01

 
「さて、どうしましょうかねぇ〜」
 
 倶楽部賭郎、日本の暗黒面のみならず光の当たる場所ですら支配するその巨大な組織に属するこの男は、自分の眼前にいる少女を見下ろしながら小さく呟いた。
 逃げられぬように椅子に縛られ猿轡を噛まされた少女は、ボロボロのワンピースに包まれた体をブルブルと震わせている。
 やたらと血生臭い部屋には、この少女、そしてジュラルミンケースを抱いた男以外存在しない。いや、先程までは存在していたはずの人間は少女以外今や物言わぬ肉塊と化している。
 少女は涙でかすむ視界に男を捉えながら、つい一時間前のことを思い出していた。
 
 
 ***
 
 
 少女は、正しく言えばもう少女と呼ばれる年齢ではなかった。齢は20を越えていたし、ガリガリに痩せた体にも柔らかな膨らみの名残はあった。そんな彼女が生ける肉人形に変えられたのは己の主ができた頃からだった。
 両親が蒸発し、借金のカタに売られた先はむせ返るような香水の香りが充満するクラブ。春を売ることを強制され、嫌がれば泣いて許しを乞うまで繰り返される折檻。悲劇と言うにはありふれた三文芝居のような人生。そんな地獄の日々が一変したのはクラブのオーナーに己の客がこんな話をしたからだった。『なぁ、会員権を賭けて勝負しないか?』
 痩躯を揺さぶりながら男が話していたのを、彼女はぼんやりとした意識の中で聞いていた。その男は、店の一番の太客で昔からの馴染みだった。そんな男が持ちかけた勝負は、店のオーナーの持つ賭郎の会員権とこの彼女、そして1億という途方も無い大金を奪い合うゲーム。
 オーナーは己のギャンブルの腕に自信があったのか、彼女に答えを求めることもなく二つ返事でそれを承知した。そして彼はこの場に賭郎立会人である弥鱈を呼び出し、ゲームを始めたのだった。
 勝敗が決するまでそう時間はかからなかった。男の金はどんどんと吸い取られ、テーブルの上には帯封のされた札束がタワーのように積み上げられていく。彼女はそれを虚ろな目で見つめ続けていた。どちらが勝とうと自分の持ち主が変わるだけで己には関係ない、とさえ思っていた。一つ思うことがあるとすれば、賭けの直前吐精された欲望が漏れ出ることがただ不快であったことぐらいである。
 気が付けば、男の用意した金はすべて無くなっていた。オーナーは下卑た笑いを響かせ手を叩く。黒服の手によって散らばった札一枚逃さずジュラルミンケースに収められ、オーナーに渡される。それを愛しそうに抱きしめる姿は酷く醜い。金と女に執着し、弱い生き物を利用し私腹を肥やす悪鬼のようだ。しかし、自分が生きていられるのはこの男の力があるからということを痛いほど理解している彼女は、これまでと変わらない生活が続くことに少しだけ安堵していた。
 もう一方の男は項垂れたまま大きく肩を震わせていた。笑いを堪えているようにも、嗚咽のようにも見える。弥鱈はその姿に一瞬違和感を覚えたが、己の心を揺さぶるような強者の敗北が存在しないこのゲームにはこれっぽっちも興味がなくここから帰ることのみを脳の片隅で考えていた。
 
「それでは、精算も終了いたしましたので我々は失礼いたします」
「あいつを始末してくれ。何をされるかわかったもんじゃない」
「……彼を外までお送りしましょう」
 
 オーナーの言葉に、弥鱈は少々不快感を覚えながら了承した。黒服が男の体を支えるように持ち上げ、部屋の外に引きずり出そうとする。男の足取りは重く、まるで抵抗しているかのようにも見えた。
 
「これにてゲームは終了となります」
 
 弥鱈がそう言うのと、部屋を出た男が振り返るのはほぼ同時だった。3発の銃声と血しぶきを上げる肉塊。それから弥鱈の脚が空を切る音。反対方向に捻じ曲がった右手から銃が離れて椅子に縛られたままの彼女の足元に転がっていく。それを見て猿轡のまま彼女は絶叫した。
 
「これは随分と悪質ですねぇ。……粛清いたします」
 
 男は最後の抵抗とでも言うように、黒服の腕を左手に持ったナイフで裂いた。向けられたそれを弥鱈は既のところで避け蹴り上げる。上空に舞ったナイフが落ちてくるより早く、振り上がった踵が脳天に落とされた。頭蓋を砕かれた男はそのまま崩れ落ち、とどめを刺すようにその背にナイフが突き刺さる。そのまま男は二度大きく痙攣し、動かなくなった。
 
「……面倒ですねぇ」
 
 弥鱈は男が動かなくなったことを確認してから、血を吹き出したままのオーナーを見た。この様子ではもうまもなく絶命するだろう。内ポケットから携帯を取り出し、電話帳から番号を呼び出す。3コール後に出た男の声は低い。
 
『棟耶だ』
「弥鱈です。判事のご判断を仰ぎたいことがありまして」
『手短に頼む』
 
 弥鱈はこの賭郎勝負の全容と事の顛末を棟耶に説明する。勝負自体は精算含め完了しており、暴力禁止のルールもすでに解かれた後だ。電話越しの棟耶はしばし無言のまま考え込んでいるようだった。
 
『一つ確認なんだが』
「なんでしょうか」
『その少女とやらは生きているのか?』
「えぇ……何か問題でも?」
『いや。……それでは、双方死亡ということで賭けられたものはすべて賭郎預かりとする』
「彼女もですか?」
『そうするしかあるまい』
「わかりました」
 
 そうして、今に至る。
 
「どうしましょうかねぇ」
 
 弥鱈はもう一度同じ言葉を呟いた。ひとまず黒服たちに命じて死体を片付けさせ頭部に3つ穴を開けたオーナーを見た。少女は依然震えたまま弥鱈の姿を見つめているが、あまりの出来事にもう叫ぶこともできないままでいる。
 
「貴方はどうしたいです? 残りたいですか?」
 
 弥鱈の問いに彼女はぶんぶんと首を横に振った。死臭漂う部屋に残されるのはまっぴらごめんだとでも言うかのような必死な目で訴える。弥鱈はそんな気持ちを知ってか知らずか部屋の中を歩きながら黒服が片付けを済ますのを待った。
 
「しかし、両腕にスリーブ内蔵なんて殺す気満々じゃないですか。貴方もよくそんな男に抱かれてましたね」
 
 不躾な物言いに顔をカッと赤くする。買われた存在であることは彼女自身も重々承知している。それを改めて言われたことが彼女にわずかに残されたプライドを引き裂いた。
 助けを乞うようなものではなく、弥鱈に対しての憎悪がその丸い瞳をぎらつかせる。それを面白く思ったのか、弥鱈は彼女の猿轡を外してやった。
 
「貴方にそんな言い方をされる謂われはありません!」
 
 彼女の声は細かったが、存外に大きく響いた。椅子に縛られたまま、キッと見上げるその表情は痛々しくも美しい。その様子を、弥鱈はポケットに手を突っ込んだままじっと見つめていた。
 
「弥鱈立会人、収容が完了いたしました」
「彼女の縄を解いてください。引き上げます」
 
 黒服が彼女を縛る縄を切り終えた瞬間、少女はふらつきながらも物凄い勢いで突進する。落ちていたナイフを手に弥鱈に斬りかかろうとするが、呆気なくいなされる。バランスを崩したところを黒服に取り押さえられたが弥鱈はそれをやんわりと制した。
 
「弥鱈立会人、これは粛清対象になりえる行為です」
「まぁそうですけど。一応賭郎預かりになってますから」
「離してよっ!」
「うるさいですねぇ。……とりあえずもう一度縛っておいて下さい。それから鎮静剤を」
「やっ! はな、離してっ!」
 
 後ろ手に白く細い手首が縛られる。目隠しをされた彼女は何とか逃げようと魚のように大きく身を捩ったが3人がかりで押さえられ、静脈に注射を打たれる。やがてその抵抗は弱くなり、小さな呼吸が僅かに聞こえるくらいになった。
 
「弥鱈立会人! 車の用意ができました」
 
 弥鱈はそれを聞くと、頷き部屋を後にした。死臭漂う部屋はいやに綺麗で、窓から差し込んだ夕日がオレンジのフィルターで彩っていた。
 
 
 ***
 
 
 ノックの音で棟耶は顔を上げた。「入れ」と短く声をかけ、重い扉は音もなく開かれる。
 
「失礼いたします」
 
 そこにいたのは弥鱈だった。珍しく少し強張った表情で部屋の中に入る。ベルベットの絨毯が彼の足跡を微かに残した。
 部屋の中には弥鱈と棟耶、それともう1人静かに座したままノートパソコンを見つめていた。それは何にも興味を持たないような、凍えるような冷たさを放っている。その静かな圧に気圧されそうになりながら彼の言葉を待つ。
 
「……双方死亡、か」
 
 その声は刃のように鋭い。右手の人差し指だけでゆっくりとキーボードを鳴らす彼はこの賭郎を統べる”お屋形様”切間創一その人だった。創一はキーボードから手を離すと、ゆっくりと椅子にもたれかかりながら弥鱈を見つめる。
 
「勝負は終了していたと聞いたけど」
「その通りです。元より負けたら殺すつもりだったかと。……私の油断が原因です」
「まぁ、起こってしまったことは戻らない。ただ、ルール外と言えど立会人として会員を死なせた責任は取らなければいけない。わかるね? 弥鱈」
「お館様の仰せのままに」
 
 弥鱈がそう言うと、創一の横に立っていた棟耶が一枚の紙を弥鱈に渡す。それは先程の彼女の詳細なデータや戸籍情報が記されていた。しかし、本来あるはずの名前がない。
 弥鱈はじっと創一を見つめる。その視線に応えるように創一は指を指す。
 
「彼女については調べた。けれどなぜか名前は秘匿されていてね。ひとまず聞き出して欲しい。……それから、君が彼女を責任を持って育てるんだ。そうだね、搦手にするのが良いだろう」
「お屋形様、お言葉ですが彼女は娼婦です。搦手にしようにも店ももう持たないでしょう」
「それなら君が直接送り込めばいい。立会人が直接操る搦手というのも悪くはないだろう」
 
 創一の言葉に弥鱈は耳を疑った。つまりは、己が彼女を搦手として育てそしてその色を持って根のように触手を伸ばせというのだ。それは立会人としての領分を大きく逸脱していたが創一直々に命じられれば断ることなどできない。第一、今回の騒動は弥鱈の責任でもある。命を奪われるよりは遥かに軽い罰ではあるが、女性を育てるなんて経験は今まで無い。それでも弥鱈はただ静かに「わかりました」と答えることしか出来なかった。
 入ってきた時とは違う強張った表情で弥鱈が部屋から出るのを見届けてから、棟耶が口を開いた。
 
「名前は本当に秘匿されていたのですか?」
「戸籍があるのに名前だけわからないなんてことは無いだろう? 私はただきっかけを与えただけに過ぎない」
「それはまぁ、そうでしょうが」
 
 少しだけ口角を上げた創一を見て、棟耶はつくづく恐ろしいお方だ――と小さく溜息をついた。
 一方の弥鱈は彼女が眠っている部屋へと急いでいた。ノックもせずに部屋に入ると、ベッドに寝かされた彼女は虚ろな表情で弥鱈を見つめた。薬はとうの昔に切れていたがこれ以上抵抗しても無駄だと悟ったようだ。
 
「また貴方ですか」
 
 声は相変わらず細かった。ゆっくりと体を起こした彼女はボロボロのワンピースではなく入院着のような服を身につけていた。暴れないようにと拘束された左手でベッドサイドの水を取ろうとするが指先を掠めたのを見て、弥鱈はそれを取って渡す。それから近くに置いてあった椅子を引いて腰掛けた。
 
「いいですか、これから貴方に色々と伝えなければならないことがあります」
「……嫌です」
「何故ですか」
「私を侮辱した人から何か言われても聞きたくありません」
「それは……すみませんでした」
 
 弥鱈が謝ったことに驚いたのは彼女の方だった。丸く零れ落ちそうな瞳が見開かれる。それから一口水を飲んで、顔を背けた。それを肯定と受け取った弥鱈は棟耶から渡された紙をちらりと眺めてから問いかける。
 
「まず、貴方の名前を教えていただきたい」
「……キアラです」
「本名は?」
「私にはありません」
「貴方を縛るものはもう何も無いんですよ?」
「……みょうじ、なまえです」
「みょうじさん。貴方はここから出て生きていく術はお持ちですか?」
「そんなもの、ありません。私にはあの店が全てでした。オーナーがいないなら私はどこにもいけません」
 
 暴力で飼い慣らされた犬のようだと弥鱈は思った。餌を貰うために媚を売り、生きるために春を売る。目的は違えど、賭郎というあまりにも巨大な闇に属する自分もまた同じようなものかと自嘲気味に笑うと、なまえは眉を吊り上げてこちらを見る。
 
「また馬鹿にしましたね」
「違います。私も同じようなものだと思っただけです。……話を戻しましょう。みょうじさん、私の下で働いて下さい。そうすれば生命と最低限の自由は保証します」
「私が貴方の下で? 働く? 何のメリットがあって?」
「少なくとも、もう少し人間らしく生きられるようにはしますよ」
 
 貴方が受け入れれば、今すぐその拘束も外します。と弥鱈は付け加えた。なまえはしばらく無言のまま弥鱈の顔を見つめている。それからふぅと小さく息をついて、両の腕を差し出した。
 
「わかりました。元より、そうするしか私に道はないでしょう」
 
 椅子から立ち上がり、ここに来るまでに預かった鍵で拘束具を外していく。一瞬逃げることを予想したが彼女はベッドの中で静かに佇んでいた。日の落ちた部屋、蛍光灯の無機質な灯りが2人を青白く照らしている。
 
「今度は貴方が私のご主人様なのね」
「私にそういう趣味はありません。後のことは明日お伝えします」
 
 弥鱈は部屋を出る直前、振り返ってもう一度彼女を見た。彼女はぼんやりとカーテンの隙間から漏れる外の明かりを眺めている。あのクラブに閉じ込められていた彼女を、今度は賭郎という檻に閉じ込める。やはりそういう趣味はないな、と一考して部屋を出た。
 
「明日私が来るまで見張っているように。ただし、彼女が呼びかけるまでは部屋に入ってはいけません」
 
 もしこれで脱走でもしようものならいよいよ己の首が飛ぶだろう。それでも、明日も彼女はここにいることを弥鱈は確信していた。飼い慣らされた犬は、野生での生き方を知らない。出来ることは精々尻尾を振って嫌われないようにと愛を振りまくことぐらいだ。
 
「面倒なことになりましたねぇ〜」
 
 その呟きは、暗い廊下に吸い込まれて消えた。