肩に降るアイ
アイスコーヒーひとつ、お願いね。
静かな店内に響く声色は柔らかい。オーダーを受けた店員は一礼してキッチンへと戻っていく。
ステンドグラスの窓越しに日差しを受けた男は、少し眩しそうにしながらテーブルにカラフルな影を落とすそれを見た。ふらりと立ち寄った喫茶店は、いわゆる純喫茶と呼ぶにふさわしいレトロな雰囲気で、実のところこの男もずっとその存在に気付いていなかった。通り沿いにあるのにまるで視界に入らないほどひっそりとしたこの店に、今日初めて足を踏み入れたのだった。
「お待たせいたしました」
男の目の前にアイスコーヒーのグラスが置かれる。その横に小さな焼き菓子の乗った皿が1つ。注文していないそれに少し驚いた表情を見せると、店員が「新メニューの試作品でしたので、サービスです」と言った。
「そうなんだ、ラッキーだな」
”運の良さ”は無いと自覚している男にとって、それは顔を綻ばせるには十分だった。ふと目を細めた彼の顔を見て、店員は少しだけ顔を赤くして焦ったように去っていく。
そんな様子を気にも留めず、男はストローに口を付けた。
久しぶりの一人の時間は男の心をゆっくりと解きほぐしていく。喧騒から切り離された空間は居心地良く、コーヒーを飲み終わった後もしばらくぼんやりとして、氷が2度からんと音を立てた頃、思い出したように席を立った。
「ごちそうさま」
「ありがとうございます。……お菓子、いかがでしたか?」
「うん、美味しかったよ。ありがとう」
ベルの音を鳴らしてドアの向こうに去っていく彼の背中を、じっと見つめて見送った。
胸の内で「格好良い人だったな」と思いながら男が座っていた席の片付けに向かう。テーブルの上には、空になったグラスと皿。それから器用に折られたストローの袋が置いてある。思わず手にとって見るとそれは花のようだった。
ふと、店の奥から声を掛けられると、慌てて残りを片付けてぱたぱたとキッチンへと戻っていく。
「なまえちゃん、ちょっと買い出しお願いしたいんだけど」
「わかりました」
「ごめんね。これメモ」
なまえと呼ばれた彼女はメモを受け取ると、制服代わりのカマーエプロンを脱ぎ代わりにカーディガンを羽織る。裏口から出た外の陽は眩しさの中に柔らかさを孕んでいて、徐々に夕暮れに近付いていっても、伸びてきた昼間の時間はまだ今日を終わらせまいと懸命に辺りを照らしているようにも思えた。
通りの少し先の商店街まで歩く道のりは心地よい。時折吹く風がなまえの髪の毛をふわりと遊ばせた。履き慣れた黒い革靴のつま先が、光を受けてきらりと輝く。うっとりするほどの天気だ。
(さっきの人……外、見てたな)
彼もこの暖かさに誘われて店に来たのだろうか? 特徴的な銀髪と蒼い瞳。あんな美形が近くに住んでいたらきっと噂になっているだろう。だが、あの店でもう何年も修行しているなまえも彼のことは知らなかった。さしずめたまたま見かけた店に立ち寄ったくらいか。と考えてふと振り返る。もう遠くになった店は、蔦に覆われた煉瓦作りのちょっと古っぽい見た目をしている。昨今はレトロ喫茶ブームだなんだとうるさいが、あまりにもひっそりとしすぎて気付かれないものだからほんの少し寂しくもある。店に来る客は、大概がマスターの昔からの馴染みの人ばかりだ。
店を出た理由をはっと思い出してなまえは再び前を向いて歩き出す。傾きかけた太陽は、商店街の奥の高層ビルに隠れて見えなくなってしまった。
***
カランとベルが鳴り、なまえはカウンターの中からドアの方を見た。昼時のピークが落ち着いた午後2時。常連客の1人にちょうど水を出して戻ったところに現れたその人は、昨日の銀髪の男だった。
「1人なんだけど、大丈夫?」
「勿論ですよ。……昨日と同じお席になさいますか?」
「覚えていてくれたんだ。じゃ、お言葉に甘えてそうしようかな」
アイドルタイムにテーブル席を独占する客はこの店にはほとんどいなかった。彼1人なら問題ないだろうと昨日と同じ席に案内する。陽の光は今日もステンドグラス越しに影を落としている。床板が少し軋み、革靴の音をドラムのように規則的に鳴らしながら男はなまえの後を付いてきた。
「今お冷やをお持ちいたしますね」
なまえはカウンターに戻り、グラスに水を注いでトレンチの上に乗せる。年季が入っているがピカピカに磨かれているグラスはマスターが趣味で集めていたものだったが、今となってはすっかりなまえの方が気に入っていた。
淡い水色のグラスを置くと、ゆるりと細められた視線がなまえを射抜く。心臓がどくりと跳ねそうになるのを感じながら「ご注文がお決まりになりましたら呼んでくださいね」と声をかけた。
「君のオススメは?」
「オススメですか? そうですね……お客様が昨日飲まれていたアイスコーヒーも良いですし、レモンスカッシュも意外と人気なんですよ」
「へぇ。どうして?」
「レモンシロップをお店で手作りしてるんです。今日みたいな日は特に合いますよ。……あ、蜂蜜と生姜は苦手ではないですか?」
「大丈夫だよ。美味しそうだから、それにしようかな」
「ありがとうございます。今ご用意しますね」
足の長いグラスにシロップを入れて炭酸水を注ぎ込む。パチパチと弾けた泡の音を聞きながらスライスしたレモンを添え、それからまるでアクセントを付けるかのような真っ赤なさくらんぼを氷の上に乗せると、見慣れたレモンスカッシュが出来上がる。なまえが子供の頃から慣れ親しんだ、憧れと思い出の味。昔はひりついた生姜の味が今では何よりも大好きだった。
トレンチにコースターとグラスを乗せて再び窓際の席へと向かう。
「お待たせいたしました」
コースターをセットしてグラスを置くと男の目はまるで少年のように大きく丸く見開かれた。
なまえを見たその瞳が宝石のようなブルーグレーであることに気付いて、己の心臓が今度ははっきりと大きな鼓動を打ったことがわかった。彼はそんなことにもちろん気付くはずもなく、きらきらとした表情でグラスとなまえを数度見比べる。
「すごいな、理想のレモンスカッシュって感じだ」
「ありがとうございます」
礼をしてカウンターの後ろを通ると、常連客の男が小さな声で「なまえちゃん、ずいぶん楽しそうだねぇ」と声をかけた。
小さく微笑みながら空いた皿を下げて、何事もなかったかのように振る舞いながらキッチンに入る。
片付けを終えてマスターと入れ替わるようにフロアに戻り、なまえはこっそりと男の背中を覗き見た。昼下がりの眩しい光を受けながら、テーブルに肘をついて何かを考えているようにも、ただぼんやりしているようにも見える。ただ、彼女にはその光景がやけに美しく見えて、少しだけ目を細めた。
彼の飲み終えたレモンスカッシュのグラスから氷の音が数度した頃、トントンとドラムのような足音がしてなまえは顔を上げた。書きかけの伝票の上にペンを置いてレジへと向かう。
「ごちそうさま」
「ありがとうございます。580円です」
財布を取り出した長い指先が、少しだけ困ったように一瞬動きを止めた。
「ごめん、大きいのしかないや。大丈夫?」
「構いませんよ」
まっすぐで折り目のない一万円札を受け取り、丁寧な手付きでおつりのお札を数える。それから残りの小銭を渡そうとして触れた手が存外に暖かくて、なまえは思わず小銭を数枚落としてしまった。
謝罪しながらそれを慌てて拾い上げ、金額を数えてから改めて別の小銭を渡す。
「それで大丈夫だったのに」
「いえ、そういうわけにはいきませんから」
「気の利く子なんだね。……また来るね」
「ありがとうございます。お待ちしてますね」
昨日と同じように店を出る背中を見送ってから、ふうと息を吐く。彼女にしては珍しい失敗だった。常連客ばかりの、しかも自分にとって昔から馴染みのあるこの店はまるで勝手知ったる場所のようにも思っていたし、それ故か仕事をミスする……しかも手が触れて小銭を落とすなんてことは彼女にとってはあり得ないことだった。
手を握り込むような客のあしらい方だって上手な方と自負していたのに、歳の近そうな異性が一人来たからってこんなにも動揺してしまうとかとほんの少しだけ落ち込んでしまう。
マスターは、カウンター越しに「珍しいこともあるもんだ」「恋ですかね」と常連客とこっそり耳打ちしながら彼女を見つめていた。
気を取り直すようにもう一度大きく息をついて、片付けをしようと先ほどまで彼が座っていた席へと向かう。ストローの袋はまた花の形に折られていた。それをこっそりとカマーエプロンのポケットに忍ばせた。
夕方にかけて、客足は少しずつ増えていく。打ち合わせをする二人組や一仕事終えたのか手帳片手に息をつくサラリーマンの間に、がんばったご褒美ねとプリンを前に笑う子供連れ。日常の些細な幸せや安らぎをを与える空間であるこの店がなまえは好きだった。
外からわずかに聞こえる喧騒と相反するゆったりとした空気を感じているうちに、なまえも段々と元気を取り戻していった。
「今日もお疲れ様」
そう言ってマスターが店のシャッターを閉めてから二週間。彼は一度も店には来なかった。
***
また来ると行った人間がもう現れなくなるなんてことは、彼女にとって日常茶飯事だった。旅先でたまたま立ち寄った人間や、常連でも理由があって長い期間来れなくなったなんてざらにある。だからこそ、彼女は彼の残した言葉は所謂”社交辞令”でまた会えたらラッキーだな、くらいの感覚でしかなかった。
天気予報が雨を告げた日の夜も、なまえは普段と変わらない一日を終えて傘を開いた。通りに面しているとはいえ、古い街の店となれば人はそこまで多くない。なんとなく嫌な予感がして、いつもより少し用心して帰り路を歩く。
ぱしゃりと音を立てて水の跳ねた先、小さな児童公園のベンチに人影が見えた。街灯の下でうなだれているようなその人は傘もささずにずぶ濡れている。関わってはいけないと足早に公園の前を通った瞬間、その人影が動いて思わずそちらを見た。
人影は、あの男だった。
びしょびしょになった銀髪が雨粒を滴らせて、男は立ち上がろうにもバランスを崩して再び座り込む。それを見たなまえはわけもわからないまま彼の元に駆け寄っていた。
「だ、大丈夫ですか!?」
「んー?」
ベンチにもたれた男は気怠げに顔を上げた。それから街灯でわずかに照らされた顔を見て「あぁ、喫茶店の」と小さく呟いた。
傘を差し出したなまえは鞄からハンカチを取り出してその顔を拭ったが、男はそれを静かに制する。
「大丈夫だから。濡れちゃうよ?」
「あなたが全然大丈夫じゃなさそうですよ。どうしたんです? こんなところで」
「うーん、ちょっとね」
ちょっとと済ませるにはあまりにも不気味な光景だったが、それを気に留めるとこなくなまえは傘をもう少し男の方に向けた。彼女の背中が濡れていることに気づいたのか、男は申し訳無さそうに再び立ち上がる。
「君が濡れちゃうのは、だめだよ」
蒸れたアスファルトに混ざってアルコールの香りがした。相当な量を飲んでいたのか、男はまだふらついている。半ば無理やりその肩を支えて横並びになると、小さな声で「ごめんね」と謝罪した。
男の体はその見た目と反して意外と重さがあり、なまえは傘を落とさないようにしながら公園を出た。亀のような速度で駅の近くまで行けばタクシーが数台止まっているのが見える。手を上げればドアの開いたそれに無理やりに詰め込んで、その隣に乗り込む。
少し迷って、自宅の住所を告げた。男は少々驚いた顔を見せたがこうなった以上何も言えないのだろう。言葉をかけることもなかった。
10分ほど走ると一軒のアパートの前でタクシーは止まった。うつらうつらとしていた男は肩を叩かれて隣のなまえを見る。せめて料金をと思い財布を出す前に彼女はさっさとお金を渡してしまった。
「降りられますか?」
「うん、大丈夫」
今度は手を借りるくらいで彼は車を降りた。二階に上がる階段まで彼女はまた傘をさして、その気遣いに再び「ごめんね」と告げる。彼女は返事をするわけでもなく、ただ静かに隣を歩いた。
雨は止まない。解錠のガチャガチャというも雨音に吸い込まれるように消えてしまった。ドアの開いた先の部屋は、少し湿度の高い空気と共に仄かな甘さを孕んでいて、まだアルコールの残っている男の頭を少しくらくらとさせた。
導かれるように玄関に入り、先に部屋の奥へと消えた彼女はタオルを手に戻ってくる。自分の姿がまるで濡れ鼠のようになっていることを思い出して苦笑した。
「とりあえず拭いてください。あの」
「……貘。貘でいいよ」
「ばく、さん。……お風呂沸かしてきます」
受け取ったタオルで全身を拭くが、全身びっしょりと濡れてしまっているせいか水を含んであっという間に重くなる。びしょびしょになったジャケットを脱いで一度ドアを開け外に出ると無理やりにぎゅうとそれを絞る。大した意味はなかったが、気分的にそうせざるを得なかったのだ。
「貘さん、何してるんですか?」
中から声をかけられる。今度は水の入ったペットボトル片手にやってきた彼女も髪の毛の先を濡らしていることに気付いた。再び玄関に戻って渡された水を一気に飲んだ。自分が思っているよりも喉が乾いていたのか、500mlのペットボトルはすぐに半分ほど容量を失った。
「シャワー浴びてください。風邪引いちゃいますから。……スーツ、洗濯しても大丈夫ですか?」
「ごめんね、何もかも」
「あんまり謝らないでください。そりゃ、びっくりはしましたけど」
なかなか靴を脱がない彼を気遣ってか、なまえは洗面所までの廊下にタオルを敷いていく。それを見た貘は靴下まで脱いでタオルを辿るようにしながら洗面所に向かう。
彼女は何も聞いてこなかった。ただその優しさだけで2度しか会ったことのない男を家に上げて、風呂まで沸かしてくれている。その危うさと純粋さに貘は少々驚きながらも黙って言われた通りにしている。
「脱いだらこれと……下着はこっちに入れて洗濯機の中に入れておいてください。その、縮んだりしたら申し訳ないですけど」
「いや、それだけでもありがたいよ」
「着替えは置いておきますね。……さすがに下着は無いんですが」
「ここまでしてもらってそんなワガママ言えないって」
「じゃあ、ごゆっくり」
「うん。ありがとうね」
扉を閉めるとなまえは大きくため息をついた。放っておけなくて家まで連れてきてしまったが、店に来たこと以外何も知らない男を女一人の部屋に上げてしまうなんて、我ながらどうかしている。しかし今更出て行けとも言えない。
敷いていたタオルを回収しながら寝室に戻り、随分前に元カレが置いていったスウェットを引っ張り出す。疎ましさで捨てるのも億劫になっていたそれに、彼女は初めて感謝した。
シャワーの音がするのを確認してから再び洗面所に戻る。かごにスウェットと新しいタオルを用意し、洗濯機のボタンを押した。残りの洗濯物とタオルは次に洗おうと部屋に戻る。
貘が上がるのを待ちながら自身も部屋着に着替えて軽く掃除をする。久しく人を上げていなかった部屋は、汚さこそないが少々生活感がにじみ出ていた。不要なチラシなどをゴミ箱にぽいぽいと放り投げてテーブルの上を片付ける。夕食をどうしようかと冷蔵庫を開けたところでがたがたと物音が聞こえた。
「あ」
「ドライヤー、借りちゃったけどよかった?」
「えぇ、大丈夫ですよ。……お腹空いてます?」
「……ちょっとね」
「私もまだなので今用意します。座って待っててください」
作りおきのおかずやその他の食材を取り出しながらなまえは言った。慣れた手付きで卵を割り溶き、あっという間に一品作り上げてしまう。その姿を貘はぼんやりと眺めていた。それから店のカウンターの奥の彼女を想像してほんの少しだけ口角を上げる。
己がそんな表情をしたことに気付いて、貘は静かに驚いた。出会って間もないどころか店で二度接客を受けただけの関係だ。それに、先程自分は名乗ったが彼女の名前を聞くのをすっかり忘れていた。ソファー越しに背中を伸ばしたままねぇ、と呼びかける。
「名前聞いてなかった」
「そういえばそうですね。貘さんのお名前聞いたっきりでした。……なまえです。みょうじなまえ」
「へぇ、なまえちゃんね。可愛い名前」
そう返した言葉は我ながら軽薄だな、と自嘲する。男物のスウェットが出てくるということは彼氏がいたっておかしくないだろう。自分のせいで彼女が責められたらと思うとさすがに忍びなくなり忙しなく動き続ける彼女を見つめたまま言葉を続けた。
「これ、彼氏さんのでしょ? ごめんね、迷惑かけて」
貘の言葉に返事はなかった。代わりに皿を手にすたすたと歩いてきたなまえは、貘の目の前にオムレツとポテトサラダを置いた。そのまま無言のままキッチンへと戻る彼女を慌てて追いかけて「気に障ったならごめん」と謝罪する。なまえはそれに対してまたしてもなんの返事もしなかった。無言のまま茶碗にご飯をよそい、汁椀にはインスタントの味噌汁を入れてお湯を注ぐ。それを半ば貘に押し付けるように持たせるとそこでようやく「いいです。さ、食べましょ」とだけ言った。
「あ……そうだね」
先ほどのようにソファ向かい並べられた料理たちを見ていると貘の腹がきゅうと空腹を訴えた。自分の分の夕食を持ってきたなまえは、やや遠慮がちにしながら貘の隣に腰掛ける。
「ごめんなさい、座るとこ他になくて」
「いや、俺が邪魔しちゃってるから」
ソファに合わせた高さのテーブルは2人で並ぶと少々窮屈に感じられたが、文句を言っている場合でもない。手を合わせ食べ始めたはいいものの、話すきっかけも話題もないまま、ただ無言の時間が過ぎていく。時折「これ、美味しいな」と手料理を褒める言葉とそれに対して「ありがとうございます」と礼を交互に言うだけで時間はゆるりと過ぎていく。
なまえの視界の端にふと貘の手が目に入った。よく見ればそこに本来あるはずの小指がない。気になりはしたが自分が聞くことでもないと浮かんだ疑問をしまい込む。その些細な異変に気付いた貘の方から「ちょっと色々あったんだ。別に、そういう組の人じゃないよ」と話しかけた。なまえは何を言っても失礼になる気がして、囁くように「そうですか」と返すことしかできない。少々居心地の悪い空気になりながら夕食を食べ終えた。
皿を片付け終えてからも、何も聞けずじまいだった。2人ソファに腰掛けた空気は重い。外ではだんだんと強くなった雨が窓を叩いている。
「……あ、洗濯」
思い出したように言ってなまえは立ち上がる。それを追うようにして貘が付いてきたが制そうとしたところで「ほら、下着とかもあるし」と言われて立ち止まった。確かにそうだ。数年前までは男の下着など当たり前のように洗濯していたが、あれは付き合っていた人間だからやっていたことで、客とは言え見ず知らずの人間に対してすることではない。
仕方なしに貘と洗面所に戻り、洗濯機の扉を開ける。ドラム式洗濯機の乾燥機能で無理矢理に乾かしたスーツは少々シワが寄っていたが、アイロンを当てれば多少マシになるだろうとうなずく。
なまえの背後から貘がひょっこりと顔を覗かせた。場所を交代して「ちょっとアイロンかけてきますね」と告げて洗面所を出る。さすがに下着まで取り出して渡す勇気は彼女にはなかった。
リビングの洗濯スペースにスーツをかけて、その奥に置いていたアイロンと台を引っ張り出す。ここ最近はきちんとシャツのシワを伸ばすこともなかったな、なんて考えながらタンクを取り出してキッチンへと向かい軽くすすいでから水を流し込んだ。以前は置き去りにされたワイシャツを丁寧にアイロンがけして返したりもしていたが、そんなことはもう過去の話だ。
用意しているうちに貘も戻ってきたのか、ソファに腰掛ける音が聞こえる。彼もまた何も言わないままなまえの様子を見つめていた。
「……彼氏ならいないですよ」
貘の思考を先読みするかのように告げる。やわらかな否定は妙に心地よく腹に落ちて、思わずそう感じたことに貘も静かに驚いていた。返事をしなかったのは先程の仕返しか、それともかける言葉が浮かばなかったのかは彼自身もわからない。それでもただ静かに、そして穏やかな表情でスーツがぴんと仕立てられるのを待っていた。
「今日は、さ」
なまえがスーツをハンガーにかけるのを待って、ゆっくりと口を開いた。ちらりと伺い見た時計の針は22時半を回ったところだ。
「死んだ仲間のことを思い返しながら飲んでたんだ。その時もひどい雨で……今日みたいに全身びしょびしょになって、ぼんやり寝転んでたよ」
片付けをしながら続きを待つ。それから振り向いて貘の顔を見ると、彼は悲しくなるほどに優しい眼差しでなまえのことを見つめていた。
蛍光灯の下の瞳が作り物のように光る。泣いているようにも、笑っているようにも見えるその表情から目を逸らせないままじっと見つめ合う。見えない糸に絡め取られ動けないなまえは、薄ぼんやりとした意識でブルーグレーが一瞬強く輝いたように見えてーそれから轟音と共に消えた照明に驚き体を跳ねさせた。
「きゃっ」
反射的に頭を押さえてへたり込んだなまえを温かい何かが包み込んだ。嗅ぎ慣れた洗剤やシャンプーと混ざって、知らない香りがふわりと漂う。
真っ暗な視界の端で何かが煌々としている。よく見ればそれは懐中電灯代わりのディスプレイの光だった。薄ぼんやりと照らされた銀の輝きに、ようやく事態を飲み込む。耳元で囁かれた「近くに落ちたみたいだ」という一言がなまえの心臓をどくどくと跳ねさせた。
「そう、みたいですね」
「大丈夫、すぐ戻るよ」
まるで子供に言い聞かせるような優しい声色と、急速に近付いた距離のギャップでなまえの頭はぐるぐると回る。それでもいくらか落ち着いたのが伝わったのか、熱はゆっくりと離れていく。
「驚かせてごめんね」
「あ、いえ」
少し遠い位置でディスプレイの光が灯っている。手探りで立ち上がってカーテンを開けると辺り一面暗闇に包まれていた。どうやらかなり近くに落ちたようだ。強い雨音で外からの音は僅かにしか聞こえないが、パトカーのサイレン音だけが鳴り響いているのがはっきりとしていた。
「参ったな」
貘の声になまえは思わず振り返る。先ほどと違う場所に光があるのは携帯をテーブルに置いたのか、はたまたソファに腰掛けているのか、完全に暗闇には慣れていない目をよくこらして少々へっぴり腰になりながら勝手知ったるはずの部屋を進んでいく。指先が少しざらついた布地に触れた。ぺたぺたと確認しながら腰掛けるとようやく少し安心した気持ちになる。暗闇というのは恐怖心を駆り立てるには十分だった。
「もう少ししたらお暇しようと思ってたんだけど」
「そんな……こんな天気ですよ?」
「まぁそうだけど」
濁された言葉の続きを聞こうとしたところで、再び瞬いた雷光にぎゅっと目を瞑った。すると、再び見えないぬくもりがなまえを包み込む。そのぬくもりは「嫌だったら、言って」と呟いたが思わずふるふると首を横に振った。こんな時に一人にされるのは正直言って御免だったし、あまり高くない体温の貘の存在はゆっくりと落ち着きを与えてくれた。
見ず知らずの人にこんなに甘えて情けないとは思っていた。名前しか知らない彼はどうしてこんなにも優しいのか。店でたった二度ばかり接客をして、あの雨の中で彼を見つけただけの関係。自分の中で沸き立つ感情は「恋」と呼ぶにはあまりにもお粗末で、非常時故の吊り橋効果だと腕の中で己を律した。
ふと、なまえを抱く力がほんの少しだけ強くなった。耳を胸元に押し付けるような恰好になり、線の細さの奥の男性らしさをより強く意識してしまう。とくとくと少し早い鼓動の音が聞こえて、暗闇の中なまえは貘の顔を見上げる。無論、その表情見えないままだ。規則正しいその音は、彼の足音を思い出させた。少し軋む床板をまるでドラムのように鳴らしたあの足音。
「貘さん」
なまえの声は存外小さく、響かない。外の雨音と雷で簡単にかき消されてしまいそうだった。今度は貘が耳を寄せるようにまた少し力を込める。
ふ、と部屋が一段と暗くなった。ディスプレイの光が消えたことにも気づかないほど身を寄せ合って、囁き声で言葉を交わす。
「……その日も雷だったんですか?」
「雷……あぁ、どうだったかな」
覚えてないんだ、と前置きした貘の髪の毛が頬をくすぐった。身をよじれば更に絡められる腕が、手が、なまえの体を掻き抱く。
「雷は覚えていないけど、花火のことは記憶に残ってる」
「花火……?」
「うん……綺麗だった。皆で見たんだ。音と光がすごくて……はは、懐かしいな」
優しさと悲しさを孕んだ声色になまえの胸がひどく痛んだ。もうこの世にいない人を思う彼は、どんな気持ちでこの雨中佇んでいたのか。まるで涙を流すことすら許されず、自ら罰を受けに行くかのようにも見えた。あの日の当たるステンドグラスとは真逆の暗い闇に引きずり込まれていきそうな不安感に、貘から伝わる体温すら偽物なのでは? と錯覚する。
動けない2人は、まるで滑稽なひとつの生き物のようにも見えた。衣擦れの音が僅かにしてなまえはふと貘の胸元から顔を出した。ようやく暗闇にも慣れた目は、作り物のような造形の顔を見つめる。ぼんやりと捉えた輪郭は何か言いたげに薄く口を開いては閉じた。
「君は、どうしてあの店で働いているの?」
「わ、私ですか? ……昔から大好きで通ってたんです。いつか働くのが憧れで」
「そうなんだ。いいね、そういうの」
それが本心か世辞かはわからなかった。少々戸惑った表情で再び顔を寄せる。段々と気持ちは冷静になってきて「なぜ抱きしめられているのか?」と脳裏に疑問が浮かんだが、今更拒否するのも変だろうとそのままため息をついた。
「……嫌なら離れるよ、ごめんね。それこそほら……やっぱり彼氏とかに申し訳ないし」
「だからいませんよ、彼氏」
「それ本当? さっきも嘘だと思ってた」
「嘘ついてどうするんですか。悲しくなるので何度も否定させないでください」
貘から上がった声が思ったより素っ頓狂で、強い言葉を返しつつもなまえは少しだけ笑ってしまう。一方の貘はと言うと、露骨に不満げな声色で「こんないい子が1人とは思わないでしょ」と告げた。
「料理も上手だし、優しいし……ちょっと不用心だとは思うけど」
「それはまぁ、私も思います」
「俺みたいなの家に上げたりさ、こうやって抱き締めても逃げなかったり。……危ないよ?」
「じゃあ離れましょうか」
「あぁ、待って。たんま」
嫌なら離れると言ったのは貘の方なのに……となまえは言いかけたが止めることにした。それはなぜかと問われればうまい答えを上げることはできない。答えあぐねているうちにテーブルの上で何かが振動する音が聞こえた。それを取った貘がなまえに手渡すと、ディスプレイには地域の停電が解消されたことを告げる通知が出ている。
「そうだ、ブレーカー上げないとね」
「そうですね。試してみましょう」
「俺やるよ。場所教えて?」
ソファから立ち上がり、先ほどのようにディスプレイの灯りで部屋を照らしながら玄関のブレーカーボックスまで案内する。シューズボックスに少し乗っかるような格好でブレーカーを上げると、数度明滅して点灯する。それに少し安堵すると同時に、なんとなくバツの悪そうな表情を見せた貘を見て首を傾げた。
「雨もちょっと落ち着いたみたいだし、俺そろそろ行くよ。女の子の家に見ず知らずの男が泊まるのも良くないしね」
「でも」
言いかけた唇に貘の指が触れた。それからゆっくりと頬を撫でて、リビングに戻ってしまう。
「着替えてもいいかな?」
「えぇ……どうぞ」
彼が出ていくと言うのだから、それを止める術をなまえは持たない。あくまでも彼は店に来た客で、たまたまこの天気の中いたところを雨宿りさせだだけにすぎない。
閉められた扉の奥を思いながら、なまえは少し複雑そうな表情で玄関のドアを見つめていた。
「なまえちゃん」
声をかけられて振り向く。スーツに着替えた貘は店で見たときのようなあの完璧な美しさに戻っていた。安っぽいLEDの照明の下でも銀髪はキラキラと輝いている。
「今、迎え呼んだからもう少し待たせてもらってもいい?」
「えぇ、それはもちろん」
「ありがとう」
今度は2人で部屋に戻る。ソファに並んで座ってももう抱きしめられることもなく、間に空いた隙間が少しだけなまえをもの悲しくさせた。彼がこの部屋を出て行ったらもう二度と会うことはないような気がしてぎゅっと唇を噛み締める。
自分と貘が生きる世界が違うのは、心の中ではもうわかりきっていた。
「……なまえちゃん」
「なんですか?」
「またお店、行くよ。必ず」
「えぇ……お待ちしていますね」
そうは言っても終ぞ現れることのない客ばかりなことをなまえは知っている。きっと彼もそうだろう。今夜のことは自分の心の中に思い出として残せればいいとも思っていた。貘に出会った瞬間の衝撃はそれこそ雷や花火に近い。一瞬の煌めきを抱けただけでも良い、と彼女は笑む。
貘はなまえの顔をじっと見つめて、何も言わないままふと顔を逸らした。それがすべてだと悟って、その後は何も言葉を交わすことはなかった。
「……あ」
無言の間を割くように貘が立ち上がってなまえに背を向ける。電話が来たのか小さな声で「心配かけてごめん、梶くん」とだけ聞こえた。呼んだと言っていた迎えが到着したのだろう。
振り返った貘は少し眉を寄せて「じゃあ行くよ」と告げた。なまえは頷くと玄関まで彼を見送る。
「靴、乾かせなくてごめんなさい」
「いいよ。ここまでしてもらっただけでもありがたいし。……それじゃ、また」
「えぇ。……さよなら貘さん」
閉じられたドアの向こう、雨はまだ降り続いていた。どんどん遠くなる足音は痛いくらいに胸を締め付けた。
***
一晩明けて快晴の朝を迎えると、なまえの日常はこれまでとまったく変わらないことを思い知らされた。スウェットに残された彼の残り香に一つため息をついて洗濯機に放り投げる。他の着替えと一緒にがらがらと回るそれをしばらく見つめてから出勤の準備に取り掛かる。
店に着くとマスターと昨日の雨の話で少し盛り上がったが、それもすぐに話題は尽きて無言のまま開店の時間を迎える。その日は勿論貘が来ることはなかった。次の日も、その次の日も彼は店に現れず、やがて彼女の記憶からもあの夜のことは少しずつ薄れていった。
毎日変わり映えのない日常。ステンドグラスで色付いた影だけが変わらずあの席を照らしていた。
「いい天気だなぁ」
思わずそう呟くほどの晴天だった。掃き掃除を終え、ぐいと背を伸ばして息を大きく吸い込むと、心地よい空気が肺を満たす。今日は天気もいいからこのままドアを開けていようか、と思案しながら店の中に戻ってカウンターの奥でノートをパラパラと捲る。そろそろデザートセット向けの新しい菓子の試作も始めなければならない。
洗った手を拭いながらページを見ると、ふと一つのレシピが目に止まった。そこに書き記してあるダックワーズは数ヶ月前に試作で作ったきりだったな、と記憶を辿るようにしながらキッチンに入る。
今月はこれを少しアレンジして……なまえがそう考えながらボウルを手にしたところでカランとドアベルが響いた。焙煎作業をしているマスターを横目になまえは慌てて表に戻る。
「いらっしゃいま……せ」
「久しぶり」
その客はなまえが案内するよりも前に彼女に歩み寄る。少し軋む床の上、革靴でトントンとドラムのような足音を響かせて。
「ね、窓際の席空いてる?」
何も言えないまま頷くなまえの手を取って、まるで男がエスコートするように席につく。ステンドグラスの柔らかい光が男の輝く銀髪に色付きの影を落とした。
「また来るって言ったでしょ?」
「……遅いですよ、もう」
泣きそうになる彼女の唇に指を添えて、それからゆっくりと頬を撫でた。
「約束したのに遅くなっちゃってごめんね。君のことは、1日たりとも忘れたことなかった」
「もう……来ないと思ってました」
「約束したでしょ? ……ね、次からはなまえちゃんに会いに来たいんだけど、いいかな」
男の突然の申し出になまえは少し目を丸くして、少し疑うような表情で「本当に?」と問う。
「俺、そんなに嘘つきそう?」
「正直、すごく」
「残念。俺は嘘を食べる方なんだ」
「なにそれ」
「本当だって。……まぁ、後で色々説明するよ」
男は笑ってなまえを見る。細められた瞳は以前と変わらず美しいブルーグレーのままだ。
「とりあえずまた、レモンスカッシュを貰おうかな」
「わかりました、貘さん」
微笑んだなまえをカウンターの奥に見送って、貘はステンドグラスの奥の外を見つめた。あの雷雨とは正反対の光に照らされたまま、ゆっくりと瞳を閉じる。
それからあの夜のことを思い出す。島での冷たい雨と、彼女に触れた日の雨の2つの夜。彼女についてまだ知らないことばかりなのに、貘はこの先が平穏で幸せなものになることをなんとなく予感していた。
(恋愛で毒気抜かれたらギャンブラー失格だな)
それでも今この時だけは、ひと時の幸せに身を包まれることを望む自分に思わず苦笑しながら、彼女があのレモンスカッシュを運んでくるのを待つばかりだった。
「――たまにはこういうのもいいね」
小さな呟きは光に吸い込まれて、穏やかな時だけがゆっくりと流れていった。
ワードパレット:アコルダール(一目惚れ・耳・足音)
リクエストありがとうございました