帰る場所になるということ・上


「それと、実はもう一つあるんだけど……」

 トーネはまだ扉の手前に立っている。何かを言い淀んでいる様子だった。彼女のどこか恥じらいを込めた困ったような態度はいじらしさの塊だ。私の心臓は彼女の雰囲気に引き込まれるようにドクドクと鼓動を速めた。

「……トーネ、何だ? そのもう一つというのは……」

 思ったより上ずった声が出てしまった。トーネに緊張が伝わってしまってはいないだろうか、と少し心配する。だが心配せずとも、とっくの前に彼女も緊張していたようだ。彼女は時々こちらをちらと見遣るとすぐに別のところに視線を移し、かと思えば大袈裟に深呼吸をした。
 本当にどうしてしまったのだろう。気になって心は急いてばかりいたが、ここは何とか大人の余裕(などというものは持ち合わせていないのだが)でトーネを気遣い、待った。そして彼女は遂に、私の目をまっすぐ見つめ、大きく息を吸い、その小さな唇を動かしたのだ。

「私とデートしませんか!」


 ・・・


 ああ、駄目だ。顔が熱い。耳も熱い。胸の動悸も激しい――思い出すだけで全身がおかしくなりそうだ。
 私の痩せた体に(とは言え最近は、以前より快適な睡眠や、トーネが用意してくれる食事のおかげで大分と体力は回復してきたと思う)これ以上負担をかけないためにも、という尤もな理由を出したが、正直この先の自身の言動や行動に確かな記憶がないから、回想はこの辺りで終いにして、私が恋愛経験のないことを確認していた訳を綴ってしまおう。
 自信がないのだ。トーネを楽しい場所に連れていき、彼女を笑顔にできる自信が。
 心の奥でウォースラの死を嘆く私を、トーネは気遣って誘ってくれた。私は彼女の気遣いに甘んじて誘いを受けた。しかし、たとえそのような形でも、これはデート、即ち男女の逢瀬の約束だ。ならば当然――駄目だ駄目だ。逢瀬なんて、そのように考えては駄目だ。
 三十路も後半に入っている長身の男性と(見た目)十五歳の小柄な女性だ。傍目から見れば、父娘のように見えるだろう。だからこれは逢瀬などでは決して……。
 ないとも言い切れず、かと言ってそうだと思ってしまうと恋愛遍歴のない私は自信をなくしてしまう。考えれば考えるほど、私の心はトーネとのデートのことでいっぱいいっぱいになってしまった。
 ああ、もうこれは今晩、ヴァンとバルフレアに相談に乗ってもらうしかない。私が心から尊敬した朋友は、もうこの世にいないのだから。
 明日が本番だ。明日までに私は必ず、男として成長してみせよう。
 私は真っ昼間の賑やかなラバナスタの隠れ家の一室で、一人静かに決意を固めていた。


 ・・・


 王都ラバナスタには中々雨が降らない。北東西の三方を砂漠に囲まれていれば降らなくて当然かもしれないけれど、とにかく雨も降らず日照りも強いため、日中はかなり暑い。しかも三方から飛んでくる砂塵のせいで青空も濁って見えるのだから、ただ日中で得することといえば「明るい」ということくらいだ。
 しかし朝は違う。涼しいどころか、むしろ寒いときだってある。それは何故かというと、王都に溜まった人々の熱気を三方の砂漠から流れ込む冷気が、夜明け前にひゅーっと攫っていってしまうからだ。故に、いくら太陽が熱を放とうと、再び王都を暖めるには時間がかかる。そこで生まれるギャップ、即ち涼しさを感じられる時間帯が朝なのだ。
 私はこの時間が何とも好きだ。涼しい上に、日中は濁ってしまってよく見えない蒼空を、この目でしっかりと捉えられるのだから。

「……なんちゃって」

 かなり大袈裟にラバナスタの朝について語ってみたものの、結局私の心が休まることはなかった――そう、私の心は今、ざわついている。
 自分でも随分と恥ずかしいことを言ったと思う。私とデートしませんか、なんて。このような経験は十五年(実質四百五十年)生きてきて味わったこともなければ、恐らくこれから味わうこともないだろう。ああ、恥ずかしいし、少し悲しい。
 しかしながら、私がデートの話を持ちかけたとき、バッシュの表情は丸でとぼけていた。まるで時間が止まったかのように彼は放心していて、かと思えばいきなり顔を赤くして「あ、ああ……構わない」と力無く答えたのだ。何だか、彼を気遣って提案したつもりが、逆に彼に気を遣わせてしまったように感じる。ここで自身の恋愛スキルの如何に乏しいかを実感するとは、何とも皮肉である。
 さあ、自虐的な思い出話はさておき、もうすぐ彼との約束の時間だ。内心は思い切り初デートにびくびくしている、というよりむしろ未だにデートをする心構えができていないのだが、それを彼に悟られてはなるまい。なぜなら、このデートは彼に元気になってもらうためにあるからだ。
 ここは恋愛経験の有無ではなく、自分らしさを最大限に活かしてバッシュを笑顔にしてみせようではないか。私はアジトの入口から満天の蒼碧を見上げ、ひっそりと決意を固めていた。





 バッシュと過ごす時間は、案外あっという間に過ぎた。緊張していたのは最初だけで、実際に彼と顔を合わせると、彼の温かさというか懐の広さというか、まるで父のような存在感のおかげで、肩肘張った自分はどこかに隠れてしまったのだ。彼を励ますのだと意気込んでいた手前、逆に彼の存在に安心させてもらうとは、何とも滑稽な話である。しかしながら、自分が彼を信頼し、帰るべき人であると認識している事実が、私には堪らなく幸せだった。
 そして、二人で十分にラバナスタを満喫した今、私たちは中央広場の休憩スペースに座り込んで、夕暮れ時の空を見上げている。

「もう夕方かあ……時間が経つのって早いね」

 今日一日を、黄昏時というだけあってぼんやりと振り返りながら、私はバッシュに語りかけた。

「ああ……とても有意義な一日だった」

 彼も彼で物思いに耽っているような、どこかぼんやりとした様子で呟いた。
 しっかり者である彼にしては珍しいと思って彼に顔を向けると、何も彼は黄昏れてなどいなかったのだ、沈みゆく夕陽をその目でしっかりと捉えていた。
 この人は強い、と私はこのとき全面的に理解した。この静かな強さが、バッシュにしかない優しさや温かさを生み出しているのだと、私は知ったのである。

「……ねえ、バッシュ」
「何だ?」

 こちらに顔を向けたバッシュを、私は静かに、しかし力強く見つめる。

「私、あなたの帰る場所になりたい」

  



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