青天の霹靂。この故事成語は、よく晴れた日に突如雷が鳴るという例えから、予想だにしない出来事のことを指すそうだ。
 誰だって、未来を知ることはできない。天気予報で明日は晴れだと教えられても、そこに絶対に晴れる確証はない。いくら真面目にコツコツと受験対策をし、実際に受けた試験の手応えが完璧だったとしても、結果が気になってしまう。
 ただ、予想や予測をすることはできる。天気予報の存在が世間に認められているのは、人々が予測結果にある程度の信頼を寄せているからで、合否が分からない試験を人間が受けるのは、記念受験はさておき、大体が根拠に基づいて合格を予想しているからである。
 そして予想が外れると、人間は予想だにしない出来事――青天の霹靂――に直面することになるのだ。
 わたしは予想していた。彼とは、きっとずっと一緒にいるのだろう、と。最早、彼といるのが当たり前になっていたから、予想していたかどうかも分からない。しかし、蝉が煩く泣き始めた初夏の、見渡す限り真っ青に染まった空が美しかったその日、今日は一日晴れるだろうなと呑気に予想していたわたしの脳に、突然、稲妻が走った。


 ・・・


「別れよう」
「…………」

 わたしは耳を疑った。彼は今、何と言ったのか。などと思いつつも、既に心には致命傷となり得る刺し傷が作られていた。恋人からの急な一突きに声も出せず、わたしはただ呆然と立ち竦む。
――どういうこと? 突然どうしたの? 何があったの?
 次々と疑問符は脳内に浮かび上がってくるのに、それらを掬って口に出すという単純な作業ができない。浮かんでくる言葉たちは何てことのない、ただの疑問なのに、上手く声に載せることが、できない。結局どうすることもできず、焦点も碌に合わせられないまま、わたしは彼の顔を見つめた。

「別れてほしい」

 彼はもう一度、静かに声を放った。それはもう、わたしに逃げるなとでも言うかのような、力強く圧のかかった声だった。
 出来ることなら、わたしはその言葉の意味を理解したくなかった。今すぐここから逃げ出すか、彼がドッキリだと言うかして、この話題を終わらせたかった。けれども彼の声を聞き、彼の表情を見たところで、彼の言葉から逃げることは叶わないのだと悟った――彼が、真剣だったから。
 向き合わざるを得ないということがこんなにも嫌で苦しい日は、もう二度とやって来ないだろう。そんな皮肉を吐きつつも、わたしは重い腰を漸く上げようと心を決め――かけていたのに、彼は無情にも止めを刺そうと言葉を重ねてくる。

「勝手なのは分かってる。けど俺、アリスちゃんのこと――」
「言わないで!」

 わたしは咄嗟に叫んで彼の言葉を遮った。自分で遮っておきながら、急にかなりの音量が鼓膜に響いたものだから、さっきまで声を出せなかったのによくこんなにも発声できたものだ、と変に冷静な思考が頭を過ぎる。
 けれどもわたしは、彼の紡ごうとした言葉が何なのか、それがどのような声音で発せられるのか、まるで未来でも視えたかのようにハッキリと予想できてしまったのだ。そしてその言葉だけは、どうしても彼の口からは聞きたくなかった。ただでさえ心が傷だらけなのに、彼から先の言葉を聞いたが最後、僅かばかりの恋人としての矜持までボロボロに崩れてしまうと分かっていたから――彼が愛してくれた自分への誇らしさまで。

「分かってる……分かってるから」

 今日の自分は声質の変化がかなり激しいらしい。先の大声とは打って変わり、喉で音が渋滞してしまったのを何とか絞り出すような、そんな声しか、出なくなってしまった。それでもわたしは、例えみっともなく聞こえるのだとしても、声を出さずにはいられなかった――こんな一方的な提案、あんまりだ。

「お願い……考え、直して」

 どうかこの思いよ伝われと、彼の普段使いである綿100%のシャツの裾に、わたしは静かに両手を伸ばし、きゅっと握り締める。すると、こんなときでも彼の、石鹸のような優しい匂いは鼻をついついと突いてきて、わたしは嬉しいだか悲しいだか、もう何が何だかよく分からなくなってしまった。涙が自然と込み上げてくる。
 何にせよ、これがわたしの最後の抵抗だ。もうこれ以上何かを仕掛ける余裕は、わたしにはない。
 しかし、彼に想いが届くことはなかった。

「ごめん。もう決めたことなんだ」

 どこか虚ろな瞳が、寂しそうに下げられた眉が、もしや彼の本音ではないかと勘違いしそうになったが、しかし意志を含んだその声は、確かに彼の決意の変わらぬことを物語っていた。
 ああ、チェックメイト……降参だ。
 いや、分かってはいた。そう、分かってはいたのだ。実は、遅かれ早かれこうなるだろう、とわたしは予想していた。そう遠くない未来に、彼とは別れることになる、と。
 ただ、予想していたにも関わらず、そのような道を予め考え、わたしに提示してくる自分自身を見たくないが一心で、わたしは半ば信じ込みに頼る形で、これからも彼との日々が続いていくと予想していたのだ。意気地なしという言葉は正にわたしのような人間を指すに相違ない。

「……あはは。いいよ、分かった、別れよう」

 笑いは乾いてしまったし、彼の目を見ることもできなかったけれど、降参したお陰か、承諾の言葉は特に平静を装うことなく、口を衝いて出てきてくれた。彼に別れを告げる勇気がなかったわたしにとって、別れ際に少しでも凛としていられることは、せめてもの救いだった。

  


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