傷口は舐めないで

 メアンは青薔薇模様のティーカップを片手に持ってククールの隣、つまり右側の丸椅子に座った。そこは彼女の特等席だった。何故なら、ククールと再会するまで不安だった心を、母から父の話を聞く以外に、そこに座って過ぎ去りし日々を思い巡らすことで落ち着かせることができたからである。
 しかし幼い頃はメアンとククールが座っても広々と陣取れた机が、今はとても窮屈に感じられた。触れ合いそうで触れ合わない二人の肩は、まるで二人の関係を表現しているようだった。昔は確かに純粋に仲が良かったのに、今は離れた時間が長過ぎたせいか、そのときの距離感を再現できていないのだ。だからといって二人の心の距離が遠過ぎるということはなく、寧ろ逆に急接近しているといってよかった。
 メアンは長い沈黙と、間近に感じるククールの存在と、彼に心奪われた自らに耐えるようにカップに口をつけ、未だに清々しい香りを放つカモミールティーをゴクリ、と飲み込んだ。途端に口内に広がったカモミール特有の優しい味わいに、彼女の心も幾許か凪いだ気がした。
 ククールもメアンに倣ってカモミールの紅茶を上品に口に含んだ。少々吟味してから、静かにそれを飲み込む。新鮮な茶葉を使っているからか、後味さっぱりと、香りも鼻から抜けていった。一口でここまで美味しい飲み物は彼史上、これが初めてだった。

「美味い。メアン、お前……凄いな」

 沈黙の中からやっと言葉を紡ぎ出したのはククールだった。メアンは自分の想い人から褒められたことで、先程の緊張などとうに何処か遠くへ飛んでいってしまって、ただニコニコと満面に笑みを浮かべた。

「ありがとう。でも沢山練習したから、当然といえば当然よ。まあ、でもそうよね。場数を踏めば、人って大抵何でもできちゃうのよね」

 いつもより饒舌に人を語るメアンの表情には、やはり喜びや幸せが見え隠れしていた。
 正直にいうと、メアンは自分の言ったことなんて全く重要だと思っていなかった。こんな考えは一般論だからククールもそう思っているに違いない、と思い込んでいた。けれども彼は違った。

「……何でもできたら、どんなに良いだろうな」
「――え?」

 メアンは思わずククールに目を向けた。それは、ククールの台詞が聞こえなかったからではない。意味が分からなかったからでもない。ただ彼の声音に「何かを成し遂げたくても叶わない」、「努力が報われないこの苦しみから解放されたい、しかしやはり叶わない」――彼の何もかも、今の彼の全てが丸ごと込められていたからだ。
 メアンはククールのなんとも形容し難い表情に、暫し言葉を失った。舞い上がった鳥が落雷に叩き落されるように、彼女はいきなり現実へと引き戻された。遣る瀬ない気持ちとはこういうものなのだと、身を以って思い知ったのである。そして、いよいよメアンは察した。今、ククールの中で何かが彼を苦しませているということを。

「……ククール、お願いよ。私に全てを教えて」

 メアンはククールを悲しませる元凶にある種の憤怒を覚えつつ、堪えるようにククールに訴えた。彼は何も言わず、ただ一つ頷くと、その重たい口を静かに開い いた。





 ククールは自身に抑え込んでいた全てをありのままに吐き出した。それはとても綺麗とはいい難い、深い激情の渦だった――何故、自分だけが。メアンが隣で聞いているからといって、強がって綺麗な言葉に収めるような、逆に無粋となることはしなかった。
 メアンはククールが元々感情豊かな人だということを知っていたが、彼がここまで複雑な感情に揺れ動かされているのを見るのは初めてだった。彼女の驚きの表情からして、もしかしたら彼との距離を感じたこともあったかもしれない。しかしそれでも彼女の中には明るい感情があった。それは、彼が本音を聞かせてくれたことへの喜びだった。
 メアンは先程のハグとは違ってきちんとククールを意識しながら、なるべく穏やかに、優しく、そっと彼の頭を撫でた。

「ククール……辛かったわね。話してくれて、ありがとう」

 ククールは一瞬、彼女が誰か分からなくなった。友人のようにも、恋人のようにも、母親のようにも、女神のようにも錯覚した。しかし、その優しい声、その優しい手、その優しい表情。やはり、彼女はメアンだった。
 彼は、すっと胸のつかえがとれたような、心の枷が外れたような、明らかに良い感情が彼自身に生まれているのを知った。再会して暫くも経っていない彼女に対して、いつも接する女性たちとは何か違う印象を持っていることに気付いた。

「……メアンは優しすぎるんだよ」

 ククールは寧ろ怒りさえ込めてそう言ったが、口角が上がっているのだけはどうしても隠し通せなかった。だから苦肉の策として、彼は静かに俯いていた。どうかバレてくれるなと、半ば祈りつつ。何故に彼がメアンに喜んでいることを知られたくなかったのかというと、それは、彼女に知られることで彼があることに気付いてしまいそうだったからである。
 ククールは伊達に女性と関係を築いてこなかった。だからメアンが彼に恋をしていることを、ククールは薄々だが感じ取っていたのだ。そして、彼はそれが――彼女に想いを寄せられることが――全く嫌でなかった。つまり、彼は徐々に彼女に惹かれつつあったのだ。
 それもそうだ。メアンは本当に花の妖精のように可憐で、また美しくなっていた――エメラルドグリーンの瞳、さらさらと風になびく金の糸のような髪、柔らかい肌。幼い頃、彼が妹のように可愛がっていたメアンはなりを潜めて、大人の女性と化した妖精がそこにいたのである。
 メアンの優しい声、メアンの優しい手、メアンの優しい表情。ククールは下手をすれば彼女の魅力に負けてしまい兼ねなかった。彼女に恋をしてしまいそうだった。だから必要以上に近付いてしまうのは危ない、と彼は思っていたのである。しかしそんな思惑とは裏腹に、メアンはいとも簡単にククールの懐へと這入り込んでしまった。

「……ククールだからよ」

 メアンの声は一本の糸のようにか細かった。けれども俯くククールの耳には、まるで鈴が鳴るように可愛く聞こえた。もう、ククールには成す術がなかった。ただ一つしか、なかった。

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