が知ってるんですか?」
半ば驚いて目を見開くと、先生は苦笑を浮かべた。
「お前を助けた土方さんから聞いたんだよ。ったく、総司は昔から無茶するからな…」
「昔からって…お知り合いなんですか?」
なんとなく気になって尋ねてみると、先生は一瞬はっとした表情を浮かべた。
けれど、すぐに眉を下げて笑う。
「まあ…そんなもんだな」
「おい左之……ってなんだ?人生相談か?」
突然聞こえてきた大きな声に驚いて、びくりと身体が跳ねる。
思わず振り返ると、そこにはいかにも体育会系な雰囲気の先生がいた。
たしか、数学担当の永倉先生、だっただろうか。
授業を担当してもらったことはないけれど、その雰囲気に合わない数学担当という肩書が印象に残って覚えている。
「おう、新八。人生相談とまではいかねえが、こいつ未だに部活決めてないようだから、どうするか話してたんだよ」
「それで、俺の椅子を勝手に拝借してるってわけだな」
「あ…すみません。先生の椅子だったんですね」
自分が座っている椅子が永倉先生のものだということに気付いて立ち上がろうとすると、原田先生が声をあげて笑った。
「立たなくても構わねえよ。なあ」
「なんでお前が決めるんだよ、左之。まあ、こいつの言う通りだ、そのまま座っとけ」
永倉先生もそう言って笑うと、机から書類を抜き取って職員室を出て行った。
その姿を眺めながら、口を開く。
「すごく仲がいいんですね…永倉先生ともお知り合いだったんですか?」
二人の会話からして、ただの仕事仲間だけではなさそうだ。
案の定、原田先生は笑って頷く。
「あいつとはもう腐れ縁みたいなもんだな…ほんと、昔っからな」
一瞬だけ、先生は目を細めてどこか遠くを見つめるような目をした。
まるで何かを懐かしむような、遠い目。
先生の様子に何と言えばいいか戸惑っていると、先生は肩を竦めてまた笑う。
「話が逸れちまったな。で、部活の件なんだが…どうする?」
「あの…期限っていうのは、ないんですよね?」
「一応、ないってことにはなってる。けど、出さなくていいってわけじゃねえぞ」
「それは分かってます」
それなら、と私は続ける。
「保留、という形でもいいですか?来月末までには必ず決めますから」
まだ、私はどうしたらいいのか分からない。
いつもの私ならきっと、適当にどこかの部活に入って幽霊部員になったりしただろう。
だけど、そうしてはいけない気がした。
そうするべきではないと言う私が、どこかにいる。
とても曖昧で不確かなものだけど、このまま流されることを否とする気持ちがあるのだ。
私の答えを聞いて、原田先生は黙ったまま私を見据えた後、溜息をついた。
「分かった。それじゃ、とりあえず保留な。来月末には出せよ」
「はい、ありがとうございます」
「わざわざ呼び出して悪かったな。戻っていいぞ」
立ち上がって、失礼します、と頭を下げて、私は職員室を後にした。
午後の授業を終えて、いつものように荷物を鞄に詰めていく。
忘れ物がないか確認してから後ろの席へ視線を走らせると、千鶴ちゃんはいない。
鞄を残したままだから、トイレにでも行っているんだろうか。
荷物を肩にかけて、私は教室を出る。
廊下は授業を終えた生徒で溢れていて、少し騒がしい。
これから部活なのだろう、ユニフォーム姿の生徒もいた。
それを眺めながら、私は不意に足を止める。
屋上に行きたい、と唐突に思った。
あの場所に何があるというわけではないけれど、なんとなくあそこで空が見たかった。
窓から外を見上げると、お昼に見ていた青空は今では灰色の雲で覆われている。
曇ってはいるけれど、雨は降っていないようだ。
よし、と意気込むと、正面玄関に向けていた足を屋上へと向けた。
階段を上がってドアを開けた先には、誰もいないようだった。
曇っているから日差しが差し込むことはないけれど、吹き抜ける風はほんのりと暖かい。
屋上の真ん中に立って、ゆっくりと深呼吸する。
そうすると、気分が落ち着いていくのが分かった。
遠く聞こえる生徒たちの喧騒を耳にしながら、空を仰ぐ。
視界に広がるのは、一面の灰色。
お昼にはあんなに晴れていたのが嘘のようだ。
「私は、どうしたいんだろう…」
以前の私なら、適当に部活に入って適当に学園生活を送っていただろう。
今までだって、そうしてきたから。
だけど、何か引っかかるものを感じる。
その引っかかるものとあの夢が、どこかで繋がっているような気さえするのだ。
でも、なぜそう感じるのかは分からない。
得体の知れないものが自分の中に潜んでいるような気がして、それが堪らなく不安だった。
そう考えていると、背後のドアが開く音が聞こえた。
誰か来たのだろうかと思って振り向いて、そこに佇む姿に動きが止まる。
相手も驚いたように目を見開いて、私と同じように動きを止めていた。
見覚えのない男子生徒。
それなのに、私を見つめるその菖蒲色の瞳に、どくんと心臓が脈打った。
あの瞳を、私は知っている。
その姿を、その顔を、私は以前から、ずっと。
「なまえ……」
目の前で立ちすくむその人は、掠れた声で私の名を小さく呼ぶ。
本当に小さな声だったのに、その声は私の鼓膜を揺らした。
名前を呼ばれて、私は再び心臓が跳ねるのを感じる。
それと同時に身体の奥から湧き上がってくる熱いものに、唇が震えた。
名乗った覚えなんてない。
むしろ、この人との面識なんてないはずだ。
それなのにどうして、その声を懐かしいと私は感じているのだろう。
どうして。
「やまざき、さん……」
私の喉は、知らない名を呼ぶのだろう。
その名を口にした瞬間、涙が溢れた。戻