星と踊る獣


 
 波の音を聞きながら歩く海岸の風は少し肌寒かった。私の数歩先を歩く彼女から少し調子外れの鼻歌が聞こえる。彼女の足取りは軽やかで、ご機嫌そうな表情のままこちらを向いた。
 
「天気、良いですね」
 
 言われるまで意にも介さなかったが、夕方近くとはいえ日差しは心地よい。それでも風は冷たいのも確かで、スラックスの中に入れたままの両の手をそれぞれ拳にして「そうだな」と短く答えた。
 鼻歌と、砂に足を取られリズムの良くないスキップをするその姿はマリオネットのダンスのようにも見える。いつか気まぐれで見た喜劇をふと思い出したが、そのタイトルも内容も出てはこなかった。
 ふと立ち止まり、彼女を見つめる。私が止まっていることに気付かない彼女はしばらくスキップを続けて、それからくるりとターンをして随分と距離の離れた私を見て困り顔で駆け寄ってきた。
 
「課長、何してるんですか」
 
 動き続けているからか、それとも風のせいか彼女の頬は少し赤い。とは言っても薄く朱を差しているくらいなのだが、それが酷く幼く思えて思わず吹き出してしまう。すると彼女は不満げな顔で「何がおかしいんですか」と言うものだから、ますます面白くなってしまって「何でもない」とはぐらかした。
 今度は私の隣を大人しく歩いて、つまらなさそうに漂流物の小さな流木を蹴った。つま先に引っかかり見事に打ち上がったそれは私の前を通り過ぎて、海面にばちゃんと音を立てて落ちる。上がった飛沫は太陽の光を受けてきらきらと輝いてあっという間に海に還った。
 
「すみません! ……スーツ、濡れてないですか?」
「あぁ、大丈夫だ」
 
 先ほどとは一転してしゅんと落ち込んで眉が下がる。くるくると変わる表情はまるで変面のようだ。笑ってみたり、怒ってみたりと目を離した隙にどんどんと変わっていってしまう。
 ポケットから手を出しスラックスを少しつまんで「ほら」と彼女に見せると、少しも汚れのないそれを見て少し安心したようにはにかんだ。今度はやわらかくなった表情が一番彼女に似合うと思う自分がいた。
 
「あぁ、そうだ」
 
 変面でふと思い出した。
 
「君は、三国志を知っているか?」
「まぁ、触り程度には」
「ふむ……黄巾の乱、というのがあるだろう?」
「えーと……三国志の中でも昔の話ですよね?」
「あぁ、後漢末期の反乱だ。……その中の残党が白波谷という場所に籠もって略奪行為を行ったことから白波賊と呼ばれ、それが転じて白波は盗賊や泥棒といった意味を持っている」
「どういうことでしょうか」
 
 流木は既に沖にと運ばれようとしていた。それを指差して「こうやって泡立った波も白波と言うだろう? 2つの意味を持つ言葉なんだ」と言えば、怪訝そうな顔で彼女は少し唸る。
 
「それがどうかしましたか?」
「今となればこんな景色は人の心を揺さぶるが、当時とすれば恐るべきものを差す言葉でしか無かった。それから歌舞伎の白浪物も生まれたが、あれは元の意味とは違う義賊を差すことが多い」
「……課長の言うこと、私にはちょっと難しいです」
 
 気付けば流木は随分遠くまで流れて行ってしまった。
 困り顔の彼女を見て、こほんと咳払いを1つついてから「今と昔で複数の意味を持つ言葉もある、ということにしておこう」とまとめる。
 しばし無言のまま海を見つめていたが、段々と沈んでいく太陽は辺りに再び寒風をもたらして、小さなくしゃみに思わずそちらを見た。彼女は薄闇の中でもわかるくらいに恥ずかしそうな顔をして、消え入りそうな声で「すみません」と言った。
 
「君は謝ってばかりだ」
「……そんなつもりはないんですけど」
「行こう。さすがに私も冷えてきた」
「はい」
 
 遠くに見える灯りと、停めっぱなしの車。これから憂鬱になるほど汚いものを片付けて、明朝には戻らなければならない。潮風に背中を押されるように乗り込んだ運転席のひんやりとした革張りのシートが体を包んだ。
 免許の無い彼女と出る現場は、私が運転して向かうことがほとんどだった。後部座席で見るよりも広い視界は意外と嫌いではない。ハンドルを握ることも同様だった。
 少しだけエンジンを温めて、持て余した左手はシフトノブを握って離してを繰り返す。助手席の彼女はぼんやりとした表情で外を見つめていた。
 
「まだ出ない方がいいか?」
「……いえ」
 
 返事を聞いてギアを入れた。良く整備された車は少し重い唸りを上げて発進する。他の車の無い道路を非常にスムーズに進んで、予定の時間よりも早く到着すると、ひとまず近くの駐車場に車を停めた。
 海からは随分離れてしまった。それでも、少しだけ開けた窓からは微かに潮の香りがする。
 
「みょうじ」
 
 短く名前を呼ぶ。頷いた彼女は車から降りて深呼吸をした。
 先ほどまでの、明るい少女のような雰囲気とは違う。彼女から漂うオーラは酷く殺気を孕んでいて、それを制すように私もまた車から降りた。
 
「そんな顔をするな」
「あ、すみません」
 
 また謝罪すると、あっという間に殺気は消え去った。それでも、彼女がこんな表情を見せるのも無理はないだろう。何せ密葬課員としての初めての現場だ。今までも同行してサポートすることはあったが今日は違う。彼女が1人でターゲットを殺す。そういう予定だ。
 駐車場の先の廃工場にターゲットがいる。私は何もせず、彼女の働きぶりを見て、万が一苦戦するようだったらそれを助けるのが役目だ。
 彼女の暴は非常に優秀だ。あまり話を聞いていないしすぐ調子に乗ったりするが、埋もれさせてはいけない人材だと考えている。私や鷹さん、箕輪といった第一線で働ける人間が多いに越したことはない。ただでさえ人手不足な上、貴重な戦力は表向きの仕事で中々派遣できないのが実情だ。なるべく早く現場慣れしてほしい気持ちが無いわけでもない。
 それでも、育てた人材はすぐに警視庁上部の人間に付けられてしまうのだが。
 
「緊張しているのか?」
「正直、少しだけ」
 
 アップをするようにとんとんと小さくジャンプをする姿は海で見た姿を思い出させた。あのマリオネットのような動きとは違う、まるでダンスをするようにしながら血に塗れる姿を想像すると、少しだけ面白くなる。それを悟られないように内ポケットから卵を取り出してその中身を丸呑みにした。
 平時と変わらない私を見たからか、彼女もゆっくりと落ち着きを取り戻したようだった。放り投げた殻を見て「ポイ捨てはいけませんよ」と笑いながらそれを踏み潰す。
 くしゃ、と音を立てて潰れた殻は、まるでこれから起こす惨劇を表しているようだった。
 
「行こう。早くても遅くても変わらんだろう」
「はい」
 
 彼女に先行させて廃工場に近付いていく。中から聞こえてくる低い音はまるで獣の心音のようだ。
 今日の筋書きは何の面白味もない、非合法組織の取引現場に行って皆殺しにする。それだけのこと。簡単でつまらない仕事だ。それでも上に命じられれば何でもするのが密葬課としての役割なのだから仕方ない。法律というものはいくつも抜け穴があって、それを上手いこと利用する人間の立場によって如何様にも変えられてしまう。法によって裁けない悪を消すことが役割のはずなのに、随分と良いように使われているな、と自嘲することもあった。
 それでも辞することも無ければこうやって新人を育てることだって理由はある。社会から少しはみ出してしまった、しかし能力の高い者を埋もれさせておくにはあまりにも勿体無い。
 例えば嵐童のように、自分が大切に思う者を守るために力を行使するのは悪なのか? 箕輪のように生まれ持った才覚故に悩み、それを存分に活用出来る場所で振るうことは悪なのか? いや、違う。少なくとも私はそうは思わない。それが例え世の暗部だとしても、誰かの救いとなるのなら私はその場所を守るために長としてここにいる。
 
「……6人だ。いけるか?」
「大丈夫です」
 
 ふ、と彼女の雰囲気はまた変化した。それは先ほどの溢れ出るような殺気とは違う。まるで獣が狩りをするかのような静かで冷ややかな空気。肌にぴりぴりと伝わるそれが心地よい。
 廃工場の扉に手をかける。鍵が壊れて締められないことは調査済みだ。よくもまぁこんな場所で取引しようと思ったのかは理解に及ばないが、こちらからすれば都合が良い。あとは私がここを開けて、彼女を解き放つ。それだけだ。
 
「では、行っておいで」
 
 鉄の重い扉を引いて彼女の背を見送った。
 こちらを向いた男たちの驚いた顔は滑稽で、まず1人が飛び上がった彼女の膝蹴りを受けて崩れ落ちる。反射的に殴りかかろうとしたもう1人を体を捻るようにしながら避けた。音も立てずに着地したところを狙われたが、それよりも彼女の動きの方が遥かに速かった。
 男たちは思い出したように銃を取り出すが、普通の人間は例えアウトローであろうと銃を撃つことに慣れてはいない。奇襲を受けたなら尚更だ。安全装置を解除するよりも先に捻り上げられた腕はばきばきと音を立ててあり得ない方向に曲がってしまう。
 所作の1つ1つが美しかった。綺麗に伸びた爪先が肉を打ち、平拳が確実に急所を捉える。女とは言え決して非力でない、小さな獣が廃工場の小さなライトの下で踊り狂う。芸術作品を見るような気持ちで私はそれをじっと眺めていた。
 
「応援を!」
 
 そう叫ぶ男の喉を彼女の肘が突いた。吐き出した血を浴びて鬱陶しそうな顔を見せる。それすらも作り物のようだ。夢中で舞って、夢中で血を浴びる獣の周りにはやがて何もいなくなって、生き物だったそれらの中心で彼女は肩で息をしていた。
 
「……どうでしたか?」
「思った通りだ」
「それは、褒められているんでしょうか」
「褒めているつもり、なのだが」
 
 ぜえぜえと細い肩を上下させて、頬に付いた誰のものかもわからない血をぐいと拭う。綺麗に誂えられたスーツやシャツにはところどころ赤黒い染みが出来ている。彼女はそれを心底不快そうな目で見つめていたが、その瞳からは冷え切った雰囲気はもうすっかり抜けてしまった。
 
「1つアドバイスするとしたら、血が付くのが嫌ならもう少し距離を考えることだ」
「近すぎましたかね」
「急所を狙えているから十分だが、君はもっと動いて撹乱する方が得意だろう?」
「課長や箕輪さんたちはこう、拳でがつがついくじゃないですか」
「まぁ、各々のスタイルがあるからな。君は鷹さんの動きを参考にする方が良いと思うが」
「私だってえいやーってしたいんですよ」
「少なくとも、私はえいやーとは言っていない」
 
 片付けを終えて彼女が廃工場を出てくる頃には僅かな街灯と廃工場に残された灯りくらいしか闇夜を照らすものはない。代わりに上空の星々が眩いくらいに瞬いていた。
 
「着替えたいです」
「ふむ、何とかしよう」
 
 これらの死体は非合法組織同士の取引が決裂して争った、ということになる。ニュースになることもなく、警察内でも少々の謎を残して、しかし誰も追求することはなく片付けられる。
 歩きながら彼女はスーツのジャケットを脱いで寒そうに身を震わせた。こんな寒空の下でシャツ一枚になればそうなるのも無理はないだろう。車まで戻ってトランクを開けると、彼女は自分の鞄から着替えを取り出した。
 
「中で着替えれば良い。私は外で待っているから」
「汚れちゃいますよ?」
「別に、それくらいは気にしないさ」
 
 自分だってドロドロに汚れて乗ることも日常茶飯事だ。今更シートが少し汚れるくらい何とも思わなかったが、どうやら彼女なりに遠慮しているようだった。エンジンをかけて少しでも車内を暖かくしてから、車にもたれながら空を見る。
 夜空は美しかったが、それ以上に先ほどの彼女の方が私の頭に残っている。1人育て上げる度に、その美しさがいつも脳に焼き付く。彼女はどこまでやってくれるだろうか。いつか星の命が終わるように、美しく輝いて散ってしまうのだろうか。
 考え込んでいると、窓が開く音が聞こえた。振り向くと彼女が小さく「課長」と私を呼ぶ。
 
「どうした?」
「……手首、切れてて」
 
 窓の外に出された右手首はぱっくりと切れていた。幸いなことに脈は外しているようだが、それでもだらだらと血が流れている。アドレナリンが出ていたのか、ようやく痛みに気付いてきたのか、彼女は不安げに私を見つめていた。
 
「いたい……」
「だろうな。落ちていた破片か何かで切ったんだろう。さっきのシャツで患部を抑えるんだ。……乗ってもいいか?」
「はい、大丈夫です」
 
 運転席に乗り込み、着ていたシャツをきつめに手首に巻いた。本当なら少し裂けば良いのだが、女性の服をそうするのは少しだけ抵抗があって止めた。街頭に照らされた彼女は眉を八の字にして、泣きそうになっている。
 
「これくらいで泣いていたら今後の任務は務まらないぞ」
「だって、びっくりしたんですよ。血いっぱい出るし」
「血は嫌って程見ただろう」
「他人の血は平気です」
 
 密葬課員である以上、自分の痛みに鈍い方が活動しやすいだろう。しかし、それは彼女の美点であるということにしてひとまず病院に行こうと車を動かす。片手で携帯を操作して、近くで息のかかった病院がないか調べさせた。30分程走らせた先にある医者なら見てもらえるだろうと、少々荒い手つきでカーブを曲がる。車がいないのはここでも幸いだった。
 おおよその道筋を覚えて電話を切る。彼女は隣で「痛いなぁ」と呟いてどんどん赤く染まっていくシャツをじっと眺めていた。何だかんだ言ってもやはり痛みには少し鈍いようだ。というより、戦闘員として本能的にそうならざるを得ないと理解しているのだろう。人間らしい表情をしているのに、その感情は読めない。
 
「課長も怪我することってありますか?」
「相手にもよるがある」
「意外です。無傷でまったく変わりません、って感じだと思ってました」
「どんなに鍛えても人の拳は脆い。意図せずとも傷つくものだ」
「じゃ、私みたいな怪我もよくありますか?」
「いや、裂傷はあまりないな。相手が刃物の類を持っていれば優先的に無力化させる」
「銃は? 銃傷はありますか? あれって残るんですか?」
「今度見せてやるから少し落ち着きなさい」
「み、見せっ!? 脱ぐんですか!?」
「傷の有無を聞いたのは君だろう」
「見せてくださいとは言ってません!」
 
 アドレナリンのせいで多弁になっているが明らかだった。しかし、興奮されて余計に出血されても困る。医者のところまでどんなに飛ばしてもあと10分以上はかかるだろう。
 私は1つ溜息をついて、彼女を黙らせようと口を開いた。
 
「面白い話をしてやろう。ヒトデは再生能力が強くて、多少の傷なら再生してしまうんだ。君の手首もあっという間に治るだろうから安心すると良い」
「私はヒトデじゃないです。だってこんなに痛いんですよ」
「種によっては掴むだけで自切してしまうものもいるが、君の手はくっついたままだろう?」
「腐ってぽろって取れるかもしれないじゃないですか」
「腐らないし、取れない」
「絶対取れます。そうしたらもう課長と一緒に戦えなくなっちゃう」
 
 赤信号で少し強めにブレーキを踏んだ。少しだけ前のめりになった彼女は驚いて私を見た。その右腕を掴んで、じっと目を見る。
 
「いいか、ヒトデは真っ二つになってもそれぞれ別に再生した個体になって生きることもある。君の手が取れたらそれごと私が面倒を見るから今は黙っていなさい」
 
 彼女は目を丸くして、それから慌てたように顔を背けてしまった。信号が変わったのを確認して再びアクセルを踏み込む。もう少しで目的地に着くところだ。
 
 たどり着いたのは何の変哲もない住宅だった。横の空き地に車を適当に停めて、助手席のドアを開けた。引っ張り出すように彼女の左腕を掴んで歩き、チャイムを鳴らす。ガラガラと音を立てて開いた扉の先に、少しよれた白衣を着た男が立っていた。
 
「はい、患者さんね。聞いてたよ」
「右手首の裂傷です。お願いします」
「すみません、お願いします」
「上がって見せて。おたくさんはちょっと待っててね」
 
 医者は彼女を部屋の中に入れて鍵をかけてしまう。玄関に取り残された私は、とりあえず携帯を開いて着いたことを連絡した。電話に出たのは鷹さんで『あんたがそんなに慌てるなんて珍しいじゃないか』と言われて眉を寄せる。そんなつもりは無かったのだが、客観的にはかなり焦っていたように見えたのだろう。
 30分ほど待つと、鍵の開く音が聞こえて反射的に立ち上がった。彼女の右手首は包帯を巻かれていて、それが痛々しい。
 
「傷口、あんまり深くはないけど綺麗じゃないので切ったみたいだからちょっと跡残るかもね。抗生剤はちゃんと飲んでね」
「ありがとうございます」
「お勘定はいつものようにしておきますから」
 
 礼をして家を出る。闇医者と言うのは話が早くて良い。金勘定さえしっかりとすれば秘密は守るし腕も悪くない。彼らもまた、我々と同じ社会からはみ出した者の1つだ。
 来た時と同じように助手席のドアを開けて、今度は彼女を少し気遣って車に乗せた。恐らくあの場で縫合されたであろう患部を庇うようにしながら彼女はゆっくりとシートに身を預ける。
 
「今日はこのまま戻る。寝ていて構わない」
 
 車中の血の臭いが気になってほんの少しだけ窓を開けた。
 後ろを確認しながらバックして空き地を出ると、今来た道を逆走するように戻る。彼女は何も言わなかったが、答えを聞くこともなく暗い道を進んでいく。高速道路に乗るまでもまだ時間はかかるし、庁舎に着くのは朝だ。仮眠の時間を少々削る必要があるが、それはあまり問題にはならない。
 ここに来るまでとは違い、互いに無言のままだ。開けていた窓から入り込んだ冷気で彼女が小さく「さむ」と呟いた。シャツにカーディガンを羽織った程度では暖房を付けていても冷えるのだろう。窓を閉めながら道路端に寄せて停車すると、シートベルトを外してジャケットを脱いで彼女の膝にかけた。
 
「すまない、気が利かなかった」
「いえ、別にそんなつもりじゃ」
「出血もしていたし、縫合時の局所麻酔で血圧が下がっているかもしれない。少し横になって休みなさい」
「申し訳ないですよ。ただでさえ運転お任せしてしまっているのに」
「君が気にするようなことではない。初めて1人で任務をこなしたんだ。少しは上司に甘えることを覚えなさい」
「甘えっぱなしですよ、私」
 
「また迷惑かけたし」と消え入るような声で呟くから、腕を伸ばして少しシートを倒した。驚いたのか起き上がろうとした彼女の頭がぶつかって、2人で頭を押さえる。
 
「大丈夫か?」
「すみません、本当にご迷惑おかけして」
「気にするなと言っている」
 
 そう言って彼女の方を向いて、初めてその近さに気付いた。
 思わず呼吸が止まる。真っ暗なはずなのに、彼女の瞳が星のように明るく見えた。慌てて離れて「すまない」と言うと、今度は彼女が「気にしないでください」と震えたような声色で言った。
 
「課長なら、別に嫌じゃないですから」
 
 それは、と言いかけて再び彼女を見たが、寝転んだままこちらから顔を背けてしまっている。
 私はそれ以上何も言えなくなって、ウィンカーを付けて車線に戻った。今度こそ完全に無言になった車内にやがて小さな寝息が聞こえる頃、私は海岸沿いを歩いたことをふと思い出しながら高速道路へ入るカーブを曲がる。
 あの白波は、蹴り上げた流木をどこまで運んだだろうか。
 
「……これは、参ったな」
 
 凶暴な一党でも、民衆のヒーローでもないただ1人の美しい獣に見惚れてしまったなんて、絶対に言えない。
 まるであの流木のように、私の心もいつの間にか攫われてしまったのだろうか。
 いつか暖かな海に抱かれて溺れることも、知らずに。
 
 
 
 


ワードパレット:リーヴァ(白波・星・手首)
リクエストありがとうございました