彼は少しホッとしたように目尻を下げる。わたしの物分かりが良くて助かったということだろうか――それ程までに、彼も彼女を愛してしまったのか。
 いや、もう良い。もう良いのだ。わたしはよくやった……もう、良い。

「今までありがとう」

 彼は優しく笑った。
 そうだ、わたしも最後くらい、美しく飾って、散ろう。

「こちらこそ、ありがとう」

 優しく出来たかは分からないけれど、随分と心が凪いだ状態で、わたしも笑った。すると、彼は驚きで目を見開いた。そんなにも美しく笑えたのかと呑気に思考する傍ら、彼の瞳の奥に、寂しがり屋な彼が囚われているのを、わたしは確かに見た。けれどもそれを指摘することは、元恋人であるわたしに出来ることではなかった。

「さようなら」

 ああ――わたしはもう、振り返らない。





 事の発端は二ヶ月ほど前、彼が彼女と初めて出会ったあの日にまで遡る。
 新緑から深緑へ木々が深みを強める五月の末頃。わたしは彼と、午前から渋谷のセントラル街でデートをしていた。特別なことは何もないのに、なるべく早く会いたいからという理由で、わたしたちは午前から渋谷を散策していたのだ。
 普通に、どこにでもいそうな恋人同士だったと思う。仲は至って良好で、お互いに幸せだった。手を繋いで、行きたいところに行って、したいことをして、笑い合う。この幸せが当たり前のように続くと思っていた。
 しかし残酷にも、彼と彼女は出会ってしまう。


 ・・・


 太陽が上り切った正午過ぎ、「そろそろ昼食にしようか」という彼からの提案を採用し、わたしたちはスマホを使って近くのお店を調べていた。
 すると突然、ピコン、と彼のスマホから音が鳴った。

「イベントサジェスチョンです。『渋谷705』前で柊アリスさんのイベントが開催されています」

 聞き慣れない声が聞こえて、わたしは思わず首を傾げる。

「何それ?」
「ん? このアプリ? EMMAっていうAIのコンシェルジュアプリだよ」

 彼は笑顔を浮かべながら、こちらにスマホの画面を見せてくれた。そこには「EMMA」という文字とインターネットのロゴのようなデザインが映っている。

「さっきみたいに近くのイベントとかお店とか、俺の好みに合わせて提案してくれるんだ」
「へえ……AIも発展してるんだね」
「確かに」彼はニカッと笑った。
「……あ、せっかくだし、ご飯の前にイベント見に行ってみる?」

 思い返せば、どうやらここが運命の分かれ目だったようだ。もし事前に未来を知れたとしたら――いや、このような考えは止そう。たらればを語ったところで、何も変わりはしないのだから。
 彼はさり気なく問いかけたつもりだったようだけれど、その顔には興味津々で堪らないと書いてあった。恐らく彼女のファンなのだろう。単純なわたしは、彼の長所ともいうべき素直さにくすっと笑い、頷いた。

「いいね、行ってみよう」

 わたしは彼に右手を差し出し、彼はその手を左手で掬い取る。そして、どちらからともなく握り締めた。





 EMMAに勧められ、彼に誘われてやってきたイベントの主役は、柊アリスという女性だった。彼の話によれば、彼女は現在、若者から徐々に支持を得てきている注目のモデルらしい。そして、何でも今日は彼女の初シングルとなる「まかろんきゃのん」という楽曲を披露する予定だそうだ。歌手デビューもしてしまうなんて、余程の人気と才能があるのだろう。わたしはほう、と感心した。
 そして、どうやらわたしの先の予想通り、彼は彼女のファンであるようだ。別に隠すようなことでもあるまいに。そう思ったけれど、もしかしたら彼の愛情が表れた結果かもしれないという考えが浮かび、わたしは勝手に合点する。嬉しくてこっそりにやついていたことは、彼には秘密だ。
 しかしまあ、実際にこの目で見ると、彼から聞いた話よりも、彼女は随分と可愛らしい女性だった。ミント色の髪は二束に分けられてぐるぐる巻きにされ、そこに「不思議の国のアリス」を連想させるティーポットやお茶菓子、スペードのエースのトランプの髪飾りが付けられている。更には水色ストライプの大きなリボン(のカチューシャだろうか)も付けられていて、それはこれでもかというほどの存在感をこちらに醸し出してくる。無論、衣装もモチーフは「不思議の国のアリス」で、彼女は青と白を基調としたフリルのワンピースを違和感なく着こなしていた。
 わたしという至って普通の人間にはなり得ないような可愛らしい出で立ちを、彼女は最大限に活かして舞台に立っている。周囲にいる人は皆、彼女に釘付けで、あちらこちらから彼女を呼ぶ声が聞こえた。皆、まるで恋でもしているかのように盲目的だった。
 中でも特に驚いたのが、「アリスちゃんのために彼女と別れた! だから付き合ってくれー!」という叫び声が聞こえたことだった。しかも彼女の歌唱中に。
 芸能人に恋をするというのは、何も珍しいことではない。ただ、それは叶わないことを承知の上に成り立つものといっていい。なのに、恋が叶うという方向に予想の駒を進めてしまったのか、彼は恋人と別れてしまったらしい。如何に盲目なことか。

「俺と結婚してくれー!」
「お前なんかにアリスは譲らねえ! アリスは俺のもんだ!」

 わたしが思慮を巡らせているうちに、何やら揉め事に発展してしまったらしい。あちこちの男性が、同じようなことをぎゃあぎゃあと叫んで争っている。
 わたしは不思議に思った。もし彼らが柊アリスを愛するが余りに恋人と別れるような人たちなら、どうしてもアリス至上主義者になっていそうなものだ。しかし彼らは彼女の歌手デビューを喜ぶどころか、邪魔してしまっている。何故だろう。それでいいのだろうか? 果たしてそれで、彼女のファンを語れるのだろうか。
 わたしは彼らの態度が怖くなり、思わず彼の袖をギュッと掴んだ。

「楓?」

 彼は不思議そうにこちらの顔を覗いた。そして、きっとわたしの思うことが理解できたのだろう、すぐさま苦笑いを浮かべる。

「あの人たちか」

 どうやら彼もあの人たちを認知してはいたようだ。「ちょっとだけ待ってて」とだけわたしに言い残すと、彼は躊躇なく争いの輪の中に飛び込んでいってしまった。
 何も言えなかったわたしは、それを茫然と見送る。この様子を彼女が見ていたことにも気付かないまま。

  


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