望みの代償 弐

元治元年、六月。
黄泉の鬼とやらが言った通り、私は再び京の町で新選組として生きる日々を送っている。
あのとき意識を失ってから、次に瞼を開けたときにはそれは驚いたものだ。
視界に広がる八木邸の自室の天井を見上げながら、夢ではないかと自分の頬を抓ってみたりもした。
痛みはしっかりとあって、逆にこれまでのことが全て夢だったのでは、と思うほど。
でも、そんな期待はあっさりと掻き消されることになる。
私の周囲で起こる全ての出来事に、既視感を覚えるのだ。
そして、今この瞬間も、記憶に色濃く残る事件が起ころうとしている。

「問題は、四国屋か池田屋ってところか…どう思う、山南さん」
「四国屋である可能性が高いでしょう。念のため、池田屋にも人員は割きますが……」

土方さんと山南さんの話に耳を傾けながら、早鐘を打つ心臓をぐっと抑える。

枡屋の古高俊太郎を捕縛して自白させたところ、長州の浪士たちが京の町に火を放ち、その混乱に乗じて天子様を連れ去ろうと目論んでいることが分かった。
その会合が行われるのが、今日この日。
後に、池田屋事件と呼ばれる騒動だ。
新選組が、その名を広く知らしめるきっかけとなった事件。
現時点で得られている情報では、それが四国屋で行われるのか、それとも池田屋なのかまで分かっていない。
私一人を除いては。

土方さんたちは四国屋だと踏んでいるが、実際は池田屋だ。
ここで、言うべきなんだろうか。
四国屋に半数以上の隊士を向かわせていたために、池田屋での戦闘はそれは激しいものとなった。
永倉さんも平助も軽くはない怪我を負ったし、沖田さんだってあのときから既に吐血していたのだ。
もし最初から池田屋に人員を割いていれば、こちらの被害だって最小限に抑えられたのかもしれない。

「あの……」

緊張で大きくなる鼓動を抱えながら、唇を開く。
放った声は、情けなく震えていた。

「どうした?#名前#」

土方さんの鋭い視線が突き刺さる。
気圧されないように、ひとつ呼吸をしてその瞳を受け止めた。
本命は、池田屋。
たった一言、それを言えばいい。
ごくり、と生唾を飲みこむ。
再び唇を開いた。
しかし、私の喉からは何の音も出なかった。

「っ……」

伝えたい言葉は欠片も出ず、掠れた吐息が漏れるだけ。
驚きに目を見開いて、ぱくぱくと口を動かす。
そんな私に、土方さんは眉を顰めた。
彼だけじゃない、その場にいた誰もが、不思議そうに私を見つめている。
呼吸はできている。
なのに、なぜか声が出ない。
私の喉は、ひゅうひゅうと空気を吐き出すだけだ。

「…山崎、そいつを診てやれ」

どうやら土方さんは、私の体調が悪いと思ったらしい。
それはそうだ、突然声が出なくなったんだから。
ただでさえ、今の新選組には体調不良者が多い。
彼は山崎さんに私を任せ、周囲に指示を出してその場を離れていく。

待って、土方さん。
四国屋じゃない、池田屋なのに。
遠ざかる背中を追おうとする私の腕を、誰かが引き留める。

「体調が悪いなら無理をするな。皆の足を引っ張る気か?」

山崎さんが、私の腕を引いて静かに告げる。

「…山崎、さん」

ようやく、私の喉から音が放たれる。
思わず、自らの喉に手を当てた。

「どうして……」

困惑する私を、山崎さんも険しい表情を浮かべて見据える。

「どうした?」

分からない。
こちらが聞きたいくらいだ。

「……いいえ、なんでもないです。この空気の中で、気を張りすぎたのかもしれません。大丈夫です」
「だが……」
「本当に大丈夫なんです。ご心配おかけして、すみません」

それだけ言うと彼の手を解いて、くるりと踵を返してその場を離れる。
後ろから私を呼ぶ声が聞こえたけれど、聞こえないふりをして歩みを早めた。
そのまま足早に自室へと向かって、後ろ手にぴしゃりと襖を閉める。
深呼吸をして、もう一度自分の喉に触れてみる。

「あ……」

声は、問題なく出る。
その証拠に、喉に触れた手に振動が伝わった。

さっきのは、なんだったのだろう。
本命は池田屋だ、と言おうとしただけなのに。
そこまで考えたところで、くつくつと嫌な笑い声が脳裏に響く。

まさか。
目を見開いて、虚空を見つめる。
黄泉の鬼は、記憶をそのままに時を戻してやる、と言った。
そうすれば、あの人を…山崎さんを、助けることだってできる、と。

時を戻されてから、私は過去とは異なる行動をしている。
さっきの土方さんと山南さんの話し合いにだって、前は立ち会わなかった。
意識的に違う行動を取っていることも何度かあったし、無意識にそうしていることだってあるはずだ。
それでも、これまで何の問題もなかったのに。

でももし、歴史に関わる発言ができないのだとしたら。
私の言葉によって、歴史を変えることができないのだとしたら。
そう考えるなら、声が出なかったのも納得がいく。

「へえ、お前って案外賢いんだなあ」

突然響いた声に、はっとして顔を上げる。
私以外いないはずの部屋の隅に、壁に凭れるようにして佇む黒い男。
見覚えのある姿に、思わず息を呑んだ。

「何しに来た?」
「いやあ、お前に言い忘れたことがあったのを思い出したのさ」

黄泉の鬼は、骨ばった指を私へと向けた。
鮮紅の瞳が私を捉えて嗤う。

「歴史を変えるような発言は、お前にはできない」

やはり、そうか。
拳を握り締める。
まるでこの鬼は、私が苛立っている姿を見て楽しんでいるようだ。
その様子に、余計に腹が立つ。

「まあそう怒るな。お前も気付いただろう?口では言えないだけで、行動することはできる。歴史を変えるんだ、そんなに簡単に事が進むわけないだろう」
「……何があろうが、私は絶対に変えてやる」

黄泉の鬼を睨みつけながら、低い声で呟いた。
一度失ってしまったあの人を、二度と失わないために。
ただそれだけのために、私はここに戻ってきたのだから。
睨む私に対して、鬼はくつくつと声を上げて笑う。

「お前が足掻く姿を、ゆっくりと見せてもらうよ」

それだけ言い残して、鬼は煙のように掻き消えた。
再び、沈黙が下りる。
まるで誰もいなかったかのようだ。
遠くに聞こえる喧騒に耳を傾けながら、出陣の準備をするために自室を後にした。



強すぎる血の臭いに、吐き気を覚えて口元を押さえる。
揺れる視界の中で倒れまいと手をついた壁は、鮮やかな紅でぬるりと滑った。
それでも倒れたら起き上がれない気がして、気力を振り絞ってまた一段、足を踏み出す。

階段を上ろうと踏み締める度、斬られた脇腹から血が流れるのを感じて顔を顰める。
近藤さんたちと一緒に、池田屋についてきたまでは良かった。
池田屋に人員を割いてもらうまではできなかったけれど、私が行くことでせめて助けになれば、と思っていた。
でも池田屋の乱闘は想像以上のものだった。

喀血してしまう沖田さんを追おうとしたが、階段に辿り着く前に浪士に行く手を阻まれ、刃を交える他なかった。
幸い、受けた傷は深くないようだし、これで死ぬことはないだろう。
近藤さんには下がれと言われたけれど、私は二階に行かなければいけない。
沖田さんは労咳の発作が出ているだろうし、平助も、永倉さんも重傷を負っているはずだ。

前の池田屋事件のとき、私は四国屋にいた。
千鶴ちゃんの連絡を受けて池田屋へ向かったときには、既に騒動は終結に向かっていて、負傷者の手当てにあたっていたのを鮮明に覚えている。
少しでも助けになればと思っていたのに、これではあのときと何も変わらない。
せめて、沖田さんたちの手助けを。
二階に行って、少しでも彼らの応援をしなければ。

「なまえ!」

名を呼ばれたと思えば、肩を掴まれ強く引かれる。
傷を庇うように前屈みになっていた上体を引き起こされて、鋭い痛みが走った。
思わず眉を寄せた私に気付いた山崎さんが、無駄のない動きで私の脇腹へと視線を向ける。
流血の収まらない傷を確認すると、彼は何も言わずに私を抱え上げた。
そのまま私がやっとの思いで昇ってきた階段を下りていくその手から逃れようと、脇腹の痛みも構わず身を捩る。

「離してください!二階に行かなきゃ…!」
「その怪我では足手まといになる」
「そんなこと……」
「大人しくしていろ。俺の仕事を増やさないでくれ」

熱いものがこみ上げるのを感じながら、遠ざかる二階を見つめる。
こんなはずじゃなかった。
こんな結果を迎えるために、戻ってきたんじゃなかったのに。
否応なく、自分が無力であると突き付けられているかのようだ。
ああ、私はあのときと変わっていない。
無力なんだ。
悔しさに、涙が溢れる。
悔しくて、悔しくて悔しくて悔しくて。
己の非力が疎ましい。



結局、池田屋事件は以前と同じ結末を迎えた。
唯一違うのは、私が負傷したこと。
それでも大した怪我ではなく、額を割られた平助や永倉さんの方がよっぽど重症だ。
私以外、何もかもが変わっていない。
いや、変えられなかった。

自室で布団に横たわったまま、拳を固く握る。
そう容易く歴史は変えられない。
分かっていたつもりだった。
あの黒い鬼も言っていたじゃないか。
簡単なことではない、と。
見慣れた天井を睨んで、小さく息を吐く。
だとしても、私がやることは決まっている。
きたるその時まで、抗い続けることだ。
諦めるわけにはいかない。
足掻いて足掻いて、足掻き続けるしかないのだ。
どんなに哀れで醜くとも、滑稽だとしても。

あの黄泉の鬼の嗤い声が、幽かに聞こえた気がした。