泥濘の逆転(中)


チャイムの音が万丈目の頭の中で壊れた拡声器のようにわんわん響く。寝起きで意識と肉体が上手に繋がっておらず、体が思うように動かない。そして肩が水の入ったバケツをぶら下げられているかのようにずっしりと重い。脳みそがまだ夢の世界と現実の世界とで混雑しているが変な夢も見ていた気がする。鼻から抜ける息に唸るような声が混じった。万丈目は観念したようにゆっくりと目蓋を開き、背筋を伸ばした。
「ん、」
ぐぐと天井に向けて腕を伸ばし、身体全体の筋を伸ばす。パキパキと小気味良い骨の弾ける音がする。やはり肩に違和感が残っており首を左右に曲げると、何かが万丈目の腹に落ちてきた。ずるずると制服の布で摩擦をかけながら、大きいようで小さく、固いようで柔らかく、いい匂いがするものが万丈目の身体に触れている。ぼうっとした頭で一体なにが置いてあるのか確認しようと、手を置いた。まだ誰にも使われていないホテルのシーツのようにさらさらでひんやりとしている。手を左右に動かし、撫でるように確かめると糸のように解け万丈目の指に絡まった。つやつやと光沢が出ている刺繍糸のようなそれは髪の毛なのだろうと万丈目の頭はぼんやりと認識をした。髪の毛をそのまま梳いてると、桃色で柔らかい頬が現れる。閉じられた睫毛もしっかりとした光沢があってうっとりしてしまうほど長い。鼻も小さな子供が指で粘土を摘み上げたように小柄で可愛らしい。万丈目は子猫を愛でるように優しい手つきでその頬を手の甲で撫でた。いつも王のように振舞っている威圧的な表情は一切ない。
意図せず万丈目から「ふふ」と笑みが零れた。いや何が「ふふ」だ。突如として万丈目の脳が覚醒した。目が見開かれ、カッとした稲妻が奔る。誰だこの女は。見ようでは万丈目が膝枕をしているような状況にどっと額に冷や汗が湧く。あまり触れないようにするべく、椅子のうしろに手をついて体をぐっと反らせ距離をとった。しかしその際にむにっと柔らかい何かを軽く手で押し潰した感覚が走る。反射的に「わ」と頓狂な声が出て、弾かれるように手を退けた。あまり動かず首だけ捻って確認すると膝で寝ている女の手らしい。どこへ体をずらそうとも女の領域に踏み込んでしまい、万丈目の体温がふつふつと上昇していく。頬も火照り始め、息も上がって肩で呼吸をするのがやっとである。どんなにデュエルで境地に立たされようともこんなに思考が泥濘に嵌まったことはない。
万丈目は徐に女の顔をきちんと確かめてみようと、なるべく肌に触れないように人差し指で顔にかかっている一房の髪を恐る恐る退ける。ガラス細工を扱うように繊細に。女の顔が現れて思わず万丈目は生唾を飲んだ。すーすーと寝息を立てて安らかに女は眠っていた。万丈目は何故か見てはいけないものを見ているような気分になって、顔をさっと背けた。
▲▲●●。万丈目はこの女を知っている。同じオベリスクブルー寮の同級生。デュエルに関してはそんな卓越したものは感じられず、至って普通のデュエルをする印象で特に記憶に残るような存在ではなかった。しかし最近よく話すようになったな、と万丈目はぼんやりと窓の外を見ながら●●とのやり取りを思い起こす。十代に負け、取り巻きたちが居なくなってからの最近が顕著に変わった。
何気なく「おはよう」と言われた時の●●の顔が浮かぶ。たまたま廊下で鉢合わせてしまった時や席が近くになった特に●●はよく当たり前のように挨拶をしてくる。友人に話すように「宿題やってきた?」と尋ねられ、万丈目は「ああ」と短く返す。いつもその程度の会話だ。話を広げることもなく会話というにはあまりにも味気ない。けれど孤独な万丈目の心の平穏を保つ要素のひとつになっていたことは確かであった。一度の敗北でこんなにも周りの態度が変わるものなのかと万丈目は天井を仰ぐ。
「何が未来のデュエルキングだ。」
取り巻きたちが事あるごとにそう自分を持ち上げていたことを万丈目は思い出し、この状況とは別の意味で体温が上がった。一度も敗北が許されないというのはわかっていたがあまりにも。万丈目は俯いて、己を戒めるように深い溜息を吐いた。俯いた先には相変わらず赤子のようになんの悩みもなくただ眠っているだけの●●が居る。ふとこのまま自分が立ち上がればどうなるのか、と不毛なことを考える。きっと枕としている万丈目の膝がなくなり、机の下にごろんと俵のように転がっていくのだろう。その様子を想像して万丈目はにやりと口角を上げた。だがそうしないのはこの俺様の慈悲深さのおかげだぞ。そう言いたげに●●の前髪を払い「いい身分だな」と愚痴を落とした。
「早く起きろ。」
言葉とは裏腹に小さく呟く。●●からの反応はない。黒板の上に設置してある時計を見るともう次の授業が始まっている時間だ。しかし席を強制的に変えられ端になった今、そんな環境で授業を受けたところで脳に入るとは思えない。だったらこのまま●●と二人で。万丈目は己の思考に心底驚き、羞恥を火山のように噴火させた。あくまでも●●は学友にしかすぎないはずだ。一瞬ではあるが●●とコイビトのような関係になったでろう映像が万丈目の脳内に流れた。膝ではなく自分の肩を●●に貸しているシーンだ。そんなことはないとぶんぶんと頭を横に振って愚かな自分の妄想をかき消す。どうせであれば、とオベリスクブルーの女王である明日香の姿を想像した。相変わらず自分の脳内でも百合の花のように美しく凛としている。しかし小さな違和感の電流が万丈目の胸を突き抜けた。決して気持ちの良いものではない、もやもやとした雨雲のような感情を覚え、眉間に皺が寄った。
一喜一憂しているのが自分だけなのだろうと思うと万丈目の感情がさらに複雑になる。その時、●●が微かに蠢いた。鼻から抜ける息に唸るような声が混じった。起きるのかと万丈目は思い、少し身体を横に逸らせ肘を机につき、起き上がるのを待った。

(下)



花束