こころさらい
私がその方を知ったのは、父の話した戦場での武功を聞いたことがきっかけでした。
当時父は地侍ながらも腕を見込まれ小さな鉄砲団を任されており、その鉄砲団を更に指揮していたのがその方だったのです。
父の話すその方の勇ましさは、私から見ればまるで夢のようだったのです。それは小さな頃に伝え聞いた伝承や亡き母が語った御伽噺にもよく似ていて、目を伏せてはお姿やお声を考えるばかり。
会ったことも、お話したこともなかったその方に、私は恋をしていたのです。
ある日、父が慌てたように私に何か膳を作ってくれと言ってきました。
小さな屋敷でしたので、女中は老いた乳母ひとり。すっかり手の萎えた乳母の代わりに料理を作ることが当たり前となった私は、それを了承しました。
出来得る限りの贅を尽くして作った膳は、父と見知らぬお客様の二人分。滅多に飲むことのないお酒の瓶を開けた父の顔は上機嫌で、きっと昔のお知り合いでもいらっしゃるのだと、この時の私は考えていました。
間もなく日が暮れる頃に屋敷にいらっしゃった方は、私よりいくつか年上に見えましたが、父よりはずっと年若く、お友達ではないのだろうと直感しました。
父が私を座らせて私の一人娘です。優しく器量の良い子だと褒めてくださいました。
その方はうなずくと、首元の手拭いを指先でちょいと直してから口を開きます。
「俺は藤堂高虎だ。父君には先日の戦で大変世話になった」
「いつも話しているお大名様だ。きちんと礼をなさい」
「はじめまして、なまえともうします」
「あぁ」
私はその時始めて、藤堂様が父の話していた方だと知ったのです。
どきりと心臓が高鳴ります。痛いくらいの早鐘を悟られまいと、私は膳を運びますと告げてその場を去りました。
真っ赤になった私の顔を見た乳母が心配そうな顔でどうなさったのですか、と聞いてきます。私は首を横に振って、なんでもないと嘘をつきました。
膳を運ぶ手は少し震えて、藤堂様のお召し物にこぼしてしまったらどうしようとひどく焦ります。しかし現実は意外とうまくいくもので、なんにもなく膳を置いて部屋から出ることはできました。
広間から出ると、父が藤堂様となにか話しているようで、不躾ながらもそれが気になってしまいます。聞き耳を立てるわけにはいかないので、どきどきとしたまま私は自分の部屋に戻りました。
少しして、父が部屋に来ました。
寝る準備をしようと髪をとかしていた私は慌てて外に出ます。
「父上、どうなさったのですか」
「今日はもう遅いのでな、藤堂様を屋敷に泊めることになった」
「そうなのですか」
「明日はわしと藤堂様の朝餉を広間まで頼む」
「かしこまりました」
静かに閉められた戸の向こう、この廊下の続く先にあの方がいるのでしょうか。そう考えてしまうと眠れぬくらいにまた鼓動がうるさく鳴り始めます。
あぁ、あの方は私のことなどなんの気にもとめていないのに、なんと浅ましいのか。
頭をふるふると振って夜着に潜り込むと、なんとか眠ろうと必死に目を瞑りました。時間をかけてようやく見た夢では、あの方が白い光の中に立っていて、私はまた鼓動の音で目がさめるのでした。
翌朝、重たい頭をなんとか働かせて起き上がります。今日は父だけではなく、あの方への朝餉もおつくりするのです。
先に顔を洗わねばと井戸に向かい、手桶に水をくみます。湿らせた手拭いでゆっくりと顔を拭うとようやく目もさめてきました。
「随分と早いのだな」
「あっ……!」
声をかけてきたのは、藤堂様でした。
見れば白い肌にはうっすら汗をかかれています。鍛錬をなさっていたのでしょうか。
私は起き抜けの顔を見られたことが少し恥ずかしくて、思わず顔を背けてしまいました。
「なまえ。朝餉はお前が作るのか」
「父からはそのように申し付けられました」
「ふん……。楽しみにしている」
「あっ、藤堂様……!」
「……なんだ?」
背を向けた藤堂様を思わず呼び止めましたが、私のような身分の者がお話するなんて身の程知らずとしか言いようがありません。
振り向いた藤堂様の瞳はまっすぐ私を見ていて、なにも言えなくなってしまいました。
「どうした」
「いえ、申し訳ございません。なんでもございません……」
「変わった奴だ」
そう言った藤堂様は、怒るわけでも呆れるわけでもなく、ただすぅと目を細めました。
そのかんばせの美しさに思わず見惚れてしまって、慌てて姿勢を正します。
「朝餉をお作りしてまいります」
「あぁ、俺はもう少し鍛練でもしていよう。父君が起きたら呼んでくれ」
「かしこまりました」
「……それと」
「なんでしょうか?」
「その女中のような話し方はやめろ」
かけられたお言葉に驚いて、思わず藤堂様のお顔を見つめます。とても真剣な眼差しで、冗談で仰られたわけではないことがよくわかりました。
しかし、藤堂様から見れば地侍の娘など女中に等しいもののはずです。
どのように接すれば良いのかわからず、私は困ってしまいました。
「父君から見ればお前もそこらの姫と変わらんだろう。もっと胸を張れ。俺はあまりにもへりくだる態度は好かん」
藤堂様はそれだけ言うと、身を翻して去って行ってしまいました。
仰られた言葉の意味が飲み込めないまま、私はその広い背中をじっと見つめていました。
それから半刻ほど経ち、私は朝餉を持って広間に向かいました。湯漬けと香の物くらいしかご用意できず、喜んでいただけるのか、本当は不安でたまりませんでした。
広間では父と藤堂様がお話しており、私は深々と礼をして広間に入ります。
膳を準備してまた礼をすると、父が口を開きました。
「簡単なものしかご用意できず、申し訳ない」
「かまわん。香の物もが作ったのか」
「畑で取れたものでわしと娘で仕込んだのです。亡妻の味を思い出しまする」
「妻君は若くして亡くなったと言ったな」
「はい、この子が幼い頃に流行り病で」
「それは痛ましいな。幼子を残し逝く無念、心中お察しする」
私は父と藤堂様の話を、平伏したままただじっと聞いていました。
私の母は私が五つの頃に流行り病で床に臥し、そのまま目を覚ますことはありませんでした。
母の残したものを何とか継ごうと、それからは料理に裁縫に、必死にいろいろなことを学びました。
おのこのように武功は残せなくとも、父を助けられるような女になりたかったのです。
強く美しい母は私の憧れで、しゃんとした立ち姿は褪せること無くこの目に焼き付いています。
それでも、あれから幾年経っても、母を失った寂しさが癒えることはありませんでした。
「顔を上げろ」
藤堂様に言われ、私は平伏した頭を上げました。
鋭い眼差しは、まるで氷のようです。
「お前は器量も良い。山中の村で百姓に嫁がせるにはあまりにも惜しい。なんとか取り計らってやるから江戸に来ると良い」
思いもよらぬそれに、父の表情が明るくなるのが見えました。
一方の私は、どんどん血が下がっていくような感覚に襲われます。
「お前のような女であればいかような家でも良き妻となるだろう」
「藤堂様、ありがたきお言葉にございまする」
「後でまた話そう。飯が冷める」
私は何も言えないまま、広間を出ました。
喜んだ父の顔が忘れられません。大名である藤堂様が直々に嫁ぎ先を取り計らって下さると言うのです。喜ばないわけがありません。
確かに父が長を務めるこの村は山間にあり、お世辞にも良い場所ではないかもしれません。しかし、江戸に行けば無償の幸せを得られるとも思えませんでした。
それよりも、藤堂様に誰かの元に嫁げと言われたことが重く心にのしかかり、まるで水底に沈んだような苦しさに襲われます。
太陽が中天に高く昇る頃、私は父に呼ばれ、部屋に向かいました。足が自分のものではないくらいに重く、中々動きません。無理矢理に動かしようやく部屋までたどり着きました。
「おお、来たか」
煙管を吸う父の顔は、先ほどと変わらず晴れ晴れとしています。
「実はな、先の話なのだが」
「あの、お言葉ですが……父上」
「なんだ? 思うことがあれば申してみなさい」
「私のような不束者では、不相応でございます。藤堂様のお顔に泥を塗ることになってはなりませぬゆえ、謹んでお断りさせてはいただけないでしょうか」
父の老い窪んだ目が一瞬丸く開かれ、すぐに優しい眼差しに戻ります。
「そうか、ではお前から藤堂様にそうお伝えしなさい」
責める言葉はなく、父はただそう一言だけ告げました。
私はそんな無礼なことは言えませんと申し上げましたが、父は笑うだけで何も言ってはくれません。
とりつく島もなく、しかたなしに私は部屋を出ます。
ひとまず自分の部屋に戻ろうと縁側を歩いていると、私の部屋の前に立つ藤堂様を見つけ、思わず身を潜めます。
「おい」
そんな抵抗むなしく、すぐに見つかります。
藤堂様は随分と困った顔をしていました。
「嫁ぐのはそんなに嫌か」
そう問われても、恋い焦がれている方から他家に嫁げと告げられるこの苦しみを打ち明けるわけにはいきません。
思わずうつむいてしまって顔を見ることはできませんが、藤堂様が私をじっと見つめている気配を感じます。
「嫌かと聞いている」
語気が強まります。怒っていらっしゃるのでしょうか。
「……私のような身分の者が武門の家に嫁ぐことは、不相応と、おもうのです」
絞り出した声は、自分でも驚くくらいに震えていました。
「藤堂様のお顔に、泥を塗るわけにはいきませぬ」
「……ほう」
藤堂様の声が存外に冷たく、またさっと血の気が引いていく感覚が私を襲います。
「意外に強情だな。驚いた。……だが、己を卑下する態度はやはり気にくわん」
「……申し訳ございません」
「いい。お前の気持ちはわかった」
床板の軋む音で顔を上げると、藤堂様はもう数歩先へと進んでいました。
「あ……」
呼び止めようにも、断った手前なんと声をかければよいのかわかりません。
藤堂様は歩みを進めた足を突然ぴたりと止めました。
「お前、読み書きは」
「え? ……あ、人なみには、できまする」
「わかった」
こちらを見ずにただ一言。再び動き出した歩みは止まることなく、私は呆然とその背を見つめ、後悔の念に襲われます。
やがて馬の嘶きが聞こえ、あぁついに行ってしまわれたと、部屋で人知れず涙をこぼしました。
おそらくきっと、嫌われてしまったのでしょう。当たり前の話なのです。大名である藤堂様の御厚意を無下にしたのですから。
きっと無礼な父子と思われたに違いありません。父にも申し訳が立ちませんでした。
それから数日後、父宛に一通の書状が届けられました。
書状を受け取り、使いを部屋に通し丁重にもてなす父の顔は随分と嬉しそうです。何か良いことでもあったのでしょうか。
私は茶をお出しするために父の部屋を訪れました。
「おぉ、入れ入れ」
弾んだ声色の父が手招きするので、私はそれに誘われるように部屋に入ります。
点てた茶を出すと、父はそれの代わりのように一通の文を差し出しました。
最初は父が受け取った文かと思いましたが、すぐ脇にそれは広がっています。
父の持つ名のないそれは、一体どなたからのものなのか見当もつきません。
「部屋に戻って読みなさい」
「わかりました、父上」
結局これがなんなのか教えてもらえないまま、私は部屋に戻りました。
薄く紋の押された紙は、一目で高級品だとわかります。
包みを開くと、流れるような筆遣いの文字が踊っていました。ただ一言「江戸に来たれよ」と。
差出人の名はなく、あるのは花押だけ。
それでも私は、差出人が誰かを直感しました。居ても立っても居られず、再び父の部屋へと戻ります。
はしたなく足音を立てて廊下を走る私を見たら、母は悲しむでしょう。それでもこのはやる気持ちを抑えることはできなかったのです。
「父上!」
室内で書をしたためていた父は、にこやかにこちらを向きます。
「読んだな」
「はい。これは……」
「お前の思う方からだ。如何する」
「父上、私は江戸に」
「そうかそうか。ならば支度せよ。なぁに、家の心配はいらんさ」
「ありがとうございますっ!」
深々と礼をした私の肩を、父は優しくとんとんと叩きます。
その手の暖かさに、思わずじんわりと涙がにじみました。
「これこれ、泣くのはまだ早いだろう」
「申し訳ございませんっ……!」
「仕方のない我が姫君じゃ」
父が羽織の袖でそっと私の涙を拭います。私は頷き、もう一度深く礼をしました。
「それでは、旅の支度をしてまいります」
「何か困り事ができたらすぐに言いなさい。可能な限り手伝おう」
「ありがとうございます! ……では」
私は父の部屋を出て、女中の元へ行きます。女中は皺の刻まれた目を細めて「なまえさま、それでは早く準備せねばなりませぬな」と言いました。
荷物は最低限で良いと伝え、旅装に着替えます。準備を終えて門前に行くと、父が待っていました。
「では、気をつけて行くのだぞ」
「はい。行ってまいります」
父と女中が少し寂しげに手を振りました。私もその姿を見て、寂しさを感じます。
それを振り切るように笠を被り、田畑の続く道を歩き始めようとした瞬間でした。
遠くから、馬の嘶きが聞こえます。目を凝らして見れば、青い手拭いがたなびく様が見えました。
「あれは……」
つい先日帰られたはずの、藤堂様が、私の前で馬を止めます。そしてひらりと舞い降りました。
「藤堂様っ!」
「……どこに行くのだ」
藤堂様は私の姿を見てそう問いました。
「江戸へと参じるつもりでした」
「……そうか」
じっと私を見つめる眼差しは射るような強さです。思わず身をすくめました。
「どうしてそんな顔をする」
「それは……お怒りなのかと、思いましたので」
「違う。……待ちきれなかった」
「え……?」
「文をお前の父君に出したが返事も到着も待てなかった。だから迎えに来た」
「藤堂様……」
「乗れ。お前の足では日が暮れる。それではかなわん」
再び馬上へと戻った藤堂様が手をそっと差し出します。
おずおずと触れた瞬間手をしかと握られ、ぐいと引き上げられます。
その手の温もりに、どくりと心臓が跳ね上がります。
「捕まっていろ」
そうは言われても、この早鐘が伝わってしまいそうで恥ずかしさに顔が熱くなります。
「振り落とされても良いのか? 俺の馬は速いぞ」
言うが否か駆け出した馬に驚いて、思わず広い背に身を寄せました。
「文の通りは貰い受ける! また見えましょうぞ、義父上」
「では、江戸にて」
「ああ。……はあっ!」
馬上で受ける風は冷たく身を裂くのに、寄り添った背は燃えるように熱く、私は頬を寄せたまま呟きました。
「……ずっと、お慕いしております」
冷えた風に乗って消えたはずのそれを捕らえた藤堂様が、少しも姿勢を変えることなく仰いました。
「一目見たときから、お前に惚れていた。屋敷に行く前からだ」
「なぜ? お会いしたことはなかったはずです」
思わずそう返すと、藤堂様が手綱を引きます。
高い嘶きの後、小高い丘の上で馬は止まりました。
「少し前、鷹狩りにここまで来た。その時に畑仕事をするお前を見つけたのだ。……その、美しいと思った」
「そんな……藤堂様のような武人にはもっと良き姫がおりますでしょう」
「お前は俺のことを好きなのかそうでないのかわからんな」
「それはっ……お慕いしております」
「ならば堂々としていろ。お前は俺と共に江戸に行くのだからな」
そこまで言って、ようやく藤堂様は私の方を見ました。
「これでは俺が人さらいのようだな」
思いもよらぬ言葉に思わず吹き出しました。
こんなお大名様から人さらいなどと出てくるとは思わなかったのです。
「笑うな! ……ええい、改めて聞くぞ。俺の元に来る気はあるか」
「なければ今こうしてお側にはおりません」
「あのときは嫌がっただろう」
「あれは別の武家に嫁げと言われたとばかり……」
「……確かにそのように聞こえる言い方ではあったな。お前の父君はすぐに察したようだったがお前は些か鈍いのだな?」
「父は知っていたのですか?」
「当たり前だ。すぐにばれた。だから屋敷にも招かれたのだ」
「そうだったのですか……」
だからこそ父はなにも言わなかったのでしょうか。ほっとした気持ちと、なぜ教えてくれなかったのかという気持ちがないまぜになります。
「そんなことはいい。これからは俺と共にあれ。俺のために飯を作れ。俺と共に生きろ、母君の分まで」
随分と強引な物言いでした。しかしそれが嬉しくて、思わず涙が溢れます。
「なぜ泣く」
「これは喜びの涙でございます」
「嬉しいなら泣くな。俺の前では笑え。お前の笑顔が見たい」
無理矢理に笑った顔は、きっとひどいものでしょう。
それでも藤堂様はにこりと笑んで、片方の手で私の頭をがしがしと撫でました。
「それでいい。……よし、行くぞ。捕まっていろ」
「……はい!」
今度はしかとその背を抱いて、身を委ねます。
「愛している」
風に乗って聞こえた微かな呟きに、胸の内が暖かくなるのを感じました。
愛しい人にさらわれるとは、なんと幸福なことなのでしょうか。
私は目を伏せ、郷里を去り江戸まで行くこの道程を楽しむことを決意します。
これから始まる、愛しい人との生活に胸を踊らせながら――。