惨めな朝のこと


 私は、ただの人間だ。いいえ、生物としての私の種類が言いたいのではなく、私が地位や権力を必要以上に持たない一般人だと言いたいのだ。
 物怖じはよくするし、物事から逃げるなんて日常茶飯事。危ない橋をガタガタと体を震わせて渡るくらいならば私は絶対に進まないし、向上心なんてものはあまり内に出現しないものだから、出来なかったことで不満になることもない。周りから見れば私はかなりの臆病者に映っているに違いない。そんな人間がこんな境遇に立たされるだなんて、一体、誰が予想できたであろうか。


 ・・・


 昨日の晴れ晴れとした空模様から一変、空はどんよりとした雨雲に覆われてしまった。地には大粒の雨が降り注いでいる。稀に耳を裂くような雷鳴も聞こえる。どれだけ今日の天気が悪いかは想像に難くないだろう。ただ、今の私と彼らの心情からして、この情景描写は正しいと、何だか客観的に私は思考していた。
 此処はルシス王国から随分と離れたガーディナ渡船場。他大陸に定期船を出している唯一の船場であり、リード地方きってのリゾート地でもある。いつも観光客で賑わっている為、リゾートホテル「シーサイド・グレイドル」は常に満室状態で、私たちが今回このホテルに泊まれたのは正に奇跡といっていい。私は今、その中でも最高級の部屋のベッドで布団に包まっている。
 何故、凡人である私がスイートルームのベッドに体を横たえることができるのかというと、それは側で何やら話し合っている四人の男の内の一人がとある国の王子だから――ではなく、単純に大量の討伐依頼をこなして大量の報酬を得たからだ。
 ちら、と布団を僅かに捲って隙間から彼らを覗くと、ルシス王国の王子であるノクティス・ルシス・チェラムはやはり意気消沈というか、怒髪冠を衡くというか、とにかく情緒不安定だった。それを彼の側付きのイグニス・スキエンティアは冷静に宥め、彼の「王の盾」となるグラディオラス・アミシティアは叱咤し、彼の高校以来の親友のプロンプト・アージェンタムは心配するといった構図だ。いつもと違って張り詰めた空気が広々とした部屋の隅々まで行き渡る。その余りの緊張感に、布団に覆われているにも関わらず私の体は芯から冷え、鼻はつんと痛み、目頭は熱くなり、喉はぐっと詰まってしまった。そして結局、私は泣いてしまった。
 心の器からは既に感情が溢れ出て、涙は止まることを知らない。私はもう何もかもが嫌になって、ただ彼らに泣いているのを知られたくはなくて、また静かに布団に包まった。





 涙も徐々に枯れていき、流石にもう出ないだろうかという頃に私は漸く平静を取り戻し始めた。やはり泣くとデトックス効果があるのだろうか。ノクト――ノクティスの愛称――もある程度まで気持ちが落ち着いたらしく、話題が「今後の方針について」に移っている。私は僅かに感じる彼らの温もりにほっと息を吐いた。
 けれども私には、涙や彼らの温もりを以てしても決して消すことのできない大きな不安があった。ルシス王国のことだ。

「……はあ」

 彼方の故郷を想うと、つい溜め息が出てしまった。やはり私は精神的に疲れているか、気が滅入っているのだろう。それはそうだ。だって、だって、一体どうすれば私たちの暮らす王都インソムニアが陥落するだなんて予想できただろうか?
 家族は無事に生きてくれているだろうか。私が足繁く通っていた「クロウズ・ネスト」の店長や常連客たちも元気に笑い声をあげてくれているだろうか。想像しても思い浮かぶのは最悪のシナリオだけ。もうこれで十一回目のシミュレーションだが、一度たりとも家族が笑顔で「おかえり」と言ってくれたことはない。店長が「今日も店の自慢の料理、食っていくか?」と問いかけてくれたことはない。
 こういうとき、私は楽観的思考が他人よりもかなり下手なのだ。いつも逃げてばかりだから、今だって人を、家族でさえ信じられずに、ひたすら暗闇に沈んでいる。そんな人間に希望なんて持てる訳がない。
 私はもう普段のように潔く諦めて悪循環に自身を委ねていた。だから多分ほぼヤケクソで私はこんなことを口にしたのだろう。

「何で私だけここに……いっそのこと向こうで死ねば良かった……」
「……おい」

 布団でくぐもった声だったろうけれど、彼らには聞こえていたようだ。そしてやはり言ってはいけないことだった。聞こえたのはグラディオ――グラディオラスの愛称――の瞬間的な憤怒の声。
 彼らが王国について話し合っていたことは、同じ空間に私もいたから知っている。そして彼らがこれから王都の様子を見に行くことも、まだ俯いてはいるけれど少しずつ前を向こうとしていることも私には分かっていた。それなのに私は彼らの希望の道に障害物を置いてしまったのだ。何故にそういえるのかというと、私の発言は絶対に彼らの信念や意志に相反するものだからである。
 このとき、私は遂に確信を持った。彼らと一緒にいては駄目だ、と。それに、いつもは行動にすら移せないのだけれど、このときだけは逃げずに進む勇気もあった。
 私は思い切ってばさっと布団を自身から剥がし、ベッドから下りた。彼らが一斉に此方を見る。彼らの様々な感情の込められた視線が痛い。けれども私は決めたのだ。此処で怯む訳にはいかないのである。

「私、気分転換に外、行ってくるね」

 私は彼らに泣き顔を晒しながらも、ただの一言を、決して言ってはいけなかった発言に添えた。そのまま何も言わずに部屋の出入口へ向かう。そのときですら彼らの視線は私に刺さりっ放しだった。

「トーネ、待て――」

 私は誰の顔も、表情も、仕草も見ていない。声も聞いてはいない。

  



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