ときを廻れば

序章 変わりゆく

弱虫。それは単純明快にわたしを表現できる言葉。
 臆病。それはわたしの心身が抱える悩みの種。
 仮面。それはわたしが生きるための大切な道具であり、何よりも自身の汚れを証明するものである。
 わたしは汚い。この世に生を受けてからまだ十五年しか経っていないのに、もう嘘をつくことに快感を覚え始めている。人を、自らをも騙してしまう弱い心を許してしまっている。
 思春期故に性に興味を持つことはあってもいいだろうが、「嘘つきは泥棒の始まり」というように、真実を隠すことや虚実を見せることは決して良くない。
 そう、良くないのだ。ただ、良くないことと判っていながら、わたしはさも当然のように仮面を身に着け、わざと真実の目から遠ざかっているのである。
 自身が汚れ切ってしまうのも時間の問題だろうなあという、諦めにも似た不安が、今わたしの心の海にはぐるぐると渦巻いている。
 しかし、心が蝕まれていくのを、わたしは拒むことが出来ない。寧ろ受け入れてしまうのである。そんな自分の精神状態は、果たして正常といえるだろうか。
 わたしだけが、若くして何枚もの仮面を着けている、なんてことはないだろう。しかし「自分を演じる」快感は、この心すら欺いて麻痺させ、自身が特別な存在であるように思わせる。わたしだけが嘘つきであるように思わせるのだ。
 そうして、わたしは自らを快楽に溺れさせるのだろう――わたしは穢れている。
 そのようなことを考えながら、わたしは父の運転する軽自動車の後部座席に座っていた。
 雨や塵で少し汚れた硝子窓。その向こうで、灰色に濁った曇り空と、寂れた町並みが静かに哀愁を漂わせている――もう見慣れた風景である。しかし何故だろう、普段ならば眺めるだけで過ぎてしまうそれが、今日はわたしの心をもの悲しさに染めた。
 けれどもわたしの癖が変わることはない。わたしはもう一度、あるものへと目を向けた。

「お父さん」
「ん?」
「窓、汚れてるよ」

 そう、窓だ。否、窓の汚れだ。わたしはそれが気になってしまうのである。理由はきっと、それを自身の穢れのように感じるからだろう。汚れは何処にでも潜んでいるが、窓だと特にくっきりはっきりと見えてしまう。わたしはそれが嫌なのだと思う。
 取り敢えず、わたしはミラー越しに目が合った父に「ほら」と窓を見るように促した。けれども父はわたしの催促を完全に無視し、驚いたような、それでいて安心したような表情をわたしに向けた。父のそのような顔を、わたしは生まれてこの方、一度も見たことがなかった。よって当然、わたしは父の新たな一面に困惑した――父の様子がおかしい、と。

「……どうしたの?」

 わたしは思わず父に問うていた。何か嫌な予感がしたのだ。しかしわたしの心配も虚しく、平静を取り戻した父は「何でもない」と首を横に振ると、わたしから目を離してしまった。
 窓を見つめる父の顔に、もうあの表情は残っていなかった。ああ、父はわたしに何を伝えたかったのだろう。

「……確かに汚れてるな」

 芯の通った低い声が静かな車内に響く。わたしの胸中を知ってか知らずか、その声は『さっきのことは水に流せ』と言っている気がした。
 父は意地悪である。このように言われたら、わたしは父の異変に気付かぬ振りをするしかなくなってしまうのだから。

「……でしょ。洗いに行かないの?」

 わたしはミラーに映る父へ『洗いに行こうよ』と目で訴えた。そうすれば、やはり父はわたしの目をちらっと見遣り、一瞬だけ面倒臭そうに顔を歪ませる――良かった。いつも通りだ。

「……はいはい。分かったよ」

 若干呆れ口調ではあるけれども結局は了承してくれるのだって、いつもと何ら変わりなかった。もしかしたら先程の異変はわたしの勘違いだったのかもしれない。わたしは平生の優しい父に少なからず安堵を覚え、小さく笑った。父もわたしの笑顔を見て安心したのか、柔らかい表情を浮かべている。

「まあ、丁度近くにガソリンスタンドあるし、行くか」
「うん、行こう」

 そう言ってわたしと父が互いにミラーから目を離した瞬間、先程まで赤く光っていた信号機が、何かの始まりを告げるようにその色を変 えた。父のアクセルを踏む音と、車のエンジン音は変に混ざり合い、何処となく寂しいわたしたちの町にとけ込んでいった。


 わたしたちは車内で少ししか会話をしない。何故なら、父が運転に集中しているのを邪魔しないように、わたしが黙って外の景色を眺めているからである。しかしわたしたちの絆は決して脆くない。寧ろ強固といえる。わたしたちは互いを大事に思うからこそ、沈黙を暗黙の了解としたのだ――けれども。

「なあ、琴音」

 父が突然、わたしの名前を呼んだ。
 先程も思ったが、やはり今日の父は異様だ。いつもより喋るし、いつもより表情の変化が分かりやすい。鏡に映る父の顔は真剣で、瞳には決意の色が見られた。そして、やはりその表情でさえ、わたしは今までに一度も見たことがなかった。
 わたしは父に対する新たな発見を喜びつつも、「父がこれまで私に幾つかの面を見せてくれていなかった」という事実に悲しくなった。そのせいで訝しげに聞き返してしまう。

「……なに?」

 わたしは心の中で唱えた。父を信じられない娘なんて、と。

「あ、いや……その……」

 しかしながら、この胸の重たくなるような感情をどうにかして心から取り除きたいのに、父が何かを言いあぐねる様と、目を泳がすのを見たせいで、そのような願いは露と消えてしまった。父への疑念がどんどん膨れ上がっていく。いよいよ耐え切れなくなって、わたしは思わず俯いた。すると、父は負の感情に苛まれたわたしの心境を悟ったのか、「琴音、ごめんな」と優しく呟いた。
 謝罪の意味が、わたしには分かるようで分からなかった。

「何で? 何でお父さんが謝るの?」

 少し不意を食らわされた気分になりつつ、顔を上げて父に理由を乞うたが、父はまるで発言を拒むかのように顔を歪ませ、閉口した。その表情は余りにも悲しくて辛いもので、わたしに父を疑う余裕は最早なかった。
 暫くの間、わたしたちは互いに沈黙を貫いていた。しかし、いつものように父の優しい声が、遂にそれを破った。

「お前に伝えなければならないことがあるんだ」

 緊張入り混じる静寂に包まれた車内に、わたしの固唾を呑む音と、ガソリンスタンドスタッフの呑気に呼び込む声が、平行して響いた。

前座、それはすべてのはじまり

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