再び瞼を開けたとき、視界に広がったのは見慣れたいつもの天井だった。
少しして夢から覚めたことに気付いても、身体を動かす気になれず、そのままじっと虚空を見つめる。
私は、なんて愚かなんだろう。
取り戻した記憶を思い返しては、何度もそう思った。
口から漏れたのは嗚咽ではなく、自分に対す乾いた嘲笑。
あのときの私は、自分が楽になることしか考えていなかった。
だから、死ぬことを選んだ。
たとえ利用する為だとしても私を引き取り育ててくれた旦那様も、口にすることはなかったけれど私を仲間として見てくれていた新選組も。
守りたいと思っていたはず全てのものに対して背を向けて、私は瞼を閉じ耳を塞いだ。
そうやって、全てを裏切った。
ようやく上体を起こすと、瞳に溜まっていた涙が頬を伝って流れる。
もう涙も枯れてしまったのか、流れる涙は一筋だけだった。
私は、あの学園に行くべきではなかった。
彼らの様子を見れば、彼らが私を覚えていることは明らか。
あの言葉や態度の意味が、嫌というほど理解できる。
記憶がなかったとは言え、私は彼らの前に現れるべきではなかったのに。
それなのに、私は。
「どうしたら、いいの…?」
震える身体をかき抱いて、小さな声で呟く。
その声は驚くほどか細くて、消えてしまいそうだ。
脳裏に次々と浮かんでは消える、懐かしい記憶たち。
彼らの笑顔が大切で、愛しくて、だからこそ、思い出すには辛すぎて。
こんなことなら、いっそ思い出さなければ良かった。
知らないまま、さっさと学園生活を終えて彼らから離れられたら良かったのに。
そこまで考えて、ふと思った。
もしかすると、これが私への罰なのだろうか。
彼らを裏切るという罪を犯してしまった、私への。
そのとき、枕元に置いておいたスマホがけたたましい音を鳴らして着信を知らせた。
突然のことにびくりと震えながらも、恐る恐る震えるそれを手に取る。
そして画面に表示された名前に、思わず息を飲んだ。
「千鶴、ちゃん……」
きっと彼女も、私のことを覚えている。
新選組のことを尋ねてきたのだ、知らないはずはない。
どうすればいい。
きっと私は、これ以上彼らに関わるべきじゃない。
私の存在は、また彼らを苦しめるかもしれないから。
『いい加減思い出しなよ、なまえちゃん。君だけ逃げるなんて卑怯なんじゃない?』
震える手でスマホを戻そうとしたとき、脳裏にいつかの沖田さんの言葉が浮かんだ。
『あのときも、今も、結局君は変わらない。一人で逃げてばっかりだ』
続いて響いた言葉に、手を止める。
唇がわなわなと震えて、枯れたと思っていた涙が溢れてきた。
本当は、分かっている。
沖田さんの言う通り、私は逃げてばかりだ。
あのときは揺れることに疲れて、死を選ぶことで全てから逃げた。
今では記憶を閉じ込めることで逃げ、思い出すやいなや、今度は関わらないことで逃げようとしている。
逃げ続ける私は、たしかに卑怯なのかもしれない。
でも、そうせざるを得ないのだ。
だって、そうしていないと。
「私が、辛い…!」
辛くて苦しくて、仕方がなくなる。
自分の愚かさに、浅ましさに、どうしていいか分からなくなってしまうのだ。
私をそうさせているのは、他ならぬ私自身だから。
でも、逃げたいと思う心のどこかには、もう逃げてはいけないと思う心もある。
彼らに向き合うべきだ、心の内を話すべきだ、と。
そうは言っても、彼らは私の話を聞いてくれるのだろうか。
一度裏切ってしまった私に、手を差し伸べてくれるのだろうか。
未だに震える画面に、視線を落とす。
あのときも今も、彼女の優しさは変わらない。
新選組にいた頃、何度彼女の優しさに捕らわれそうになったことか。
そして今では、その優しさが暖かくて、安らぎを感じてしまう。
そうだ。
千鶴ちゃんは、記憶のない私にも変わらず接してくれた。
私が覚えていないことを分かった上で、隣にいてくれた。
そこまでしてくれた彼女に、何も言わないままではいられない。
たとえ何を言われてもいい、千鶴ちゃんだけには、私の心を話そう。
意を決して、通話ボタンに触れて、耳に押し当てる。
『もしもし、なまえちゃん?風邪引いたって聞いて…大丈夫?』
「…うん、大丈夫だよ、ありがとう」
電話の向こうから聞こえてくる優しい声に、漏れそうになる嗚咽を必死に堪える。
そんな私の様子を感じたのか、千鶴ちゃんは戸惑ったような声をあげた。
『なまえちゃん…どうしたの?何かあった…?』
「…あの、ね……その……」
何か言わなければと思いながらも、何と言っていいのか分からずに言葉を濁す。
『……もしかして、思い出したの…?』
緊張を孕んだ言葉に、息を詰まらせた。
もしかすると、山崎さんから何か聞いたのかもしれない。
昨日の屋上で、私は確かに、あの人の名を呼んだから。
「……うん。思い出したよ、全部…」
少しの間のあとに、震える声で答える。
「だから…私の話を、聞いて欲しいの。今日の放課後、空いてる…?」
やっとの思いで口にした言葉は、私の心を表すように頼りなかった。
ばくばくとうるさい心臓の音を聞きながら、私は千鶴ちゃんの返答に耳を傾ける。
『放課後なら大丈夫だけど…それじゃあ、なまえちゃんの家に行ってもいい…?』
「うん…」
『ありがとう。放課後になったらまた連絡するから、家の場所教えてね』
「分かった。待ってる」
その会話を最後に、私は千鶴ちゃんとの通話を切った。
窓の外が茜色に染まる頃、私の家のチャイムが鳴り響く。
分かっていたこととは言え、いざその瞬間が来たと思うと身が竦んだ。
それでも、私は立ちあがって玄関へと向かう。
深呼吸をしてドアを開けると、そこには制服のままの千鶴ちゃんが佇んでいた。
千鶴ちゃんは私を見ると、安堵したような笑みを浮かべる。
「思ったより元気そうで良かった…体調はどう?」
てっきりすぐにあの話でもされるのかと思っていたから、思いがけない言葉に拍子抜けしながらも私も笑みを返した。
「薬飲んでずっと寝てたから、今はだいぶ楽なんだ…とりあえず、あがって」
「ありがとう。お邪魔します」
そのまま千鶴ちゃんを家の中に招き入れ、リビングへと案内する。
「そうだ、なまえちゃん。これお見舞い。良かったらどうぞ」
リビングに着くなり、千鶴ちゃんが手に持っていた袋を私に差し出す。
受け取った袋の中を覗いてみると、飲み物や冷えピタが入っていた。
彼女の気遣いに、思わず涙が零れそうになる。
私は自分のことで精一杯なのに、千鶴ちゃんはこんなときでも私を気遣ってくれている。
「ありがとう…。お茶淹れてくるから、座って待ってて」
「そんな、大丈夫だよ。なまえちゃんは病人なんだから……」
「今は、だいぶ楽だから。せっかくお見舞いに来てくれた友達がいるのに、お茶も出さずにはいられないよ」
引き止めようとした千鶴ちゃんに笑みを浮かべて、キッチンへと向かう。
零れそうになっていた涙を手で拭ってから手早くお茶とお菓子を用意して、再びリビングに戻った。
千鶴ちゃんは落ち着いた様子で、家の中を眺めている。
「はい、お茶とお菓子。こんなものしかないんだけど…」
ソファに腰を下ろしてそう言うと、千鶴ちゃんは我に返ったように私を見て、ありがとう、と言った。
二人でお茶に口を付けて、沈黙が流れる。
暖かいお茶を飲みながら、私は何と言いだすべきか思い悩んでいた。
話したいことがあると言い出したのは私。
だけど、何から話せばいいのか分からない。
どうしたものかと悩んでいるうちに、沈黙を破ったのは千鶴ちゃんだった。
「ねえ、あの写真に写ってるのは…ご両親?」
そう言って彼女が視線を向けたのは、電話の横に置かれた一枚の写真。
たしか、私が小学校に入学したときの写真だ。
入学式にはお父さんもお母さんも来てくれて、桜の舞う校門の前で三人で撮ってもらった。
「うん。今はお父さんが海外で仕事をしてて、お母さんもそれについて行ってるの」
「そうなんだ…」
今の両親が、あのときの私の両親だったのかは覚えていない。
両親を失ったときの私が、あまりにも幼かったせいだろうか。
「千鶴ちゃん」
千鶴ちゃんは、私の声音を聞いて察したのか、真剣な表情でこちらを見る。
言わなければいけない。
話さなくてはいけないことが、たくさんある。
だけど、何よりもまず言わなくてはいけないのは。
「ごめんなさい」
それだけ言って、私は深く頭を下げた。
「なまえちゃん……」
「謝って許されるようなことじゃないことは、分かってる。私はそれだけのことをしたから…」
許して、とは言わない。
私は千鶴ちゃんを、新選組の人たちを裏切った人間。
許しを乞うべきじゃない。
「もし…もしも、もう二度とあなたたちの前に現れるなと言うなら、私はそれに従う。関わらないようにもする。だから……」
「どうして……」
私の言葉を遮って、千鶴ちゃんは震える声でそう言った。
顔を上げて彼女を見ると、彼女は瞳に涙を溜めている。
「どうして、そんなことを言うの!?」
涙を浮かべたまま、千鶴ちゃんは大きな声で叫んだ。
思いがけない彼女の反応に、呆然とするしかなかった。
「なまえちゃんは、そうやって一人で勝手に思い悩んで、勝手に決めて…どうして私たちに、一言も相談してくれないの?」
「千鶴ちゃん……」
「私は、またなまえちゃんに会えて嬉しかった。今度は争いのない世界で一緒にいられて、本当に嬉しいと思ったの」
涙に濡れながらも、そう語る彼女の瞳は真っ直ぐだ。
彼女の強さは、私には眩しい。
逃げてばかりだった私には、眩しすぎるくらいだ。
「私だけじゃない。平助君や沖田さん、斎藤さん…土方さんたちだって、なまえちゃんとまた会えたことを喜んでるんだよ」
「私は、間者だったのに……?」
私の問いに、千鶴ちゃんは涙を拭って笑みを浮かべる。
「だってなまえちゃん、肝心な情報は全然漏らしていなかったでしょ。もし本当に間者だったなら、羅刹のことなんてすぐに報告していたはずだって、皆さん言っていたから」
千鶴ちゃんの言葉が、静かに私の奥深いところへと落ちていく。
彼女の言う通り、私はいつの頃からか、間者の役目を果たしていなかった。
羅刹に関わりだしたときも、本当は伝えるべきだったのに、できなかった。
あのときは、最後の切り札として私の胸にしまっておくと言い聞かせていたけれど、本心は違う。
羅刹の情報を流せば、新選組はたちまち窮地に立たされることが分かっていたから、言えなかった。
あのときのことを思い出して、漏れそうになる嗚咽を必死に飲み込む。
「だから、また皆さんに会って欲しいの。ちゃんと会って、話して欲しい」
千鶴ちゃんの言葉は、縋ってしまいたくなるほど暖かい。
それでも、私は期待を押し殺して首を横に振る。
「だとしても……山崎さんには、会えない」
記憶を取り戻した今、過去の私がどれほどあの人を愛していたか知っている。
愛していたからこそ、私はあの人の手で死ぬことを選んだのだから。
その想いは今でも薄れていなくて、あの姿も声も、何もかもが愛おしいと思う自分がいるのだ。
「私は自分で、あの人を傷つけてしまった。あの人を利用して、私は逃げたの…」
握りしめた拳が、震えている。
それが怒りなのか、哀しみなのか、それとも両方なのかは自分でも分からない。
ただ、愛しているからこそ、余計に自分が許せなかった。
「…なまえちゃんは、今でも山崎さんのことが好き?」
千鶴ちゃんの静かな問いに、私は頷く。
「今でも、あの人のことが好き。大切だと思ってる…だけど、あの人に会わせる顔なんて……」
「山崎さんのことが好きなら、会ってあげて。記憶を取り戻したなまえちゃんの姿で、もう一度会って欲しいの」
そこまで言うと、千鶴ちゃんは困ったように肩を竦めて笑った。
「昨日のこと、山崎さんから聞いたんだ。もしかしたら記憶を取り戻すかもしれない、そうなるときっと苦しむだろうから、傍にいてあげてくれって頼まれちゃって……これは内緒の話ね」
千鶴ちゃんの言葉に、思わず涙が溢れる。
あの人は今でも、私を気遣ってくれているのか。
愛して傷つけて、記憶を葬ろうとさえした私を。
目の前で二度も逃げてしまった、私のことを。
「会っても…いいのかな……」
嗚咽を堪えながら、私は千鶴ちゃんに問いかける。
千鶴ちゃんは笑みを浮かべると、私の肩にそっと触れた。
「きっと山崎さんも、もう一度会いたいって思ってるよ」
そう言いながら、彼女は私の肩を擦る。
よく見ると、千鶴ちゃんも涙を浮かべている。
「おかえり、なまえちゃん」
肩から伝わる温もりに、抑える間もなく涙が溢れだした。
ただいま、と言いたいのに、口から漏れる嗚咽のせいでうまく喋れない。
そんな私を、千鶴ちゃんも涙を流しながら優しく抱きしめてくれた。
翌日、放課後になってから、私は制服を着て学園に向かった。
千鶴ちゃんが道場に皆を集めて、私が彼らに会いに行く手筈になっている。
ちゃんと話せる自信なんて、欠片もない。
それでも、皆と話すべきだという千鶴ちゃんに背中を押されて、ここまで来た。
徐々に見えてきた学園を眺めながら、思う。
あのときも本当のことを話せていたら、千鶴ちゃんは手を差し伸べてくれたのだろうか。
もしかすると私は、その手を握ることを、彼女の優しさに身を委ねることを拒んでいたのかもしれない。
その優しさが、とても居心地の良いものだと分かっていたから。
「あ、なまえちゃん!」
校門前で、私に気付いた千鶴ちゃんが手を振っている。
変わらない彼女に、私も手を振り返して歩み寄った。
「ごめんね、待たせちゃった?」
「ううん、大丈夫。それじゃ、行こう」
千鶴ちゃんはあくまで笑顔だ。
私もなんとか笑みを浮かべてはみたけれど、きっとぎこちないものになっているに違いない。
でも、千鶴ちゃんは何も言わなかった。
お互いに黙ったまま、道場へと向かう。
その道のりは長いようにも、短いようにも感じる。
道場が近付くにつれて、心臓がうるさく脈打ち始めた。
あそこに、皆がいる。
大切だと思っていた彼らが、一度は裏切ってしまった彼らが、あそこで私を待っている。
今すぐ踵を返したくなるような衝動に駆られたけれど、もう逃げることはしたくない。
私は十分逃げてきた。
あのときも、これまでも。
そう考えているうちに、私たちは道場の扉の目の前にいた。
千鶴ちゃんが緊張した面持ちで、こちらを振り返る。
「大丈夫…?」
心配そうに尋ねる千鶴ちゃんに、私は頷いた。
私が頷いたのを見て、千鶴ちゃんは再び視線を前に戻し、扉に手をかける。
深呼吸をして、その扉が開く音に耳を澄ます。
逃げてはいけない。
今度こそ、ちゃんと向き合おう。
そう自分に言い聞かせながら、私は開いた扉の向こうへ足を踏み入れた。
千鶴ちゃんの後に続いて入った道場の中は、静まり返っていた。
それでもそこには、懐かしいと思える顔ぶれが集まっている。
土方さんや沖田さん、斎藤さん、平助と左之さんと新八さん。
その顔を見るだけで、取り戻した記憶の中の彼らが脳裏を過って、涙が溢れそうになる。
ここで泣きたくはなかったから、思わず視線を下げた。
「あの、山崎さんは…?」
「外せない用事があるから、あとで来るってさ」
心配そうな千鶴ちゃんの問いに、沖田さんが淡々と答える。
その沖田さんの声を最後に、沈黙が流れた。
この場にいる全員の視線を感じる。
ゆっくりと視線をあげると、案の定、千鶴ちゃんを含む全員の瞳と交わった。
言わなくてはいけない。
今度はちゃんと、私の本当の心を、私の言葉で。
私に注がれる視線を受け止めて、腰を折って深く頭を下げた。
「すみませんでした」
千鶴ちゃんは、たしかに許してくれた。
だけど、肝心の彼らに、私は何も言っていない。
だから、まずは謝るべきだと思った。
「全部、思い出しました。私が何者で、何をしてしまったのか…」
私は、彼らに嘘をついた。
彼らを裏切った。
たった一人で死を選んで、彼らに背を向けた。
ゆっくりと顔を上げて、震える喉を叱咤して声を上げる。
それでも彼らの瞳を真っ向から受けとめる勇気はなくて、視線は下げたままだ。
「私は、取り返しのつかないことをしました。そのせいで、皆さんに迷惑をかけたことも……」
「おい、なまえ」
私の言葉を遮って、土方さんが私を呼ぶ。
久々に私を呼ぶ声に、思わず息を飲んだ。
土方さんは厳しい表情を浮かべたまま、口を開く。
「てめえは、ちっとも変わらねえんだな」
「え…?」
土方さんの言葉の意味が分からず、思わず首を傾げた。
「一人で勝手に全部抱え込みやがって、少しも頼ろうとしねえ。挙句の果てには、抱えきれなくなって死んじまうんだからな」
そう言って、土方さんは呆れた様子で溜息をついた。
「ほんと、さすがに死ぬことはなかったんじゃない?そんなに死にたかったなら、僕が斬ってあげたのに」
「総司、冗談はよせ」
「いいじゃない、一くん。堅苦しいのは嫌いなんだから。ね、平助」
「総司の冗談は冗談に聞こえねえんだよ…」
「おいお前ら、そのへんにしておけ。なまえが困ってるだろ」
次々に進んでいく会話に思わず唖然としていると、左之さんが困ったようにまわりを窘めて、こちらを向いた。
「要するにだな、俺らはお前を恨んでるどころか、戻って来て欲しいんだよ、お前に。今度こそ、本当の仲間としてな」
「本当の、仲間…」
「そうだよ、なまえ。だから、そんな辛気くせえ顔すんなって」
左之さんと新八さんの言葉に、熱いものが込み上げてくる。
ずっと前から、私はこの言葉が欲しかったのかもしれない。
長州と新選組の間に挟まれて、私の本当の居場所が欲しくて、でもどちらも大切で。
「今の時代なら、長州も新選組もねえんだ。だからお前も、余計な気を回したりする必要なんざなくなったんだよ」
「土方さん…」
いいのだろうか。
長州も新選組も関係ないこの時代で、一緒にいても。
涙が溢れそうになって、思わず俯く。
どうして彼らは、こんなに暖かいのだろう。
一度は裏切った私に、こんなに優しくしてくれるのだろう。
「私…私、は……」
ずっとずっと、あの頃から胸に秘めていた思いがある。
願ってはいけないと分かりながらも、それでも思い続けたことが。
今なら、その願いも許されるだろうか。
「私、本当は……!」
言わなければ。
私の本当の思いを。
あのときの私が、どれほど彼らと共に在りたいと思ったのかを。
言いかけたそのとき、道場の扉が開く音が響いた。
思わず振り返ると、そこには大切で愛しくて堪らない姿がある。
私を見つめる菖蒲色の瞳から、目を離せない。
ああ、私はどうしようもなく、あの人を愛しているようだ。
「なまえちゃん」
不意に、隣にいた千鶴ちゃんが私を呼ぶ。
振り返ると、千鶴ちゃんは笑顔で私の背中をそっと押してくれた。
少しだけ前に進み出て、私は再びあの人に向き直る。
目の前の人は、じっと私を見つめていた。
その表情に浮かんでいるのは、戸惑い。
「山崎さん」
意を決して、私は彼の名を呟く。
この前とは違う。
自分の意志で、愛しいその名をはっきりと呼んだ。
彼は目を見開いて、ゆっくりと足を踏み出して私へと歩み寄る。
今度は逃げることなく、私は彼の視線を受け止めた。
「本当に、なまえなのか……?」
手を伸ばせば届く位置で、山崎さんは立ち止まる。
涙で視界が滲むのを感じながら、私は頷いた。
「ちゃんと、思い出したんです……私が、あなたに何をしたのか……」
私は、最低な人間なのかもしれない。
「過去に犯した私の過ちは、許されるものではないと思っています。あなたを傷つけた過去の私を、今の私は許せません。でも……」
たくさんの嘘をついた。
嘘をついて、耐えきれなくなって、全てを裏切った。
そんな私が、嘘ばかりを紡いだこの口で、傍にいたいと言おうとしている。
なんて滑稽な姿だろう。
でも、それでもいいと思えた。
たとえ、最低だと言われても構わない。
もう一度、彼と共に生きることができるのなら、私は。
「お願いです……もう一度、私を傍に置いてもらえませんか……?」
震える声で、絞り出すようにそう言った。
もう、涙で何も見えない。
ただ、ぼやける世界の中で、その人が動いたのは分かった。
「当たり前だ」
気付けば、私は山崎さんに抱きしめられていた。
耳元で告げられた答えに、ずっと堪えていた涙がどっと溢れる。
私を包む温もりも匂いも、記憶の中にあるもの。
懐かしい。
愛しい。
たくさんの想いが溢れてきて、止まらない。
堪えきれずに、私は山崎さんに縋りついて声を上げて泣いた。
まわりに皆がいると分かってはいたけれど、抑えられない。
愛しい温もりを感じながら、私は気が済むまで涙を流した。戻