確かにすくわれた


 私の気持ちはきっと誰にとっても利益のあるものではなくて、特に私の大切な仲間たちにとってはより不利益になり得るものであって、だから誰も受け入れてはくれないようだ。あの部屋から外に出れば少しは気持ちも落ち着くかと思ったけれど、全くそうではなかった。一つの王国が落ちたと知らされたというのに、レストラン「コーラルワール」のシェフもスタッフたちも特に動揺した様子を見せることなく仕事に就いているのだ。
 皆、もしかしたらまだ知らないのかもしれないけれど――いいえ、レストランにいる人たちは皆、知っている。だって、ラジオからも新聞からもその情報が上がってくるのだから。
 つまり、私以外の皆は強くて、絶望にも負けない希望を持っていたのである。それは本来ならばとても喜ばしいことなのだろうが、今の私にはそれすらも悲観的に捉えざるを得なかった。
 周りの人たちが前に進んでいるのに対して自分が独りポツンと取り残されたように感じる。私のように弱い人はいないのだ、と。
 心が凍りついて麻痺していくのに抵抗する勇気の灯火なんて、私には最早宿っていなかった。
――もう、無理。
 私は人目なんて気にせず、ただただ無我夢中に涙をボロボロと溢れさせながら疾走した。胸が度々つかえるものだから、走るのに負担がかかることも分かり切ってはいるけれど、それでも私は走った。
 この、誰にも伝わらない、胃の中で胃酸によって溶かそうとしても全然溶けてくれない、死にたくなる程の感情を、全部、私ごと消し去ってしまいたい。
――もう、無理だよ。
 鋭い刃のような雨粒が、凍った私の心を温める手段を一つ一つじわじわと奪っていく。私はいよいよそれを感じることすら放棄し始めていた。
 雨風によって少々淀んだ海。しかしまだ透明さを失ってはいない。雨雲によって暗く濁った灰色に覆われた空。しかしまだ太陽を失ってはいない。

「私には、もう、何もないんだなあ」

 いつの間にか走ることを止めていた私が無意識に放った言葉は、私がどれだけ現実から逃避していたのかを確実に表現していた。
――私は、もう。





 私の心は氷のように冷たく固まってしまった。何も感じないし、何も思わない。その筈なのに、心の何処かに温もりを覚えた気がする。何故だろう。私は既に生きることから逃げたというのに。
 ああ、きっと最期に見る走馬灯に似たものだろう。私の一抹の寂しさが生んだ幻の温もりだ、きっと。そう思いたいのに、ぼんやりと存在する熱は消えない。私の逃避を許してくれない何かが其処に在るのか、それとも私の弱さを理解してくれる誰かが其処に居るのか。

「――! ――、――――!!」

 私は答えが後者だと知った。誰かが私を、私の氷結のような心を必死に助けようとしてくれているのだ。私は多分、自身に生命の火を再び灯す力なんて持っていないだろうから、誰かの努力を無駄にしてしまうことになるけれど、それでも最期にこうして誰かが私を必要としてくれていると実感できて嬉しかった。だから、どうしてもこの人には謝意を表したい。その程度の力は取り戻したかった。

「――! ――! ――!!!」

 誰かが、また私を励ましてくれている。遠くからではあるけれど、確かに聞こえるのだ。なのに、其処に向かって手を伸ばしたいのに、私の凍った心では叶わない――私の冷え切った心では。
 どうして私は逃げることばかりしてきたのだろう。どうして私は誰かの助けに手を伸ばす為の勇気を培ってこなかったのだろう。
 怖かったのだ。その物事がどれ程に大きな問題を抱えているのか分からなくて。
 苦しみたくなかったのだ。勇気を出して立ち向かって、それでも自分が上手くできなかったとき、悩むのは分かり切っているから。
 けれども、この人のように、私を生かそうと一生懸命になってくれる人がいる。思えば自惚れかもしれないが、家族だって店長だって皆、私が死にかけていたら助けてくれるのではないだろうか。
 私は今までずっと自分の為だけに行動してきた。でも、この瞬間くらい、この人の為に自身の弱さを打ち負かそうと奮闘してもいいのだろうか。許して貰える、だろうか。

「――、トーネ! しっかりしろ!」

 ああ、この人なら――イグニスならば私を、私の弱さを、許してくれるのかもしれない。私は薄っすらと視界に映る彼の張り詰めた表情をどうにか緩めようと、彼の頬にゆっくり手を伸ばした。

「トーネ……? トーネ!」

 彼は私が意識を取り戻したのに気付き、私の伸ばしかけの手を即座に掴んで握ってくれた。彼の手は、凍ってしまった私の心には些か温か過ぎたけれど、やはり嬉しくて思わず顔が綻ぶ。

「……ありがとう」

 この言葉だけは伝えたかった。
 たとえ、これが私の最期だったとしても、私は再び目覚めることができると、そう信じよう。

  



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