02
翌朝、彼女の部屋に戻ると黒服に声を掛けられた。食事を求められ運んだのだが食べている様子が無いと報告を受け、面倒くさそうに返事をしながら弥鱈はドアを開けた。
「おはようございます」
呼びかけに返事はない。なまえは起き上がってぼんやりと外を眺めていた。その手には与えられた朝食の皿を持っているが口をつけた様子はない。
「食べなければ何も出来ませんよ」
「……貴方は」
「何でしょう」
「食べられぬ苦しさを知らないのでしょうね」
なまえはゆっくりと視線を弥鱈に移す。疲労からか目は昨日より少し落ち窪み、げっそりとしているように見えた。血色の悪い唇は乾燥でひび割れ、口の端が少しだけ血で赤くなっている。それが酷く扇情的だった。
昨日のままの椅子に腰掛け彼女の目を見つめる。
「私は飢えたことはないです」
「えぇ、そうでしょうね」
「食事を変えましょう」
その白い手から皿を奪い取り、内ポケットから取り出した携帯を開く。少し話をして終話ボタンを押すと、すぐに数人の黒服が入ってきた。彼女は僅かに驚いた反応を見せたが、昨日と同じように静かにその様子を眺めている。
「失礼します」
黒服の一人が彼女の腕を取り、針を刺そうとすると初めて抵抗を見せた。ガチャガチャと鎖の鳴る音が響き、悲鳴を上げる彼女を冷たい目のまま見つめている。押さえつけて吸わせた薬剤が弥鱈には何なのかはわからないが、段々と彼女の動きが鈍くなった。先程よりも虚ろな表情でだらりと曝け出した腕に点滴の管が通される。
「弥鱈立会人、しばらくは動けないでしょうがこの様子では暴れて引き抜いてしまうかと」
「……拘束しておきなさい」
光のない目から零れ落ちる涙には見ないふりをして部屋を出た。点滴自体は病院でも使われるような栄養補助のものだが、あくまでも食べられるようになるまでの繋ぎでしかない。
弥鱈は背を丸めて歩きながら、今後の対応策を考える。彼女の生きる意志はあまりにも薄く、殺してしまう方が容易かった。それでも生かそうとしているのは創一からの命令もあるが、弥鱈の中にほんの少しだけ彼女への興味があったからだ。
あまりに弱く、庇護を受けなければ吹き飛んでしまうような命。強者の這いつくばる様を求める弥鱈にとっては理想とは正反対の位置にいる彼女のあの激情を忘れられなかったのかも知れない。
燃えるようなオレンジの部屋で見せた彼女の怒気は、か弱い生き物の最後の抵抗のようで儚く美しかった。もしまた彼女があの怒りを自分に向け、そして絶望の淵で崩れ落ちたとしたら――緩やかに湧き立つ感情は彼の抱く歪んだ意趣の一つでしか無い。
自ら育てて手折るのもまた一興、と少しだけ口角を上げた。
***
夕方、弥鱈は再び彼女の部屋に来ていた。より強固に拘束された四肢はほとんど動かすことも叶わないだろう。眩しい西日を疎ましく思い、カーテンを閉めればいくらか光は遮断された。
「貴方に必要なものがわかりました」
「……それは死、ですか」
「いえ、違います。必要なものは食事……もとい栄養です」
「こんな姿にしてまで与えると。素晴らしい奉仕の精神ですね」
「……あの店を調べました。貴方、薬を日常的に打たれていますね」
弥鱈の問いに彼女は静かに生唾を飲み込む。少し泳いだ視線がその問いを静かに肯定していた。それを見逃すはずもなく、ゆったりとした動きで彼女に顔を近付けた。
「薬の効果がまだすべてが明らかになっていません。貴方が教えてくれれば解決することも多いのですが……どうでしょう?」
「私に、薬を打たれた時のことを聞くのですか……?」
「まるで人でなしとでも言いたいような目ですねぇ」
彼女の呼吸が少しずつ荒くなる。弥鱈との距離は10センチ程しかない。じっと己を見つめる瞳の暗さになまえは目を離せずにいた。すべてを暴こうとするこの男は、己にとって良いとも悪いとも言えない。
根負けしたのは、なまえの方だった。
「わ、かりました。はなしっ……話しますから」
弥鱈が少しずつ遠ざかり、また椅子に腰掛けた。なまえは己の体が動かない不便さを嘆いたと同時に、恐怖心に駆られて逃げ出さずに済んだことに少しだけ安堵する。
ポケットに手を入れたまま長い足を組む。少し猫背の姿勢で「では、どうぞ」と弥鱈は次の言葉を促した。
「すべてについては知りません。でもあの薬を打たれると、何も考えなくて済むんです。頭がふわふわして痛みを感じることもなくなって……」
そこまで話して、なまえは弥鱈の方を見た。少し怪訝そうな表情で「どうしました?」と問えば彼女の顔が少し赤らむ。しばらく口ごもっていたが、やがて観念したように続きを話し始めた。
「その……物凄く欲しくなるんです」
「薬が、ですか?」
「違います。……お客様の相手をするのを嫌がらないようにということなんでしょうけど」
「あぁ、男性が欲しくなると」
あっけらかんと言われれば今度こそ顔が真っ赤になる。今朝の死人のような顔よりは遥かにマシだと弥鱈は思いながら反対側を向いてしまった彼女を見た。
彼女の打たれた薬はつまるところ精神に強く作用するタイプのもので、神経を鈍らせ判断力や痛覚をほぼ無くしてしまう。それだけでは味気ないと催淫効果を混ぜ込んでいるのだろう。まさに生きる肉人形を作るためのそれに、弥鱈は少し顔を顰めた。
「効果が続いている間の記憶はあるのですか?」
「ありますがはっきりとは……ただ、毎日使われていたわけではありません。あの薬は入ったばかりで抵抗の激しい子やお客様が求めれば使われたくらいなので」
「貴方はあの店も長いでしょう。抵抗なんて無駄なことはしていないはずです」
「つまり、そういうことですよ。私のお客様は加虐嗜好の方が多かったので」
「薬なんて使ったところで楽しめるとは思えませんけどね」
溜息をついた弥鱈を彼女は少し困った顔で見つめる。不意にがちゃ、と鳴った拘束具の音に思い出したように指差して口を開く。
「それ、外してほしいですか?」
「外していただければ嬉しいですが」
「どうやら貴方は”針”に対して恐怖心を抱いているようですし、それ以外の時は外したって構いませんが」
「これは着けっぱなしですか?」
不便そうな表情で腕の点滴を見つめる彼女に「もうしばらくはそうでしょうね」と返す。
彼女に食欲が戻れば必要なくなるだろうが、そこまで回復するにはまだ時間が足りないのは明らかで、明確な回答を避ける。すべては彼女次第なのだが、強制させる事柄でもないと判断してのことだった。
勿論、彼女を搦手として使えるようにするには一般的な生活を遅れることが第一条件だ。それでも急かしてまで動かす程彼は焦っていない。それが例えお屋形様からの命であっても、弥鱈は己のやり方を貫くつもりだった。
「何なら食べられますか。咀嚼はできますか」
「スープなら食べられるかと思います。……今朝はすみませんでした。きちんとした食事はあまり取っていなかったので」
「そうでしょうね」
でなければ、飢えについて口にすることなどないだろう。
弥鱈はあの部屋で見た彼女の痩躯を思い出す。恐らく店に売られてからも碌な食事はしてこなかったであろう体は青白く血管が透けて見えていた。そんな姿でよく向かって来たものだと今更に感心する。
「一週間かけて食事できるようにして下さい。重湯でもなんでも構いません、何か食べられるようにしてください」
弥鱈はそう言って立ち上がり、昨日と同じように彼女の拘束を解いた。そのまま立ち去ろうとする背中に、なまえはなんとか体を起こして問いかける。
「何故、そこまでしてくれるのですか」
扉に手をかけていた動きが止まる。搦手になれと言うにはまだ時期尚早だろう。己の下で働けという言葉に対して、彼女がどう考えているかも弥鱈にはわからなかった。
体を売ることしか知らない彼女からすれば、あの店よりも強大な組織で飼われる犬であることは変わりない。ただ、これから彼女に求められるのは闇を背負うことだ。あの部屋よりもずっと暗く、深い闇。そこに溺れさせるためにはまず一度明るいところまで引き上げなければならない。そこからまた奈落に突き落とすのだ。
「言ったでしょう。もう少し人間らしく生きられるようにすると」
犬になることを求めておきながら、人間らしく生きられるようにするなど随分ナンセンスな言葉だと弥鱈は眉を寄せた。
それ以上は何も言わずに部屋から出る。見えた西日はもう遠いところまで傾き始めていた。
「今日も拘束を解きました。次に注射器の類を使用する際は私に確認を取るように」
黒服の返事を聞いて歩き出す。その行く先は創一の部屋だった。
「……失礼いたします」
昨日のようなプレッシャーは無かった。創一は昨日と同じようにノートパソコンのキーボードを人差し指でとんとんと叩いている。静かな部屋で2人、声も出さない。
「彼女は」
先に口を開いたのは創一の方だった。次の言葉をじっと待つ弥鱈の背中に冷や汗が伝う。薬のことは先程聞いたこと以外は報告済みだったが、そのことについて問われるかと少しだけ身構えた。
「これから辛いだろう」
思いやりの言葉と裏腹にその声色に熱はない。それにつられるように報告をすると、創一は長い指を顎先に持ってきて考え込む。少し思案し、携帯を取り出すとどこかに電話をかけ始める。
「あぁ、私だ。……その件だ。早急に手配してほしい」
電話を切って立ち上がる。弥鱈の前に立つ創一の瞳からは感情が読み取れない。
「弥鱈立会人」
「はい」
「バッドトリップは何が起きると思う?」
「考えられるのはパニック状態に陥ることでしょう。彼女は針に対して強い恐怖心を抱いているようですから、その幻覚が濃厚かと」
「私はそう思わない」
「……は?」
「彼女が見た夢はきっと甘美なものだろうね。それでは、悪夢も同じくらい甘美なはずだ。……彼女が腹を空かせなければいいけど」
創一の言葉の真意がわからず、弥鱈は少しだけ困惑した表情を見せる。そんな弥鱈を置いて彼は部屋を出ていってしまった。一人残された弥鱈は彼女との会話を思い出す。強い西日、オレンジの帯、針への恐怖、異性を求める催淫状態の甘美な彼女の――
「甘美な、夢」
乱暴に扉を開けて走り出す。最後に薬を打たれたのは恐らく昨日の勝負の前のはずだ、と人を避けながら考える。弥鱈の珍しい姿に数人の黒服が怪訝な顔をした。先に出ていたはずの創一の姿は見えない。もしやと思って彼女の部屋へと戻るとその扉は開いていた。
「早かったじゃないか」
そこには創一がいた。すっかり日が傾いた部屋の中、灯りも付けずに眠る彼女の傍らに立っている。捲られたシーツの下、彼女の痩躯が見えた。
「弥鱈立会人。君は彼女の暴力性を抑える首輪にならなければならない。いいね?」
「暴力性? 何を仰ってるんですか」
彼女にそんな力はない。少なくとも、今の体では何も出来ないはずだ。そう言おうとした弥鱈に見せつけるように創一は彼女の腕を取った。その内側には数本の線が刻まれている。自分が確認したときには無かったそれに驚き、思わずなまえに近付いた。
「ビリー・クレイグ。彼を知っているだろう?」
「えぇ。勿論」
「もし彼女のバッドトリップがカラカルと同じだったら、君はどうする?」
業の櫓での報告は聞いていた。彼の特異な性質も、その強さもすべて。賭郎内での報告だけでなく彼と戦ったマルコからも直接その戦いぶりを教えられ、直接見たかったものだと思っていたがまさかこんな形で現れるとは弥鱈も思いはしなかった。
「彼女の悪夢は一体どんなものだろうね」
薄く血の滲んだ腕を戻して創一はまた弥鱈を見る。
日の落ちた暗い部屋のはずなのに、その瞳からは目をそらせない。すべてを見透かすような視線に耐えきれず、弥鱈は顔を背けた。
「君は人の目を見るのが苦手だったね」
彼の言葉はヒントを与えるように優しく、追い詰めるように冷たい。指先が傷口をなぞるのを、弥鱈は視線だけでじっと追っていた。
「彼女の目を見てあげないと、引き上げる前に壊れてしまうよ」
そうなるのは君にとっても良いことではないはずだ、と言ってまた創一は部屋を出ていく。今度は追いかけることも出来ないまま弥鱈は眠るなまえを見つめていた。
ピクリとも動かない彼女はまるで死人のようだ。ゆっくりと上下に動く胸は彼女が生きている証拠だったが、それすら嘘のように思えて思わず胸元に耳を寄せる。聞き逃しそうなほど弱い鼓動が、確かに体の中で響いていた。
創一の発言の意図は今の弥鱈には何もわからない。彼女が生きる希望を持ち、あの殺意を向けて崩れ落ちる様を見たい。それだけのために手を尽くしているはずなのに主は惑わせる言葉を繰り返す。
不意になまえの腕が持ち上がり、もう片腕を切り裂いた。やめさせようと捕らえたがその力は強い。無意識の暴力は弥鱈の掌の肉をぷつりと切った。痛みはあまりなかったがその静かな狂気に汗が伝う。無理矢理に押さえつけて、今度は拘束具に鍵をかけた。
起きたらきっとショックを受けるだろう。それでも彼女を守るにはこうするしかなかった。こんな事態でも眠ったままの彼女の枕元には、1枚のメモが置かれている。慌ててそれを拾い上げると、パソコンで打ち込まれた無機質な文字が並んでいる。創一が置いていったものだろう。
「これは……」
住所が書かれたそれを胸元にしまい込んで弥鱈も部屋を後にした。
掴んだ手は氷のように冷たいのに今までの何よりも彼女の生を感じて、弥鱈は傷のついた己の掌を眺めてシャボン玉を飛ばした。
明日には教えられた場所に行く必要があるだろう。何としてでも解決しなければ、創一は己に何の立ち会いもさせない心づもりなのも重々伝わっている。
つくづく面倒事ばかりだ、と思いながら昨日と同じように暗い廊下を歩いて行く。彼女の見せた狂気はまだ序章にもなっていないことに、彼はまだ気付いていなかった。