ハロー、青春。
序章 悩みはやどりぎのタネのように
マクロコスモス社が教育事業の一環としてナックルシティに建設した、我が母校――の職員室の一角。教員にとっては何だかんだ唯一といっていい昼休みに、わたしは自分用に宛がわれた作業用机に突っ伏して、自身の右手にすっぽりと収まるスマホロトム――が液晶画面に映す文字の羅列をただただ見つめていた。
『委員長の推薦で、ジムチャレンジに参加することになりました。一ヶ月後にエンジンスタジアムで開会式があるので来てください』
自身のSNSのアカウント宛に届いた教え子からのメッセージを黙読し、わたしははあ、と溜め息をつく。気が重い。胸に凝りが出来てしまったような感じがするくらい、気が重い。そんなわたしの心境なんて露知らず、先輩教員のマコトさんとトウヤさんが「今日のB組は……」「レオンくんが〜」などと報告を兼ねた談話を楽しそうに繰り広げているのが、無慈悲にも後ろから聞こえてくるのが、尚更辛い。わたしはもう一度、はあ、と溜め息をこぼした。
別に、開会式に興味がない訳ではない。むしろ尋常じゃないくらい興味津々だし、どんな手を使ってでも開会式の様子を見に行きたいと思っている。自身の教え子の再びの門出を、見送るのではなく見守るために。
いやしかし、それを実現するためにはまず解決しなければならない問題が二つあった。一つ目に、教師という職を全うする上で避けなければならない「特定の生徒の特別扱い」という状態が、一ヶ月後のジムチャレンジの開会式――に参加する教え子の様子――を見に行くことで発生してしまう(気がする)問題だ。
気がするだけなら行ってしまえだとか、避けなければならないのは「特定の『生徒』の特別扱い」であって卒業生ではないから行ってしまえだとか、そんな横暴な思考も脳裏を過りはするのだが、まあそう上手くはいかないのだ。いや、上手くいく可能性もなくはないが、上手くいかなかったとき、自身に何が待ち受けているかは想像に難くない。ならどうするか、というところで、わたしは未だ何のアイデアも挙げられずに、ただただ思考回路のど真ん中で立ち往生しているのだった。
さて、わたしがこんなにも「特定の生徒の特別扱い」問題に慎重になってしまうのには、当然のように理由がある。それも結構、いや、かなりシビアな理由が。
二つ目の問題についても、事の発端は同じだ。すべては昨年度の卒業シーズンに遡る――。
・・・
ラテラルタウンとアラベスクタウンを繋ぐ唯一の道であるルミナスメイズの森は、幻想的な景色が見られることで有名な観光スポットだ。しかし人気の割に人間との相性はあまり良くなく、暗くて迷うことは勿論、森に生息するポケモンたちに惑わされてしまうこともよくあるらしい。そんなこんなで「一人で森には入らない方がいい」という暗黙の了解が世間一般に知れ渡るほどには危険な場所へ、わたしは緊急性と重要性を兼ね備えた用事がない限りは一人で赴かないでおこう、と思っていたのだけれど。本日、その二つの性質をそなえる滅多にない用事のために、ひとり腹を括ってやってきたのだった。
「うわあ……懐かしいなあ」
森の入り口から中の様子をぼうっと鑑賞し、わたしは静かに呟く。先ほどそらとぶタクシーから降りて数年ぶりのラテラルタウンを散策したときも同じことを思ったが、ルミナスメイズの森にあたっては、何故かその倍くらい懐古の情に駆られた。わたしは心中に起こった感情の波に身を委ね、急くように不思議な世界へと足を踏み入れる。
木の幹に寄生する大小様々な色とりどりのキノコたちが、妖しげな香りと共に仄かな光を発して、木々の織り成す深緑のカーテンに覆われた世界を幻想的に照らし出している。そんな自然の神秘ともいうべき場所で、枝葉のさわさわと風に揺れる音や、森に暮らすポケモンたちの鳴き声がアンサンブルを奏で、訪れる人々を歓迎せんとしていた。
ここ、ルミナスメイズの森を、わたしは十年前に一度だけ通り抜けたことがある。当時ジムチャレンジに参加していたわたしは、アラベスクタウンへジムチャレンジをしに行くために、勇敢にも単独でこの森に立ち入ったのだ。如何せん十年も前の出来事であるため、細かいことは覚えていないけれど、あちこちで光るキノコには見覚えがあるし、森一帯に漂う不思議な香りにも覚えがあった。確か、キノコに触れることで明るさが増すのではなかったか。記憶を頼りに、近くにあった青色のキノコに触れてみると、ぽう、と光の強さが増すのが見えた。やっぱり、と思うと同時に、わたしは何だか昔に戻ったような感覚に陥る。お陰で、最近多忙ゆえに薄れてしまっていた「わたし、本当にジムチャレンジに参加したんだなあ」という実感やポケモンバトルに対する熱意が、急激に呼び起こされた。
そうだ、わたしは大切な仲間たちと共に道路を駆け抜け、キャンプで触れ合い、ジムミッションを潜り抜け、ジムリーダーのポケモンたちと勝負し、疲れ果てた体を特製カレーで癒やし、テントでぐうすか眠る。そんな青春の極みのような毎日を送っていたではないか。当時の記憶の片鱗が一瞬脳内に映し出されただけで、胸に熱い何かが込み上げてくる。そのまま何故か泣きそうになってしまって、堪らずわたしは腰に携えていた六つのモンスターボールを手に取り、一斉に投げ、姿を現した仲間たちにそれぞれ熱い抱擁をお見舞いした。
ルンパッパのハスくんは誰よりも長くわたしのハグを受け止めてくれ、イオルブのサッちゃんは静かに腕の中に収まってくれた。ルカリオのリオくんは何かの修行だと思ったのか、ただひたすらに何かに耐えていて(流石に笑ってしまった)、ドサイドンのマルちゃんはその大きな体でそっとわたしを包んでくれた。オーロンゲのベベくんはわたしの体を持ち上げて楽しそうにぐるぐる振り回してくれた(?)。あんなに小さかったべべくんが今ではわたしと同じくらいの身長になっているなんて、成長を感じずにはいられない。とりあえず、放り投げられなくてよかった。そして、ヒートロトムのトトは、いきなり抱っこされてびっくりしたようだけれど、抱き締めたのがわたしだと分かったからか、いつもは俊敏に動き回るところを、我慢してくれていた。皆が皆、わたしが幼い頃からずっと一緒にいる、大好きな大好きな仲間たちだ。