嘘と罠
真昼のホテルのラウンジはひどく混雑していた。最上階のバンケットルームで今夜行われるパーティーの参加者だろうか、ドレスアップされた人間が目立つ。それらを見渡せる隅のテーブル、二人掛けソファーに深く腰掛けた女が目の前の男に話しかける。
「夜行立会人、それでは約束が違います」
夜行、と呼ばれた老齢の男は少しだけ目を細めてゆるりと首を横に振った。
「いいえみょうじ様、約束は決して違えておりません。これは我ら賭郎と”搦手”である貴方様との協力関係の上で成り立っているのです」
女の細い指がティーカップを持ち上げる。緩慢な動きは彼女が何かを深く思考していることをありありと伝えている。
会員の要請に応じ、あらゆるギャンブルを公正かつ確実な取り立てを持って取り仕切る秘密組織『倶楽部賭郎』。そして政治や企業と言った表舞台や果ては敵対組織など様々な場所に潜む影の協力者である『搦手』。夜行の目の前の彼女こそが、搦手であるみょうじなまえその人だった。
「私がお父様に言い付けたら、貴方どうなるのかしらね」
「その時は私が責任を持って貴方様を縊り殺すまででございます」
「……そう。で、私に何を聞きたいのです? お生憎様、インサイダー取引の一つもありませんわ」
「そのような矮小なものにお屋形様は興味はお持ちにならないでしょう」
夜行の口ぶりになまえは少し苛立ったような顔を見せたが、この老紳士は少しも意に介していないようだ。
「夜行立会人、私は貴方と無駄話をしに来たわけではありません」
「それでは、こちらを御覧下さい」
夜行が差し出したタブレットには、彼女のよく知る男が映っていた。動揺を隠そうとソーサーに置いたカップがカチャリと派手な音を立てる。少し泳いだ視線が再び夜行を捉えた。
「みょうじ様、この国トップの製薬会社社長令嬢である貴方様が搦手であることを彼は知りません。そしてこれは、貴方様にしかできないことなのです」
震えた指で画像を確認する。暗がりの中でも鮮明に映されていたのはいずれなまえと将来を誓い合うことが約束された男だった。そのうちの数枚、婚約者の男と一緒に映っているのはニュースで見た海外の巨大犯罪組織トップの側近で、荒くなりそうな呼吸を必死に抑えてなんとか呟く。
「私に、何ができると言うのです」
「泉江外務卿ではなく、私が来たのはみょうじ様を”暴”をもってお守りするという約束のため。そして、このゲームの舞台に彼を上がらせる仕掛け人になっていただきたいのです」
「そのゲームは誰がするの? 貴方のお屋形様直々とでも? ふざけないでちょうだい」
「このゲームは代理の方が参られます」
「そんなことを急に言われても困りますわ。第一、会ったこともない代理人なんて信じられない」
「それではお会いいただくのが一番宜しいでしょう。……さぁ、貘様」
突如としてなまえの目の前に現れた白い影、否、真っ白なスーツに身を包んだ男は、無遠慮に夜行の隣のソファーに腰掛けた。飴色の革張りをされた一人掛けのソファーはその異質とも思える出で立ちの男を少し軋む音と共に受け入れた。
「貘、斑目貘。まさか、本物の……?」
「イエス。そうでございます」
斑目貘と呼ばれた男は、返事の一つもせずじっとなまえを見つめている。伝説のギャンブラー、嘘喰い。賭郎の関係者でその名を知らぬ者など存在しない。搦手と言う、賭郎を作り上げるピースの一欠片でしかないなまえですら目の前の男のその偉業と狂気に触れ肌を粟立たせた。
「どーも、ハジメマシテ」
白髪に、日本人離れしたブルーグレーの瞳。貘は突如として軽薄な挨拶をしてなまえに無遠慮に手を差し出して口角を上げた。なまえは握手に応えることなくそれを見つめている。
「貘様、女性にいきなり握手を求めるのは些かどうかと思いますが」
「そんな細かいこといいでしょ、夜行さん。……で、今夜のパーティーでどう仕掛ければいいの?」
そうだ、パーティー。と、なまえはハッとして夜行に向き直る。ソファーにもたれかかった貘は白髪を指に2,3回絡めてちらりとタブレットを見た。
「そもそも、こんなに人だらけの場所で話して良いものなの?」
そう言われてなまえは慌てたように周りを見た。ラウンジは先ほどと変わらずがやがやとうるさいが、客の数人は自分も知っている顔だ。聞かれたらまずいこともあるはずと頷いた。
「私は上に部屋を取っております。そちらで続きを話すのはいかがでしょう」
「いえ、その必要はございません」
その提案に夜行はすぐさま言葉を返す。貘はふーんと小さく呟いて、それから視線をなまえに向けた。指先から顔まで、まるで舐め上げるようにじっとりと見つめられてなまえは眉根をひそめる。
「何でしょう」
「いや、別に」
そんなやり取りを夜行は制しもせず黙って聞いている。しばし沈黙が流れた後、口を開いたのもやはり夜行だった。
「パーティーは夕方17時からの予定です。それまでは私と貘様は別の場所で待機しております。会場には貘様が参りますので、後は彼にゲームに乗っていただくだけです」
「その仕掛け人とやらに私がどうなればいいのです? 彼だって愚かではありません、下手なゲームには乗りませんわ」
なまえの純粋な疑問に、貘はあえて挑発的な視線を向けながら答えた。
「アンタは何もしなくていい。……そうだな、時間になったら上で俺と適当に酒でも飲んでればいいさ」
そうすれば、勝手に相手は釣れる。と言って貘は立ち上がった。白い影はやはり異質で、高い位置から見下ろす瞳は鋭く、そして真っ直ぐになまえを見つめる。
「できればなるべく親密に、アンタが嫌じゃないなら婚約者放って俺とくっついてればいい」
そう言って踵を返して去っていく貘を、呆気にとられたまま見つめていた。ラウンジの先、眩いエントランスの向こうに消えてしまうまで、その目を逸らすことができずにいた。
夜行はしばらく何も言わないままその様子を伺い、少ししてからタブレットをしまいなまえに声をかける。
「ご安心下さい。これは我ら賭郎から彼への正当な挑戦状です。貴方様に害は及びません」
「えぇ、そう。そうね……それならいいの」
もはや夜行の声すら届かないほど、なまえは消えた白い影を見つめ続けていた。
***
あの後夜行とも別れ、なまえは早足で部屋へと戻った。ラウンジで着ていたワンピースを脱いでハンガーにかけ、インナー代わりのスリップのままベッドに寝転んだ。クイーンサイズのベッドはなまえの華奢な体を簡単に覆ってしまう。
貘、斑目貘。と小さな声で呟いたところで誰の返事もない。自分がこれまで出会った男とは違う、生と死のどちらも纏ったオーラ、それから少しの薬の匂い。
(変な、男……)
妙に熱を持った視線、それと相反する冷めた色の瞳。己の婚約者とは180度違う男だということは本能的に感じ取っていた。
そのまま少し眠ってしまったのか、目が覚めた頃にはパーティーの開場まで1時間程だった。慌てて身を整え、用意していたイブニングドレスに着替える。パウダールームでヘアセットをしている途中、背後から聞き馴染みのある声がした。
「なまえ」
「あら、来ましたの」
「今日はなんだかつれないじゃないか」
「別に。普段と変わりないでしょう」
「いや、違うね。別の男にでも目をつけた? 今日のうちに婚約の正式発表でもしようか?」
「冗談はやめて」
ため息をつきながら振り返り、男の目を見た。真っ黒なテールコートを身にまとった男はなまえを見つめ、それからふと笑った。
「塗ってやろうか、口紅」
「結構です。そもそも女性の支度を覗き見るなんて、恥を知りなさいな」
「そうですかい。……会場では俺のそばから離れるなよ」
「私に指図しないで」
冷たく言い放ったところで、まるで気にもしていないように男は首をすくめた。なまえはパウダールームからベッドルームに戻ってグローブを身に着け、乱暴にバッグを掴む。
「先に行って頂戴」
「はいはい。わかりましたよ」
男が部屋を出たことを確認して、深いため息をつく。あの男とは生まれる前から一緒になることが定められていたが、どうにも信用ならなかった。わかりやすく裏がありそうで、それなのに隠しごとは非常に上手い。だからこそ夜行が見せたあの写真は決定的な証拠になり得るし、そんなものを手に入れてきた賭郎という組織の強大さに震えたのだった。
気合を入れるようにお気に入りのリップで唇を彩って、なまえは部屋を出た。黒のマーメイドドレスと揃いのグローブにシャンパンゴールドのミニバッグ。どこをどう見ても麗しい令嬢の姿に、エレベーターボーイも少し頬を赤らめたのが見えた。
ホテル最上階のバンケットルームは、既に多くの人が集まっていた。もうすぐ開始の時刻のはずだが、未だ貘の姿は見えない。
知人に挨拶をして周り、主催の乾杯が済んで少ししてからなまえはようやくオールバックに整えられた白髪を遠くの壁際で見つけた。人だかりをなんとか抜けて、なるべく不自然にならないように声をかける。
「遅かったのね」
「まぁ、そこはね。準備があるから。……乾杯でもしようか?」
貘はそう言うと近くを歩いていたウェイターからシャンパングラスを2つ受け取り1つをなまえに差し出した。
「ありがとう。では、乾杯」
「乾杯」
よく冷えたシャンパンは不思議となまえの頭をすっきりとさせた。貘はラウンジで着ていた白いスーツではなく、他の参加者と同じ黒のテールスーツを身にまとっている。彼の整った顔立ちや体格も相まって決して似合わないわけではないのだが、何だか不思議と違和感があった。
「貴方、スーツの方が似合うのね」
「なまえちゃんはドレスも似合うね」
なまえちゃん、なんて随分と馴れ馴れしい呼び方だと言おうとして、それから今日の目的を思い出した。出かかった言葉を残ったシャンパンと一緒に飲み込む。
「良い飲みっぷりだ」
「こういう場は慣れていますから」
鼻で笑ってふと遠くを見ると、一人の男がこちらを見つめている事に気がついた。婚約者の男だった。貘もそれに気づいたのか、なまえが彼に背を向けるようにゆっくりと位置を誘導する、それからわざとらしく耳元に唇を寄せて「このまま見せつけて意識させよう。」と囁いた。
貘が次に顔を上げて男を見たとき、およそパーティーに参加しているとは思えないほどの憤怒の表情に変わっていたことに気づき、思わず笑いそうになるのを堪える。目の前の令嬢は随分厄介な獣に好かれているようだった。
「そういえば、なんてお呼びすればいいのかしら」
「なんでも良いよ、貘ちゃんでも斑目でも。あぁでも嘘喰いは……さすがにここではやめよう」
「ではそうね、無難に獏さんでいいんじゃないかしら?」
「オッケー」
そんなやり取りをしていると、程なくして本日のパーティーのメインであるジュエリーの新作発表会が始まった。照明を落とした空間の中、色とりどりの宝石がライトの光をキラキラと反射させている。なまえはそれを遠目に、しかしうっとりと見つめていた。社長令嬢という肩書のわりに堅実で宝飾品の類いは勉強程度にしか触らなかったが、美しく思うのはまた別の話しだ。
その輝きを見つめていたなまえの腰を、隣の貘がすっと抱いた。突然のことで声を上げそうになったが、貘は口の動きだけで「静かに」と伝えてなまえも頷く。まるで恋人同士のように寄り添って、アルコールも相まってなまえの鼓動は少しずつ早くなっていった。しかし、わずかに感じる貘の鼓動は少しも変わらず、ギャンブラーなんて皆そんなものかと小さく笑みを浮かべる。
『以上で、新作発表会は終了となります。残りのお時間まで皆様どうぞご歓談下さい』
その声で照明が戻る。離れようとしたなまえの体は、以外にも強い力で抱きとめられたままだった。
「獏さん、これは流石に」
いくら正式な発表はまだとはいえ、己と男の婚約を知る者も会場に来ている。こんな姿を見られて変な噂でも立ったら、今日のゲームどころか搦手としてもいられるかすら危うくなってしまう。今度こそ離れようと力を入れると、貘は耳元でまたひとつ囁いてその腕を離した。
「おい、なまえ」
それと同時に、厄介なこの男が現れる。男は己の名前を呼んだが、視線は明らかに貘の方を向いていた。
「随分親しそうじゃないか。俺にも紹介してくれよ」
「どうも、斑目です。なまえさんとは以前から親交があって、今日ぜひ一緒にとお招きいただいていたんですよ」
「へぇ。それじゃなまえが婚約してることも当然ご存知で?」
男はつま先を数度トントンと鳴らした。顔が赤いのは怒りのせいか酔いのせいか、なまえには検討もつかなかった。
「えぇ、勿論」
「じゃああんまりベタベタとするのはやめていただこうか。君もこういう場に来るということはそれなりの立場の人間だろう? わきまえたまえよ」
不遜な物言いに腹を立てたのはなまえの方だった。とっさに言い返しそうになるのを貘が片手で制す。
「残念ながら〜……無理!」
「……なんだと?」
男の眉間に深い皺が刻まれる。今にも殴りかかるのではという勢いで距離を詰めたのを見て、貘は己の後ろになまえをそっと移動させた。
「何をしている、なまえ。お前はこっちに来い」
「ちょっと待ちなよ、アンタもここで一騒ぎ起こしたくはないだろ?」
「お前もいい加減にっ……! あぁクソッ」
幸いなことに、会場内でこのやり取りに気づいている者はいない。貘はジェスチャーで会場の外に出ることを促す。男は貘とその背後のなまえを交互に数度見て、それからもう一度小さく「クソッ」と呟いて出口へと向かった。
「獏さん、この後私はどうすれば」
「とりあえずアンタの取ってる部屋を借りたい。その後は夜行さんが手配してる」
会場から少し離れたエレベーターホールで、男は振り返った。
「で、これからどうしようって? 俺とお前で殴り合いでもすれば満足か? お前人の女に手を出しといていくら何でもすみませんでしただけじゃすまないよな?」
「……ここではまだ人が来て目立ちます。私の部屋で話しましょう」
なまえはなるべく自然に、そして有無を言わせずエレベーターを呼ぶ。高層階専用のそれはすぐにドアが開いた。誘導するように乗り込み、部屋の階のボタンを押したところで男によって壁に体を押し付けられた。そのまま乱暴に口付けられ、衝撃と驚きで目を見開く。思わず見た貘の視線はひどく冷ややかで、なまえはその時己がこのゲームの仕掛け人でしかないことに改めて気付かされた。
チン、とベルの音が鳴りようやく男の唇が離れる。そのままエレベーターを出てずかずかと歩いていく姿をなまえは崩れ落ちそうになりながらぼんやりと見つめていたが、貘に半ば無理やり体を支えられ、フラフラと男の後を追う。
「開けろ」
なまえは震える手でバッグからカードキーを取り出し、ドアに差し込んだ。ドアを開けると同時に、突き飛ばされるように部屋に押し込まれる。その背後で男が無理矢理にドアを閉めようとしたのを、貘が体をねじ込むようにして防いだ。
「ちょっと、それはないんじゃないの? アンタ」
「元はと言えばお前のせいだろ!?」
ドアを閉めようと躍起になる男に、貘はニヤリとしながら小さく呟いた。
「じゃあさ、勝負しようよ。賭郎って、知ってるだろ?」
「賭、郎……? まさかお前」
驚きで男の力が緩んだのか、貘はドアをゆっくりと開ける。その背後には夜行を始めとした賭郎の黒服たちが並んでいた。なまえは上体を起こし、その様子を眺める。
黒服たちの中心にいた夜行が深々と礼をしながら名を名乗る。
「はじめてお目にかかります。私賭郎零號立会人、夜行妃古壱と申します。以後、お見知り置きを」
「ごめんね夜行さん、遅くなっちゃって」
「いえ、これくらいは予測の範疇でございます」
開け放った扉から夜行を始めとした賭郎の一団が部屋に入っていく。男は凍りついたように動けないままそれを見つめ、投げ出されたままのなまえを夜行が助け起こす。最後に貘が部屋に入り、後ろ手にドアをばたんと閉めた。
突き飛ばされた時に擦ったのか、なまえの右肘はグローブ越しに血が滲んていた。夜行はそれに気がつき胸元の刺繍付きハンカチを取り出して肘に結ぶ。
「今はこの程度の手当しかできず申し訳ございません」
「いえ、いいの」
スカートの汚れを手で払い、なまえはじっと男を睨む。その視線の鋭さに少したじろぎ、それから貘となまえたちを交互に見やった。
「かの有名な賭郎さんが俺に一体何の用だ? 勝負と言ったが俺はあんたらに差し出せるものなんてこれっぽっちもなくてね。」
わざとらしく手を広げ、男はにやけ顔で言う。貘は返事の代わりにテールコートの内ポケットから折り畳まれた紙を男に突き出して開いた。そこには昼になまえが見せられたものと同じ写真で男の顔は一気に青ざめる。
「俺が欲しいのはアンタのつるんでるこの男の情報! それと俺の命を賭けて勝負。……どうだい?」
男が奥歯をぎりぎりと噛み締める音が響き、それから静かに頷いた。それを見た夜行はリビングルームに入るよう促す。夜景を一望できるリビングルームで2人がテーブルを挟み着席したのを確認してからなまえをベッドルームへと連れていく。
「私はどうすれば」
「あとは我らと貘様にお任せください。申し上げた通り、これは賭郎と彼の勝負でございます。しかし! ゲームの中では我らはあくまでも公平な立会人。勝敗はまだわかりません。決着がつくまではこちらでお待ちください」
なまえをベッドに座らせ、一礼し戻ろうとした夜行の背中に呟く。
「……わかりました、ただし条件があります。私が搦手と言えどここはホテルで関係のない人も大勢います。ゲームは長くても一時間。それから、ここのホテルを出るまでは一切の暴力行為を禁じてください」
「かしこまりました」
再び丁寧に礼をしてから、今度こそ夜行はベッドルームを出た。その扉が閉められるのを見送ってから数時間前と同じようにベッドに倒れ込む。
先ほど夜行にハンカチを巻かれた肘がずきずきと痛む。場所が場所なため目立つ傷は残らないだろうが、それよりも彼の暴力性に触れたことがひどく恐ろしく思えていた。
「(獣、みたい)」
エレベーターで重ねられた唇。なまえにとってそれがファーストキスだった。生まれる前からの婚約関係ではあったが、結婚はもう少し先の予定であり、それまでひたすらに守り続けていた純潔の一端を気まぐれに傷つけられたことで思わず涙が零れる。暴をもって守るという約束はあの程度のことはカウントに入らないということだろうかと思案し、隣の部屋に聞こえないようにひっそりと嗚咽した。せめて貘が助けてくれたなら、と考えては彼にとって自分が協力者の1人でしかないことを思い知らされる。
隣の部屋からは物音ひとつ聞こえない。一体どんなゲームをしているのかもわからない。夜行たちがいる以上手出しはできないだろうが、彼のことだから何をするかもわからないままなまえはぼんやりと閉じられたドアを見つめていた。
***
部屋に戻ってから、果たしてどれくらいの時間が経ったのかなまえはわからないままでいた。時間を忘れて寛げるようにとベッドルームに時計はない。バッグの中のスマートフォンを確認する気力にもなれず、ただドアを見つめていた。
まだ十分くらいしか経過していないようにも、一時間をとうの昔に過ぎたようにも感じていた。無音のベッドルームは孤独で、ひどく空虚だった。
不意に起き上がり、ぐちゃぐちゃになった髪の毛を解く。お気に入りのシャンプーの香りだけがなまえの心を唯一落ち着かせた。
それからまた時間が経ち、精神的な疲労がピークに到達しかけた頃だった。不意にベッドルームのドアがノックされ飛び起きる。
慌ててドアを開くと、そこには左頬を赤くした貘が立っていた。
「お待たせ」
「何が、あったんです……?」
ニコリと笑んだ貘は、テールコートを脱ぎシャツの袖を捲り上げていた。胸元には血のような赤い飛沫が飛んでいる。こちらの部屋には喧騒一つ聞こえはしなかったが貘の様相になまえは動揺しながら事の顛末を問い詰める。
聞けば、勝負には貘が勝利し夜行が彼の賭けたものを取り立てようとした瞬間殴りかかったのだという。
「いくら暴力行為を禁じても、やる奴はいるからさ」と貘は調子一つ変えず告げたが、己のこともありなまえは今度こそ嗚咽が止まらなくなっていた。搦手という立場は、何かあれば命の危険に晒されることもある。しかしそれ以上に第一線にいるのは紛れもなく貘をはじめとしたギャンブラーや立会人たちであることをここでようやくなまえは気付かされた。
「ちょっと、どうしてそんなに泣くの。怖かった? ごめんね、本当に」
「だって、彼が、彼がこんなことをするような人だなんて、今までこれっぽっちも……!」
「殴られたって言っても一発だけだし、すぐ夜行さんがのしちゃったから大丈夫だよ」
夜行ではなく貘が呼びに来たのは、どうやら彼を連行するためだった。彼如きに夜行が負けることなんて万に一つもないだろう。それでも、自分の認識の甘さや彼の関わっているものの業の深さを考えれば恐ろしさで涙は止まらない。
「なまえちゃん。怖かったし、痛かったよね。ごめん」
そう言うと、貘は躊躇いがちになまえを抱き寄せる。シャツから貘と、少しの血の匂いがした。「貴方は悪くない」と言おうとしても、漏れ出す嗚咽は止まらない。
とくんとくんと規則正しく聞こえる心音が聞こえて、それが貘が生きている証のように思えてなまえはようやく落ち着きを取り戻しつつあった。当の本人といえば、それ以上何も言わずただ片腕で抱き締めるのみだったが、胸中のなまえの震えが収まってきているのを感じ、強張らせていた表情を少し緩めた。
「なまえちゃん」
名前を呼ばれ、泣き腫らした目で見上げるとあのブルーグレーの瞳は穏やかになまえを見つめていた。エレベーター内の冷ややかな視線とは真逆の雰囲気に、頭が混乱する。
貘は少し間を置いてから、静かに口を開いた。
「こんな時間だけど、何か飲みながら少し話さない?」
ゆっくりと頷き、貘に手を引かれてリビングルームに向かう。ここで命を賭けたやりとりがあったとも何かしらの暴力があったとも思えないほど部屋は片付いていて、なまえがチェックインしたときと何一つ変わらない光景があった。違いがあるとすれば、貘が座ったと思われる椅子にテールコートがかかっていたくらいだ。
「何か食べる?」
「……お酒、お酒が飲みたい」
「いいよ、頼もう」
貘が慣れた手つきでルームサービスを頼み、それが部屋に届くまでは互いに無言だった。何も言わず、何もせずただゆっくりとした時間が流れる。賭郎勝負が終わるまでの孤独感はなく緩慢で、それでいて柔らかな空気。
部屋のベルが鳴り、テーブルの上にワインといくつか軽食が並ぶ。なまえはグラスに注がれるワインをぼんやりと見つめ、ホテルマンが去った後貘が乾杯を持ちかけるまでふわふわとした気持ちのままだった。
二度目の乾杯は、無言のままグラスを掲げた程度だった。飲み込んだ甘さと渋さが喉を通るのが心地よい。そこで喉がカラカラだったことに初めて気づく。
「なまえちゃんはさ、賭郎勝負を見るのははじめて?」
静かな問いに、同じくらいの静かさで頷いた。貘は「そっか」と呟いてまたグラスを仰いだ。それを真似るようにワインを飲み干し、すぐさまグラスが満たされる。血のような赤い液体に、なまえは酔いか恐怖か少しくらくらとした。
「どうして搦手になったのか、聞いてもいい?」
先ほどとは違い少し悩んで、再び頷いた。己の過去を思い出すように、童話を語るように、ゆるゆると言葉を紡ぐ。
「……私の母も、搦手でした。恐らく祖母も。それ以前はわかりませんが、会員にはならずずっと搦手だったと聞いています」
「女性だけが受け継ぐ搦手、ね」
「父はこの事を知りません。ただ、賭郎のことは存じ上げております。賭け事に興味のない方なので、お金に困った知り合いに会員権を購入しないか持ちかけられたこともあったけど断ったと聞いています」
「堅実なんだ。……まあ、製薬会社の社長さんてそういうものなのかもね」
「陰謀論もよく聞きますが、まったく根拠はありません。父はとても誠実で堅実な方です。だからこそ彼との婚約も決めていました」
「彼の家って、言い方悪いけどなまえちゃんのお家よりはランクが下がるでしょ? どうして許可したの?」
それ以上を話していいのか、なまえは答えあぐねていた。貘は無理に聞き出すことはしないだろう。それでも己の家の恥部を晒すようで、話して楽になりたいような気持ちと、固く口を噤んでしまいたい気持ちに心がぐらぐら揺れている。
やがて決心したように、再びワインを飲み干してなまえは真っ直ぐ貘を見つめた。
「お恥ずかしいことに、父は彼のお父様に秘密を握られているのです。先ほど申し上げた通り陰謀論のような、会社に関わるようなことではありません。あくまで父自身の秘密です」
「……その秘密は、聞いても良いこと?」
「すべて、お話しします」
それを聞くと、貘も残りのワインを飲み干した。
***
「父には昔、母ではない別の恋人がおりました。ただ婚前のことで、私の出自や搦手であることは関係ありません。その恋人というのは、彼のお父様のお姉様でした」
「もしかして許されざる恋愛でした、みたいな?」
「いえ、むしろそのまま結婚する予定だったと。……ある日父はその方が病で倒れたと知らせを受け病院に向かいました。しかし、父が病院に着く頃には、もう」
なまえの言葉の続きを貘は静かに待った。恐ろしい童話を語るように、彼女は数度深く呼吸をする。
「その晩を越えることも難しいだろう、と。父は失意の中病室に向かい、その時彼女にこう言われたのです」
私を殺してくれ、と。
貘はふぅー、と長いため息をついて椅子に深くもたれかかって天井を見る。彼の脳内に自殺幇助の単語が浮かんで消えた。
正直なところ、貘はこのことをなまえに聞く前からすべて知っていた。それは何故か? 彼の持つLファイルにその事実が記載されていたからに他ならない。では今日この場に来て賭郎勝負を彼女の婚約者に持ちかけたのは何故か? それは彼女の父から賭郎に依頼があったから。彼が過去に揉み消した罪を知る男たちからその記憶を奪うために。貘は過去の雪井出との勝負を思い出し、再びため息をつく。
なまえの父は確かに会員ではなかった。しかし、彼女が搦手だと信じていた母こそが賭郎会員であり、その権利はつい最近主人である彼女の父に譲渡されていた。娘であるなまえを守るために、彼女の母は搦手となった。本来受け継がれていたのは搦手の役ではなく、会員としての権利だったのだ。
「申し訳ありません。こんな話、するものではありませんでした」
「いや、いいんだ。つらい話をさせてすまなかったね……ところでなまえちゃん」
「はい、なんでしょうか」
「もう少し飲まないか」
グラスに残りのワインを注ぎながら言えば、なまえは静かに頷いた。追加でもう一つシャンパンを頼んで、それを空ける頃にはなまえの頬は真っ赤に染まっていた。
「なまえちゃん、お母さんから搦手を受け継いだって言ってたよね」
「え、えぇ」
酔いで頭の回らないなまえは、ふわふわとした意識の中でなんとか返事をする。立ち上がった貘が今にも椅子から倒れそうななまえを抱き上げたが、抵抗する力も考えも残されておらず意外と逞しい胸元にもたれかかってベッドルームへと運ばれる。クイーンサイズのベッドは、男女2人乗ったところでそのスペースは埋まらない。
「君はもう、搦手卒業だよ」
「ど、して」
「君は会員になったんだ。会員と搦手が同じ人じゃ変でしょ」
「かい、いん……?」
貘の言っていることをひとつも理解できないまま、なまえはされるがままにパンプスとドレスを脱がされる。スリップのまま寝転がされているなまえを見ながらシャツのボタンを一つ二つと外していった。
「もう一つ勝負をしててね、俺はそれにも勝ったんだ」
「しょう、ぶ」
「そ。だからなまえちゃんが会員だし、なまえちゃんは俺が貰う」
「貘さんが……?」
「うん、貰うよ。俺、勝った取り分は即支払いじゃないと許せないからさ」
人をモノみたいに、となまえは言おうとしたが酔いのせいでうまく言葉にできなかった。そんな蕩けきった脳みそでもこの先の展開は十分予測できている。薄暗いベッドルームのはずなのに、貘のブルーグレーの瞳だけやけにはっきりと見えた。
「貘さん、嘘つき、ね」
なまえの呟きが何に対してかはわからなかったが、貘は少し目を細めると「そうだよ」と呟きゆっくりと彼女に覆いかぶさった。
***
『ねぇ、俺とアンタでも勝負しようよ』
『勝負……? 生憎私は賭け事が好きでなくてね、君に勝てそうなものなんて一つもないよ』
『じゃあ、俺たちが関与できないことに賭けよう。そうだな……なまえちゃんが秘密を話す、とか』
『ほう。……申し訳ないが、うちの娘は君を簡単には信用しないよ』
『じゃあ成立だ。俺は話すに賭ける。賞品はそうだな……アンタの会員権となまえちゃんにしよう』
『会員権は重複できないはずだが?』
『アンタの会員権をなまえちゃんに譲渡させる。それならできる』
『じゃあ、君は何を賭ける?』
『そうだな、じゃあーー』
貘さん、と己を呼ぶ声で目が覚める。体を起こせばシーツをぐるぐる巻きにしたなまえが恥ずかしそうにこちらを見ている。貘は少し眠そうな目で「おはよう」と声をかけた。
摩天楼の隙間から見える朝日が眩しい。まだ随分と早い時間のようだった。なまえの頭を数度ぽんぽんと撫で、立ち上がって伸びをする。
「シャワー、一緒に浴びる?」
「浴びません!」
「それは残念」
気怠そうにベッドルームを出ていく貘の背中を見つめながら、なまえは昨日パーティー会場で囁かれたことを思い出していた。
「何があっても俺を信じて」。そのたった一言が妙に心地よく、それでいて力強かった。だからエレベーターでのキスも耐えられたし、部屋に閉じ込められそうになった時も、ただ貘のことを見つめていた。彼ならきっと上手くやってくれる。事実として貘は彼との勝負に勝ち、すっかり彼の言葉に魅了されてお酒の勢いもあって自らの最大の秘密まで話してしまった。父は自分が秘密を知っていることも、搦手であることもましてや賭郎会員になってしまったことも知らない。それなのに、どうして絆されるまま全て告白して体まで許してしまったのか。すべてはあの不思議なブルーグレーの瞳のせいにすることしかできなかった。
「なまえちゃん、お風呂どうぞ」
「え? あ、わかりました」
いつの間にか着替えまでして戻ってきた貘に驚きながらなまえはベッドサイドに腰掛ける。立ちあがろうとした瞬間、貘は手を取り、目の前に跪いた。
「なまえちゃん」
「はい」
「倶楽部賭郎へ、ようこそ」
それはまるで新しい人生の始まりを告げるかのように、貘は手の甲に口付ける。
顔を上げたその瞳は、悪戯っぽく弧を描いていた。
早朝のスイートルーム。これは嘘を重ねた男と、いつの間にか真実を掠め取られた女の物語。