恋の魔法をかけるよ


 イグニスの切なる願いに、まさか私の胸が張り裂けそうなほどにまで痛むとは、私は予想だにしなかった。本当に、痛い。何だか色々と限界を超えてしまった感じで涙が溢れてきそうだ。けれどもそれも全て自業自得。彼もまた、私の魔法にかけられた被害者なのである。多分、それも質の悪い魔法の被害に遭っている――恋の魔法。私は彼に禁断の魔法をかけてしまっていたのだ。出会ったときから、ずっとずっと。
 私も何となくだけれど記憶に残っている。あのときは案内人の方に「少々時間がございますので、城内でお寛ぎ下さいませ」と言われて、宛もなくただふらふらと清廉なお城の中を彷徨っていたのだ。けれど、約束の時間まで残り少なくなったときにはもう、私は迷子となっていた。それで焦りながらも、中庭らしき場所で昼食を摂ろうとしている男性を見つけて、私は自身が人見知りであるのに加えて相手が異性だったけれども、ありったけの勇気を振り絞って声をかけたのだった。その相手がイグニスだった。多分、このときに私は緊張の余り、知らぬ間に彼を魔法の囚われに変えてしまったのだろう。いや、もう絶対にそうに決まっている。それが恋の魔法だったというのもかなりの不祥事だ。
 私は今まで何の為に自身を鍛えてきたのだろう。自分の魔力のせいで人を無意識に傷付けてしまうことが嫌で、だからそれをしない為に、自分磨きをしてきたのではなかったか。
 私は今まで何の為に研究者を目指していたのだろう。自分の魔力を少しでも人の為に役立てたい、私の魔女としての力ではなく、人としての力で人を救いたい。そう思ったから研究者を志したのではなかったか。
 私は自分に嫌気が差した。目標や夢に達することができたと勝手に思い込んで、挙句の果てには大切な人を傷付けてしまった、そんな自分に。

「ごめんなさい、イグニス……すぐに解放するから。だから、どうか、お願いだから、私を嫌いにならないで。イグニスに嫌われちゃったら、私、もう生きていけないの。好きになってほしいなんて欲張りなことは思わない。だから……お願い」

 いつの間にかボロボロと目から溢れ出てきていた涙にも構わず、私は彼に懇願した。口から次へ次へと出てくる言葉も全て重々しいもので、ああ、私は重い女の象徴だなあ、とか心の中でぼんやりと自嘲しながら、このとき私は漸くあることに気付いた。否、気付いてしまった。

「私……イグニスが好きなの」

 無意識に口に出してしまっていた。ハッとして、私は「あ、ごめんね、今すぐ解くから……!」と慌てて誤魔化して彼から離れ――ようとした。
 出来なかった。何故なら、イグニスが自分の意思で私の体を拘束してきたからだ。
 私には分かった。彼が今、自分自身で私を抱き締めてくれていることが。しかし喜びよりも断然、戸惑いが大きすぎて、私は益々、混乱の渦に巻き込まれていった。

「イグ、ニ、ス?」

 もう取り敢えず自分に出来ることは彼のされるがままになることだと悟って、私は彼の名をぐずぐずの声で呼んだ。

「……トーネ」
「は、い」
「俺はそもそも、お前に魔法をかけられてなんていない」
「………………え?」

 私は何秒間かくらい息すらできていなかった。硬直状態が緩和されて漸く思考回路を想像が巡るようになる。
――え、何と、私の見立ては完全なる妄想で、勝手な思い込みだったってこと?
 イグニスの発言の意味を理解した途端に羞恥心が私を支配する。

「う、ううううう……うう……!」

 恥ずかし過ぎて死にたい。何を必死になって自分の魔法がどうとかこうとかと力説していたのだ。恥ずかし過ぎる。穴があったら入りたいと今、切に思う。

「……可愛いな、トーネは」
「えっ、えええっ……!?」

 普段から「可愛い」という言葉は勿論のこと、そういった類の言葉を使わない彼がいきなりそんなことを、それも微笑みながら囁くものだから、彼に恋をしてしまった私としては耐えられない体験だった。
 というか、もはや抱き締められている時点で気がおかしくなりそうだ――いや、もうおかしくなっている。

「で、でも、まあ、それなら、よかった、よ……イグニ、スを傷、付けてなかったなら……それで」

 えぐっえぐっ、と喉がしゃくれてしまっていつものように上手く喋れないけれど、この事実を口にしただけで何だか酷く安心できてしまった。

「……そうやってお前はいつも、俺に恋の魔法をかけていたんだ」
「え? ど、どういう、こと? 私、今、魔力、使ってな、いよ」

 いまいちイグニスの発言がピンとこなくて、私は首を傾げる。彼はそんな私を見て「トーネらしいな」と優しく笑うと、そのまま私の目を見つめてこう言ったのだ。

「俺がトーネを愛しているということだ」

 たった今、彼は私に魔法をかけた。私が彼と恋に落ちる魔法を。彼は私に恋の魔法をかけてくれる、たった一人の大切な人だ。

「好きだ、トーネ。俺と、付き合っては、くれないだろうか」

 妙に真剣に、けれどかなり緊張した面持ちでそう申し出た彼に、私は何も難しく考えることはせず、ただ感覚に身を任せながら、くすりと笑った。

「ふふっ、はい。こんな私で良ければ喜んで!」

 こうして、私と彼はお互いに恋の魔法をかけたのだった。
 今も遠く向こうでは波の音が、ざざんざざん、とゆらゆら寄せては引いている。その隙間に、鴎の眠たそうな鳴き声は稀に聞こえた。


(完)

  



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