薄桃色の花弁を一面に纏っていた桜の樹も、今では青々とした緑に覆われている。
見上げる空はどこまでも青いし、至る所から蝉の大合唱が聞こえてくる。
穏やかだった春はとっくに過ぎて、じりじりと焼けるような暑さの夏が、私を包んでいた。
「さすがにちょっと、暑すぎじゃない…?」
下敷きでぱたぱたと自分をあおいではいるけれど、実際これでは顔は涼しくても腕が疲れるだけ。
この涼しさも、その場しのぎでしかない。
思わず呟いた言葉に、千鶴ちゃんも苦笑いを浮かべた。
「今年の夏は去年よりも厳しくなるって、ニュースで言ってたからね…」
「そうなの?やだな…暑いのは苦手なのに…」
それにしても、暑い。
教室に設置してある扇風機から送られてくる風は熱風だし、窓を開けていても入ってくるのはそよ風程度で、到底この暑さを紛らわせてくれるものではない。
そういえば、記憶の中の京の夏も、とても暑かった気がする。
京の町には、まだあの暑さがあるのだろうか。
「それにしてもすごいね、なまえちゃん。地方大会で準優勝だなんて」
そう言った千鶴ちゃんを見ると、本当に嬉しそうに笑っている。
少し照れくささを感じながらも、私は肩を竦めて笑みを浮かべた。
「そんなことないよ。千鶴ちゃんだって、いいとこまでいってたし…私、千鶴ちゃんの剣道好きだよ」
「え…そうかな?」
「うん。真っ直ぐで、迷いがなくて…やっぱり、経験の差かな」
今度は千鶴ちゃんが照れたような笑みを浮かべて、ありがとう、と言った。
記憶を取り戻した後、結局私は剣道部に入部することになった。
まだまだ力は足りないけれど、それでも身体は覚えているもので、思ったより早く感覚を取り戻すことができた。
もちろん、過去の私が習得した剣術と、現在の剣道は異なる部分がたくさんある。
でも、通じるところはあったし、参考になる人も多かったから、おかげで地方大会準優勝という成績を残すまでに至った。
そんな結果を出したせいか、中学時代の友達からは驚かれるし、剣道部だった友達からはどうして剣道部じゃなかったのかとお叱りも受けてしまった。
「次の大会まではまだ時間があるから、もっと稽古しなくちゃ…」
「うん。二人で頑張ろうね」
そう言って、私は笑みを浮かべた。
その日の授業も部活も終える頃には、空はすっかり茜色に染まっていた。
「なまえ!手合せしようぜ!」
汗を拭って更衣室へ行こうとすると、平助に呼び止められる。
年上とは思えないような様子に笑みを浮かべながらも、私は首を横に振った。
「悪いんだけど、人を待たせてるから。また今度ね」
「また山崎君かよ!このリア充!」
「はいはい、悔しいなら平助も頑張りなさい」
そう言うと顔を赤くして何か言いたげにする平助は、やっぱり年上には見えない。
剣道部に入部したこの数ヶ月で、平助の千鶴ちゃんに対する感情には気付いた。
むしろ、あれで気付かない千鶴ちゃんがすごい。
そんな二人の様子を見ているのが面白いというのは、本人たちには秘密にしていよう。
「また今度相手してあげるから、今日は沖田さんか斎藤さんにでもしてもらってね。それじゃ」
それだけ言い残して、私は更衣室へと入った。
千鶴ちゃんは先に着替え始めていたようで、私の姿を見ると笑顔を向けてくれた。
「おつかれ、なまえちゃん」
「うん。千鶴ちゃんもお疲れ」
「今日は平助くんと手合せしないの?」
「あ…今日はちょっと、待たせてるから…」
私の濁した言葉に、千鶴ちゃんは嬉しそうに笑った。
「そっか。今日は山崎さんが待っててくれるんだね」
「まあ…うん」
改めてそう言われると、少しだけ照れくさい。
肩を竦めて笑うと、千鶴ちゃんは楽しそうに笑みを零す。
その間に着替えた私は荷物をまとめて、更衣室を後にした。
「山崎さん」
道場を出て見つけた背中に呼びかけると、その人はこちらを向いて笑みを浮かべる。
「すみません、待たせちゃって…」
「いや、気にしなくていい。稽古は捗ったか?」
「はい。でも、まだまだ至らないところもあって…さすがに、昔みたいにはいかないですね」
何気なく言った言葉に、山崎さんが不意に立ち止まる。
思わず私も立ち止まって彼を見ると、険しいような哀しいような、複雑な表情を浮かべて視線を落としていた。
「山崎さん…?」
「本当に、これで良かったのか?」
相変わらず、この人は変わらない。
近寄りがたい鋭さを見せるときもあれば、包み込むような優しさを見せるときもあるのに、時には傍にいなくてはと思うほど繊細な面を見せる。
今だって、きっと私が記憶を取り戻したのは自分のせいだと思っているのだ。
記憶を取り戻したことで、私が苦しんだということも。
「正直に言えば、辛いことだってあります。皆さんを裏切ったという記憶も、罪悪感も、一生消えるものではないですから」
私は愚かで、浅はかな人間だ。
信じてくれていた全てを、裏切った人間。
その裏切りの先に、彼らと再会するという未来があった。
「それでも、私は後悔していません」
辛いことも苦しいことも、もちろんある。
だけど、苦しいのは私だけじゃない。
口にしないだけで、誰もがその辛さや苦しさを抱えている。
その苦しみはその人自身のもので、きっと誰が慰めようとも癒えることはないものだ。
でも、誰かと一緒にいることで、その苦しみさえも抱いて生きていけることに気付いた。
誰かが一緒にいてくれるだけで、自分の足でしっかりと立っていられることに気付いた。
「過去の私が、心の奥でずっと思い描いていた未来があるんです」
必死で目を背けてきた、私自身の、心からの願い。
「私が望んでいたのは、こうして新選組の皆さんと……山崎さんと、一緒にいられることだったんです」
長州も新選組もなく、ただのなまえとして、彼らと共に在りたかった。
何のしがらみもなく、笑っていたかった。
その未来が、きっと今なのだと思う。
「だから、後悔なんてしません。こうして、また一緒にいられるんですから」
そう言いながら彼の手を握ると、その人は安堵したような笑みを浮かべて私の手を握り返す。
その手は、私が一度放してしまった手。
差し伸べられることにさえ怯えて、振り払ってしまった手だ。
「今度こそ、放さない」
静かに、だけどしっかりと告げられた言葉に、私も負けじと手を握った。
「私も、もう放しませんから」
何があっても、もうこの手は放さない。
私が犯した罪は許されることはないし、私たちの記憶の中に深く刻まれていて、決して忘れられるようなものではないことは分かっている。
でも、その痛みや傷を抱えてこそ、今の私たちがある。
お互いを想い合って、今を生きていける。
この新しい時代で、新しい生を生きていくことができる。
景色を茜色に染める夕日を眺めながら、もう一度愛しい温もりを握り返す。
この先、何があるのかは分からない。
きっと、苦しいことや哀しいこと、辛いことはいくらでもあるだろう。
それでも、もう逃げることがないように。
目を背けることがないように、私はしっかりと前を向いて生きたい。
心から大切だと思える人達と、愛しくて堪らないこの人と一緒に、この時代を。
あのときの私が心から望んだ未来を、紡いでいくために。
完
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