ああもう、なによなによなによ!


「リーネごめん………他に好きな人ができたんだ。……別れてほしい」


――ダンッ

「マスター!! もっとキッッッツイのちょうだい!!!」
「あ、ああ。だが程々にしておけよ」

 カウンター越しに出されたアルコール度数の高いお酒を、ジョッキの半分ほどまで一気に喉へ押し込んだ。「ほどほどに」というマスターの気遣いはありがたいのだけれど、残念ながら今のわたしにその言葉は届いていない。
 今日は酔いつぶれるまでお酒を浴びたい、そうでなければやってられない、そういう日だ。

 つい数時間前のこと。一ヵ月ぶりに連絡がつき、さらにはおおよそ半年ぶりに顔を会わせた恋人と別れた。いや、フラれた。
 理由はなんともありきたりで、よく耳にするあれだ。他に女ができたから、だ。なんとも女として情けないフラれ方。四年も付き合っていたというのに、唐突に、あっさりと終わってしまった。
 もしかして……と連絡のつかない不安な日々に過ぎっていた可能性ではあったものの、まさか本当に浮気されていたなんて、たまったものじゃない。
 思い出しただけで身体中から苛立ちが沸騰しそうだ。


「あー!! ムカつくムカつく!! なんなのアイツ、ちょーっと顔がいいからって!」

 男臭いという言葉からかけ離れたような出で立ちだった。よく言えば好青年、悪く言えば貧弱そうな彼は、出会った頃から異性に人気だった。それはもう、付き合う前のデートの段階で、待ち合わせ場所に向かうと高確率で逆ナンにあっていたのだ。合流する際のわたしの精神を考えてほしい。
 けれど、数多くの異性から好かれる割に、心移りするようなそぶりは微塵も感じられなかった。誰にでも優しい性格というのは難儀なもので、ナンパに対して強く断れないことを気にしていた。許しを乞うてくる子犬のような瞳や言葉には、確かにわたしだけだと訴えていて、彼の誠実さも伝わってきていたのだ。
 でも、今はもうそれら全ては過去のもの。彼の気持ちは、わたしには向いていないのだ。既にその好きな相手と一緒になっている、とそう言っていた。もう本当、やってられない。

 ジョッキを掴む手に力が入る。表面にできていた水滴がするりと滑った。途中でつっかえることなくすんなりと。わたしに別れを告げた彼も、少しも未練はないとばかりに背を向けて去って行ってしまった。


「………」

 四年、だったのに。二人の先のことを考えていたのは、わたしだけだったようだ。


「いらっしゃい」


 思考がしんみりとし始めた中、マスターの声に慌てて目元をぬぐう。
 いつもは賑わっているこの店に、今日はわたし一人しかいなかった。本来ならもう少し遅い時間からの開店だが、マスターに無理を言ってこうして相手をしてもらっていたのだ。おそらくもうすぐすれば、馴染みの街人たちが顔を出すだろう。


「あー……、店を占領しそうだが大丈夫か?」
「ちゃんと金を払ってくれるなら構わないよ」
「はははっ、こりゃおもしれーオヤジだ」


 店の入口の向かいにあるカウンター。その真ん中に一人さみしく座っているわたしの背後から、多勢の足声と音が聞こえてくる。イスを引き、腰かけ、テーブルに肘をつき、と一つ一つ大きな音。その音に耳を傾けながらも、ぐいっと残りのお酒を煽ると、わたしの右隣からカウンターのイスが引かれる音がした。
 今店に入ってきた集団の誰かが座ったのだろう。もしかしてテーブルが全て埋まってしまったのだろうか。だとすると知らない集団にわたし一人、肩幅の狭い思いをすることになる。
 帰ろうかと思ったけれど、気にせず中身を呑み干したジョッキをカウンターに叩きつけ、忙しなく動き出していたマスターに声をかけた。
 既にいつも飲んでいる量を超えていたため、有り体に言えば酔っぱらっていて他人を気にかける思考はなかった。


「マスターおかわりー! あとおつまみ出してー!」


 けれど、お酒ばかりを胃にすることはあまりない。普段は何か口にしながら飲んでいるから、物足りなくなった。
 けれどそんなわたしの思いとは正反対に、マスターは眉を歪めた。


「飲み過ぎじゃないか。明日も仕事なんだろ」
「えー」


 此処へやって来てから、正確にどのくらいの量のお酒を胃に入れたのか覚えていない。けれどマスターが言うのだからきっと、わたしらしくもなくそれなりに飲んでいるのだろう。
 しかし明日の仕事は閉店までのたった数時間、急用で早上がりをしたいと言った同僚の変わりだ。限られた人間しかできない仕事の穴埋めだから、夕方まで寝ていても何も問題はない。


「だいじょーぶだからあ」
「はァ………」


 酒をよこせ、と空のジョッキをマスターへ向けるとため息が返ってきた。
 酔ってはいるが完全に酔っていない。中途半端な状態のわたしの相手をするのが一番面倒だと、以前友人が口にしていた。
 マスターも今まさにその状態のわたしの相手をしているから、思わず出たため息なのだろう。
 まだわたしが幼かった頃からの顔見知り、街の酒場のおじさん、そんな関係だったからか、店主と客という間柄よりは身近なところがお互いにある。だから他人行儀な遠慮をするほどでもないのだけれど……今のため息は正直グサリときた。
 マスターに迷惑をかけていることは分かっている。同時に心配もしてくれているのだろう。何度か別れた彼を連れて、此処へ飲みに来たこともあるから。

 惨めだなあ……。
 でもどうしても飲みたい。飲んで酔って、お酒にのまれてしまえばいい。そうすれば情けない自分も、悲しみも、苛立ちも、こうなってしまうまで何もしなかった後悔も、酔えば気分が上昇するわたしは何も考えなくてすむ。
 泣きたくない。絶対、泣いてなんかやらない。だからお酒の力が必要なのだ。


「ほれ」
「………?」


 泣くな泣くな、とまるで暗示のように自分に言い聞かせていると、右側からかけられた声。
 いつの間にか俯いていた顔を上げれば、わたしに笑みを向ける男がいた。
 綺麗な深い黒の瞳――。眩しい、と逸した視線の先に、男の手によってわたしの方へと寄せられたジョッキがあった。
 透明のそれには、今にも溢れてこぼれそうなほどにお酒が注がれている。どういうことだと男に視線を戻すと、その男はニコリと笑って言った。


「飲みたいんだろう? なら飲まなきゃ損だ!」


 まぶしい。もう一度思った。まるで子供のように無邪気な笑顔をするものだから、固まってしまう。
 否、中途半端だった酔いも一瞬で冷めて、その笑顔に見とれたのだ。


「あ、あああり、ありが、と……」
「ぶっ、どもりすぎだろう」


 突然のことで思考がついていかない。なんとも不細工な反応をしたわたしに、失礼にも笑い飛ばしてくれた隣の男。
 左目に縦三つ、大きな傷跡がある。痛々しいそれを見て、平常のわたしなら怖いと思っただろう。
 けれど酔っているからか、それともこの男のせいか……おそらくその両方だろう、そんなこと微塵も抱かなかった。

 そう、酔っているからだ。わたしは今、酔っている。だから彼氏にフラれた日に、見ず知らずの男から笑顔を向けられてときめいたのだ。顔が熱いのも、全て酔っているせい。
 渡されたお酒をぐいっと飲む。マスターが「あーあ」と額に手を当てていたのを視界の端に捉えた。
 熱さが喉を通り、胃にまで流し込まれる。


「お、いい飲みっぷりだな!」
「ぷはっ、わたしにかかればこのくらい、なんてことないわよ!」


 何がなんてことないのか、もういろいろといっぱいだというのに。


「お嬢さん、名前は?」
「リーネよオニーサン」


 上機嫌で答えたわたしに、男も満足げに笑って頷いた。
 よく笑う人だ。何か裏があるのでは、という考えも酔っていてはまったく浮かんでこない。
 警戒心を抱くこともなく、先程までの沈んた気持ちもどこかへ消え、わたしはこの男のペースに捕まってしまっていた。


「おれはシャンクスってんだ!」


 だからニカッと笑う彼にときめいたのは、仕方ないだろう。


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