03
目を覚ましたなまえの体は重い。片腕を拘束されていたからかろくに寝返りも打てずに最悪な寝起きだった。昨日弥鱈は己の拘束を解いて出ていったはずなのにいつの間にかまた繋がれていたそれを見た時、彼女は絶望的な気持ちで叫びそうになったが何とかぐっと堪えた。
部屋の中から呼びかけると、待機していた黒服がノックをして入室する。水を飲みたいと告げれば新しいペットボトルを渡される。力のうまく入らないなまえの代わりに黒服がキャップを開けた。何も出来ない体がもどかしい。
「ありがとうございます」
礼を言えば黒服が少しだけ頬を赤らめた。繋がれた野良犬のような姿でもその儚い美しさを汚すことは出来ない。
水を飲みながら考える。もうそろそろシャワーの時間だ。ここに来て2日経つが、毎朝シャワーさせてもらえるのはなまえにとってありがたかった。もう一度礼を言えば黒服が静かに部屋を出た。朝日の入る部屋は明るいが心は晴れない。己が眠っている間に何があったのか彼に聞かなければならないと思っていたからだ。
再びノックの音がする。どうぞと呼びかければ変形スーツに身を包んだ美しい女性が2人並んでいる。
「みょうじさん、シャワーのお時間です」
「お願いします」
2人は九拾壱號立会人・最上妙子付きの黒服だった。着替えやシャワーなどは彼女たち黒服が交代で行っており、名前はわからなかったがなまえにとっては頼もしい存在であった。
店にいた時も僅かな休みの日には他のキャストと一緒に近くの銭湯で汗を流すことがあった。もう戻れない日常を思い出して、なまえは少しだけ笑む。
勿論、彼女たちをはじめとする賭郎を完全に信頼しているわけではない。それでもこの時間では己に危害を加えないということがわかった今はほんの少しの安寧をもたらした。
押されてきた車椅子に乗るため体を起こそうとしたが、腕を拘束していたことを思い出して舌打ちする。それを見た黒服の1人が胸元から鍵を取り出した。
「今外しますので」
カチャン、と音を立てて錠が開けられる。ようやく解放された腕をぶんぶんと振って、今度こそと気怠げな顔で体を起こした。
ベッドサイドに腰掛け、支えられて立ち上がる。そのまま車椅子に乗るのもこの2日で慣れてしまった。
「体力が戻ったら私たちと少し体を動かしましょう」
「みょうじさんは色白で細くて可愛らしいですが、筋肉がなければ動くのも大変になりますから」
「えぇ、ぜひ」
一日中寝たきりというのは、ほんの数日でも体を怠けさせてしまうというのが彼女も痛いほど理解していた。もっとも、店にいたときは筋肉など無用の産物で、かえって客の男たちを萎えさせるものでしか無かった。彼らにとって枝のように細い手足も、透けるような白い肌も己の征服欲を満たすためのものでしかない。男たちからすれば、なまえの肌が己の熱で昂り赤く染まる様も、その細腕が力なくしなだれるのも情欲を煽る舞台装置と変わらないのだ。
廊下に出て、シャワールームに向かう道すがらなまえは彼女たちに弥鱈のことを聞いてみた。2人とも少し言葉に詰まらせながら「確かにお強いですけど……」「性格はあまり……」と美しい顔を困ったように歪ませて答える。それを聞いて同じように苦笑いをした。彼の性格に難がありそうなのは何となく察していた。
「彼は今日も来るのですか?」
「それは私たちもわからないんです。私たちは身の回りのお世話以外ではみょうじさんに関することは聞けないことになっていますから」
それはなまえも初耳だった。弥鱈があえて教えなかったのかとも思ったが、あの様子では彼にものっぴきならない理由があるのではないかと邪推してしまう。自分の処遇は彼に一任されていると考えていたが、現実はそうでないのだろう、となまえは考えることにした。
「弥鱈立会人にお伝えしたいことがあれば、私たちが承りますので」
「いえ、そういうわけではないんですが」
「思いついたらで良いので何でも仰ってくださいね」
弥鱈に用事があるわけではない。しかし、彼が自分の飼い主なのだから考えを聞きたいと思っているのは確かだ。言葉少なで自分を追い込むようなことばかりするのに、頼れるのは彼しかいないのだからまったくもって不便なことこの上ない。
なまえが溜息をつくのと、シャワールームに着くのはほぼ同時だった。
「点滴は一度抜くことになっていますので、失礼いたしますね」
腕から管が抜かれる。おおよそ一日ぶりに自由になった腕は赤黒く色付いていた。
シャワールーム備え付けの洗面台には、使い捨ての歯ブラシが置いてある。再び支えられながら立ち上がり、歯ブラシを手に取った。歯磨きをして口をゆすぐと、あっという間に髪を梳かされ服を脱がされる。
なまえは裸を見られることに抵抗は無かったし、彼女たちも気にしている様子はなかった。ただ、少しはしゃいだように「なんて美しい肌」とか「クイーンの仰っていた通りよ」と言葉をかけられ、彼女たちの言うクイーンには会ったはずはないのに……と頭上にいくつかはてなマークを浮かばせた。
戸を開けられたシャワールームとは良い意味で名ばかりで、その実広い浴室になっている。昨日別の黒服に聞いた時はここだけが特別こんな作りになっていることを教えられていた。他のシャワールームはよくある小さなスペースにシャワーがかけられているだけだが、ここには立派な浴槽も付いている。なぜかまでは恐ろしくて聞けなかったが。
既にお湯の張られた浴室内にはもくもくと湯気が烟る。備え付けの椅子に座って体を流されるのは不思議と嫌な気分ではなかった。ジャケットを脱いだ彼女たちは丁寧になまえの体を洗っていく。もこもこと全身泡だらけにされて、心地よくシャンプーされれば極楽気分になれるがされていることはただの入浴介助だ。少しの情けなさが心を抉った。
「さぁ、ゆっくりつかってください」
「ありがとうございます」
ちゃぷ、と湯船に体を沈めれば体の疲れが少し抜けていく感覚がする。寝てばかりいるのも中々疲れるようで、少し熱めのお湯に包まれてふぅと息をつけば心地よさで少しまぶたが重くなる。
「お湯加減はいかがですか?」
「そりゃもう、最高です」
「それは良かったです」
店にいる時はゆっくり風呂に浸かることはほとんどなかった。客の相手をするのは風呂だろうと疲れるし、銭湯に行くにも時間は限られている。本来は長風呂が好きだった彼女はいつの間にかカラスの行水に慣れてしまって、己の過ごしてきた時の速さの残酷さに少しだけ身を固くした。
「私たちは少し席を外します、10分後にまたお声がけしますので」
「はぁい、わかりました」
珍しく間延びした返事に、黒服たちも戸の向こう側で思わず微笑んだ。彼女たちだってなまえの境遇を哀れに思わないわけではない。中には同じような生活を強いられて来た者もいたが、最上という精神的な柱を持つ彼女たちと1人きりで組織の中に放り出されたなまえでは、どこか違う立ち位置なのは否定できない。
浴室内でぼんやりとしながら両腕を伸ばす。食事らしい食事もしていなかったが、点滴のせいか慣れのせいかあまり腹は減っていない。それでもいくらか暖まった内臓は活動をはじめ、小さくきゅるると腹を鳴らした。
弥鱈にも食事を取るように言われ、点滴も抜かれたということは今日からは経口摂取するようにしろということか、となまえは思案する。店では表向きのクラブで客が残したような料理しか食べさせてもらえなかったせいか、食に対する欲よりも嫌悪感が上回る。
「私の体、やっぱり変になっちゃったんだな」
呟きは誰にも届かないまま落ちる。
湯を掬うようにした手のひらは白くふやけて柔らかくなっている。貧弱な体を象徴しているようなそれを見て悲しげに笑った。
いっそこのまま死んでしまえたら……なまえの脳裏を禁断の選択がちらつく。オーナーが死んでしまい居場所も無ければ、置いてきた他のキャストに対して申し訳ない気持ちもある。彼女たちは今どうしているのだろうか。自分が消えて今日で3日になる。客は入っているのか? そもそも賭郎がすべて奪い尽くしてしまったのか? 姉妹のように世話をした者たちの顔を思い出し、なまえは眉を吊り上げた。
「私は、まだ死ねないなぁ」
彼女たちは今どうしているのか、まずは弥鱈にそれを聞かなければならない。
新たな決意を抱き気合いを入れようと顔をぺちぺちと叩く。そうこうしていると戸の向こう側からまた声が聞こえた。
「みょうじさん、お加減はいかがですか?」
「え? あぁ、大丈夫です。そろそろ出ます」
「かしこまりました」
入った時と同じように支えられながら立ち上がる。いつまでも不自由な体ではいられない。なまえの瞳の輝きが先程より強くなっていることに気付いた2人は静かに顔を見合わせた。
真っ白で柔らかいバスタオルが痩躯を覆い水滴を拭われる。スキンケアもヘアケアもされるがままではあったが、明日からは少しでも自分の好きなようにさせてほしいと頼むと彼女たちは意外にも「それはいけませんわ」と断った。
「どうしてですか?」
「だって、みょうじさんはお美しいし、私たちがお手伝いしたいんですよ」
「せめて体を拭くとかは自分でさせてください」
「まずはお食事を取れるようになったらクイーンに進言いたしますから」
「では、クイーンに会わせてください。直接お話しします」
「それはもっといけません。今はまだ弥鱈立会人以外とは接触させないようにお屋形様から申し付けられています」
彼女たちの言葉になまえは口を押し黙ることしか出来ない。行き場のない自分が生きているのは賭郎があるからだ。そもそも、弥鱈がいなければあの部屋で死んでいたのかもしれない。なまえが反論出来ずに眉を寄せたのを見て、それ以上の思考を遮るようにドライヤーが唸る。温風が髪の毛をふわふわとあおるのを鏡越しに見ているうちに、ひとまずは言うことを聞こうと気持ちを落ち着かせた。
「クイーンはみょうじさんに会いたがっていましたから、いずれその時は来ますわ」
シャワールームからの帰り道、黒服に言われてなまえは少しだけ怪訝な顔をした。自分はクイーンを知らないが、クイーンは己を知っている。それがどうにも不思議でならなくてこの際だと聞いてみる。今度はありのままを答えてくれた。
「みょうじさんのお写真が我々には既に回覧されております。監視のため、と言ったら言葉は悪いですけど」
「これも業務のうちですから、ご容赦くださいね」
あっけらかんとしながら言われて思わずなるほどと頷いた。もし自分が脱走したとしても、賭郎中の人間が顔を知っていれば捕らえることは容易だろう。そうするのが当たり前だと気付いてなまえは小さく唸った。
「悪用するような輩はおりませんから、ご安心下さい」
妖艶な笑みが2つ並んで、それ以上の言葉を封じてしまう。部屋に戻ってベッドに上がる頃には太陽はそこそこの高さまで登っていた。
「ご昼食はいかがなさいますか? スープなら召し上がれるかも、と伺っておりましたが」
「それで大丈夫です。試してみます」
「苦手なものや、食べられないものは?」
「これといって。……あ、どろどろした食感は苦手です」
店での食事を思い出してそう付け足すと、彼女たちは頷いて部屋を出ていった。
いつの間にかベッドサイドには暇つぶしのためか本が数冊置かれていた。湯船につかっている間に彼女たちが用意したのか、小説や雑誌など、色々なジャンルのものが重ねられている。
流石にもうそろそろ弥鱈が来るかと思ったが、なまえの予想は外れて昼近くになっても現れることはなかった。彼のことは好きでも嫌いでもないが、毎日来るのに急にやめられると気になってしまうのが人間の性だろう。思わず、部屋の外の黒服に声をかけた。
「あの、弥鱈……立会人は来ないのですか?」
まさか彼女からそう問われるとは思っていなかったのか、部屋に入ってきた黒服は少しだけ面食らった顔をした。それから申し訳無さそうに眉を下げて「本日はお出かけになられると伺っています」と答える。
それを聞いてなまえは、今朝のことを思い出してほんの少し心に影を落とす。
「戻り次第いらっしゃるかと」
取り繕うように言われた言葉は耳をすり抜けるように聞き流される。消え入りそうな声で「わかりました」と返事をすると黒服はまた申し訳無さそうな顔で一礼し、部屋を出ていった。
寂しいわけでも、会いたいわけでもない。それでも今自分をこの世界に繋ぎ止めているのは彼だけのような気がしているのは確かだった。
「一応、命の恩人だし」
気を取り直すように雑誌を手に取ってぱらぱらとページを捲る。こういったものに無縁だったからか、モデルの着ている服やメイク道具はひどく好奇心をそそった。
流行りも何もない、男に愛されるためだけに存在した店とは真逆の世界は、窓の外の青空のように眩く輝いている。彼の言った”人間らしい生き方”とは、こういうものも含まれているのだろうか? なまえの脳裏にそんな考えがふと浮かぶ。己の青春すら犠牲に生きてきた彼女にとっては、目に映ったそれらすべてが新鮮だった。もし、こんな生き方が許されるのなら自分は何をしたいのか。
「普通の人間になって、恋をしたいなぁ」
目に付いた読者の投稿コーナーは、傍から見ればくだらないとも思える恋愛相談がびっしりと載っている。なまえはそれを小説を楽しむかのような気持ちで一字一字しっかりと読んでいく。
春を売ることを強制され、お世辞にも綺麗とは言えない自分を愛してくれる人が現れたら、自分は一体どうするのだろう? そんなことはありえないと理解していても、考えることが止められない。忘れていた気持ちを取り戻すかのように繰り返し読んでいるうちに、遠くでポーンとチャイムの音が鳴ったのが聞こえた。どこかの学校だろうか。
「恋……恋かぁ」
店では娼婦となって犬のように媚を売り、これからは新しい主人に仕えることになるだろう。
一生自分には訪れないであろう感情を想像しながら、1人静かに真昼のやわらかな日差しをぼんやりと見つめていた。