空白の第一希望(中)
窓際に万丈目が大袈裟に座った。万丈目の気遣いと顔が良い男であることを認識してしまい、せっかくだからと●●はその万丈目から向かい合うような形で斜め前の廊下側の席に座った。ドアの前であった些細なやりとりのせいか、決まりの悪そうな顔をして万丈目は窓から外を見ていた。外を見つめる万丈目の漆黒の瞳が、蛍光灯の無機質な白い光を受けて光沢が出ている。外は分厚い雨のカーテンにさえぎられて見えない。
「進路、決めるの難しいよね。」
「ああ。」
●●は何か話題がないかと口を開いた。
「万丈目くんはお家の、その、あれじゃないの?」
「だから万丈目“さん”だ。兄さん達がいるから、俺は、いいんだ。」
泳いでいる時の息継ぎに失敗したように苦しそうに万丈目は言った。万丈目の口から出た兄という単語で幾度かアカデミアに来ていたスーツ姿の二人組の男を●●は思い浮かべた。だいぶ前にこの学園を賭けてデュエルをしていたような。随分と威圧的な存在に見えていたが、兄弟の万丈目から見てもきっとそうなのだろうと●●はなんとく万丈目の横顔から理解した。
「き、いや、お前は、▲▲は何か決めているのか?」
外を見ていた万丈目がいつの間にか●●へと顔を向け、真っ直ぐと見ていた。黒真珠のように真っ黒な瞳が外の雨雲によく映えて綺麗に見えた。そして、きっと貴様と言いかかったところでお前と言い直し、最終的に名字呼びになったことがなんとなく嬉しく、●●からは微笑みが漏れた。
更に興味が湧いた。万丈目こそ兄たちのように威圧的で、他者を見下すエリート思考の持ち主であったはずなのに、何故今はこんなにも句読点に小さく挟む優しさがあるのか。先ほどのドアのことでもそう感じる。きっと彼も一人で書きたいと思ったから、こんな誰も使っていないだろう講義室を選んだに違いない。なのにどうして受け入れてくれたのか。もしかしたら万丈目の閾値は低いのではないか。
「もしよかったら、●●、って呼んで。」
万丈目の優しさに付け込んで、手始めに●●は自分の名前を呼んでもらえるのか試みてみた。自分の質問への返答になっていない●●の言葉に万丈目は眉をひそめる。しかしすぐに唇は独り言を言いかけて止めたみたいにぴくりと動き出した。だんだんと万丈目の顔が赤く染まっていくところを観察していると、バッと顔をそむけた。また見えない何かを振り払うように手を回し「うるさい」「照れてなどいない」「やめんか」と大きな独り言が講義室に静かに響いた。どうやら●●の読みは当たっているらしい。
「照れてるの?」
「だから!照れてなどいない!」
万丈目の胸の中を突如として、得体のしれない不可解な感情の稲妻が通り過ぎた。それは万丈目の記憶の底から鋭く上がって来て、今の万丈目では防ぐことができない威力を発揮していた。窓を叩き付けるようなばたばたという音がまるで自分の心臓からも聞こえてくるように感じる。ふと●●を見ると謎の微笑を唇の漂わせていた。
「なに?」
万丈目の視線に気付いた●●は小さく笑った。その表情にすら今の万丈目のライフを削るのには十分すぎた。
「何でもない。」
逸らした目線の行き場所がなくなり、万丈目はまた窓を見た。煩わしいカラフルな光が三体ほど顔の周りを旋回している。その光たちが何か言っているが万丈目の耳には雑音としか聞こえない。外はますます強くなる風が雨粒を交えて低い唸り声を上げ、講義室の窓にぶつかっていく。窓の外のどこか遠くの方で雷の閃光が走り、低く轟くのが聞こえた。
「雷すごいね。」
「ああ。」
「停電とかしないかな?」
「まあ、そうだな。」
「ねえねえ、万丈目さん。」
「だから"さん"を、あ、いや、なんだ?」
「停電したら怖いから隣に行っていい?」
「ああ。…え!?」
流れるように続いた会話の中で●●は驚きべき提案を入れていた。万丈目の顔には恥じらいの色が溢れている。●●はしっかりとその色を確認しこれ見よがしにすぐに席を立ち、滑るように速く万丈目の隣へと座った。進路調査表などはもうどうでもよくただ万丈目の表情が変わるのがただただ見たかった。万丈目の手元の進路調査表は、汗ばむ万丈目の手を皺となって事細やかに●●に伝えている。隣に座った●●が万丈目の顔を見る。万丈目も●●の顔を見た。ばちりとした稲妻が奔る。薄っすらと弧を描く●●の唇は花びらのように見えた。雨の日特有の建物を濡らすじめじめとした臭いとは別に、薄っすらと花のような匂いを万丈目は感じる。鼻翼をくすぐる匂いは●●が纏っている香水なのか制服から薫る柔軟剤なのか、はたまた●●自身の匂いなのか思考が過電流してショートしている万丈目には判断がつかなかった。
(下)