ゆっくりと、意識が浮上していくのがわかる。まだ目覚めたくなくて、寝返りをうち再び寝る体勢を取ろうとした。
 けれど、どうしてだろう。寝返りをうつと何かにぶつかった。顔が何かに埋もれる。
 軽い衝撃に壁にでもぶつかったのかと思ったのだけれど、それにしは固い感触も音もなく――。


「ん、」

 微かな音を耳が拾った。音というか、声だ。
 ああ、彼が泊まりに来ていたのかと、まだ覚醒していない頭で思う。
 ここのところまったく、こんなことはなかった。何しろ彼に会うこと自体なかったのだから当然だ。ということは、ぶつかってしまったのは彼だろう。腰にある程よい重みは彼の腕。抱きしめられている状態だと思うと、自然と彼の温もりにすり寄った。
 こんなにも甘い朝は久しぶりだ。口元が緩んでしまうのは仕方ない。だってなにせ、連絡のつかない日々が続いていたのだから。
 ようやく連絡がつき、さらにそこから会うまでにも随分と日にちを食った。そしてやっと会えたと思ったら――。

 そこまで思い出して、穏やかだった思考が止まる。
 ちょっと待て、わたしは一か月ぶりに会った恋人に、フラれたのではなかったか。知り合いの酒場におしかけて、いわゆるヤケ酒をしていたことは覚えている。
 ハッとして目を開けた。寝起きの瞼は重いし、瞳は乾いているため何度も瞬きを繰り返す。
 白いシャツから覗く、分厚い胸板は知らないものだ。彼はもっと色白で薄かった。慌ててベッドに手をつき起き上がると、広がる赤い髪。

 知らない男が、そこにいた。


「――――うそでしょ……」


 まさに絶句。サァっと血の気が引いていく。反射的に服を確認すると、わたしも男も肌蹴てはいるもののちゃんと着ている。まさか脱がずに……?
 酒に酔っていたのなら考えられなくもない。が、特有のけだるさや身体のいたみがないのだから、おそらく可能性は低いだろう。

 ここは間違いなくわたしの部屋だ。家に上がらせたのもわたしだ、と思う。仲のいい友人でさえ滅多に上げないのに、見ず知らずの男を? うそでしょ、ありえない。頭の中がぐるぐると回る。重い。二日酔いもあるだろうが、原因は主にコチラだろう。どうすればいい。今すぐ起こすか? それとも起きるのを待つか。


「っぷ、」
「!」

 必死に考えを巡らせている中あがった自分以外の声に、大袈裟なほどびっくりした。男を見れば、口元に手を当てて堪え切れていない笑い声が漏れている。

「お、起きてた、の……?」
「ハハハッ、おう。あんたの目が覚める少し前からな」

 ベッドに横になったままわたしを見上げていた赤い髪の男は、ケロリとそう暴露する。つまりわたしが目覚めてから一人あたふたしていた中、狸寝入りをして面白がっていたのか。なんて意地の悪い男だ。
 こちらの気も知らず、男は起き上がると「んがぁー」と変な声を出しながら両腕を天井に向かって伸ばしている。


「あなた呑気ね」
「ん? そういうアンタも、さっきとは打って変わって落ち着いてるな」
「そう見える?」
「あァ。状況を理解し始めてる。言っちまうと、心配していることは何一つ起っちゃいねェよ」
「……何一つ? 酔っていたのに?」
「酔っていたのはアンタだけさ。店で会ったときから、ずっとな」
「店……あ!」

 そう、そうだ。浴びるほどお酒を飲みたい、という欲望のまま、本当に飲んだ。止めようとしてくれていたマスターに不貞腐れていた中、隣に座っていたこの男は飲みたいときは飲め、と勧めてきたのだ。
 沈んだ気分を持ち上げてくれたこの男に、わたしは簡単に懐いた、と言えばいいのか。とにかく話が弾んでいた気がする。よく思い出せないのは、おそらく本当にくだらない内容ばかりだったのだろう。酔っ払いの会話なんてそういうものだ。

 けれど、そう。店を出た記憶がない。家路を歩いた覚えも、鍵を開けて帰宅した覚えも、わたしは覚えていなかった。


「あり得ないわ……途中から記憶がない……」
「そりゃあ、あれだけ飲んでいればな」
「マスターに謝らないと」
「ああ、あのオヤジさんおもしれェな! また邪魔しに行こう」
「……ちょっと、人が頭抱えてるのに横からちゃちゃ入れないでよ」
「あァ、悪いな」
「……」


 絶対に悪いと思ってない言葉だ。
恋人にフラれ、記憶をなくしてしまうほどお酒を飲み、挙句の果てに知らない男を部屋に連れ込んでいたなんて。情けない上に貞操観念が低すぎる。自棄になったどうしようもない女だと思われても仕方のない事案だ。
そもそも、いくらべろんべろんに酔っている女がいたとして、無償で家まで送ろうとする人間がいるだろうか。どうせ相手は酔って記憶も定かではない非力な女なのだから、好き勝手できるのに善意だけで出来る行動なわけがない。
 この男の言葉が真実であれば、わたしたちは酔っていて同じベッドに上がったにも関わらず、男女の事柄が一切なかったという。彼がわたしに手を出す気も起きなかったのであればまあ、あり得なくはない。
 いや、決して何かあったのかと期待しているわけではないけれど、むしろ本当になかったのであれば安心できるのだが……とにかくこの心境を察してほしい。


「で、お嬢さんはどこまで記憶があるんだ?」
「お嬢さんだなんて言い方はやめて」
「おっとこりゃ失礼。おれのことは覚えてるか?」
「隣の席で飲んでいたのは……まあ」
「ハハ、そうか。なら二度目の自己紹介でもしておくか?」
「……ええ、お願いするわ」


 頭を抱えるわたしとは正反対に、男は能天気にも「腹が減ったなァ」なんて言いながら話しかけてきた。
 少し日に焼けた健康的な肌に、左目を走る大きな三つの傷跡はこの男が堅気ではないと思える要素の一つ。正直、だからこそ何もなかったと言う男の言葉を信じ切っていない。
だというのに、少し寝ぐせのついた赤い髪をガシガシと触りながら屈託のない表情で問いかけてくる様は、そんなことはないと告げている。
 なんて卑怯な。わたしはそういう人物をよく知っている。なにせ四年もの間、曲がりなりにも恋人として一緒に過ごしてきた相手が、そうだったのだから。


「シャンクスだ、リーネ」
「……覚えていてくれてどうも、シャンクス」


 少し嫌味を込めて返したのに、グゥと気の抜ける腹の音が響いて思わずジト目を向けてしまう。それでも男――シャンクスはヘラリと気の抜ける笑みを浮かべている。能天気なのかしら。

「何か作るわ。なんでもいい?」
「おう」

 今すぐ記憶のない部分の失態を知るには頭が痛い。落ち着いてからのほうが身体的にも整っていいだろう。
 ベッドから落りてドアへ向かったところで、不意に腕を掴まれて後ろへ引っ張られた。軽い力にも関わらずあっさりとベッドへと逆戻りしたわたしの背後に人の気配。ピタリと背中に感じる体温と、お腹に回されている逞しい腕の正体なんて、言うまでもない。


「ちょっと、どういうつもりよ。わたしと貴方なんにもなかったのよね?」
「一晩を共にした素性も知らない男相手に、そう簡単になんでもするもんじゃないぞ」
「……なら今すぐ追い出したほうがいいのかしら」


 忙しなく打つ鼓動を押し込めて、不機嫌そうに聞こえるよう努める。
 何一つなかったと言いながらこんなことをするなんて矛盾している。からかい交じりに忠告されてるんだろうけど、質が悪い。


「もう少し自分が女だっていうのを自覚するこった」
「そうね。肝に銘じておくわ」

 とりあえずシャンクスにわたしをどうこうする気がないのは分かる。動きを封じている浅黒い腕をつねればあっさりと解放された。
 今度こそしっかりと立ち上がり顔だけ振り返ると「すまんすまん」となんとも心のこもっていない謝罪をもらった。






「なんにも覚えてないわ……」
「ま、あれだけ酔ってればなァ」

 朝食の後、コーヒーを淹れて一服しつつ昨夜のことを教えてもらった。限界までお酒を飲んだことがなかっただけに、シャンクスの口から語られる酔っ払ったわたしの言動に穴があったら入りたい。
 泣いたり笑ったりならまだいい。あの店に居た見知らぬ人たちにまで絡み酒をしていたらしい。


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