啼哭


 
 あの熱く、硬い指先に触れられたのはもうはるか昔のような気がした。
 会えなくなって、一月。たったそれだけの時間しか経っていないのに、匂いも温もりも声さえも私の中から失われていく。少しずつ、少しずつ血が抜かれていくような喪失。
 それでも時折思い出して、あの日を、あの火を。
 
 わがままを言って同じ場所に開けた傷跡が思い出したようにじくじくと痛む。ぶら下げた逆十字が今は唯一の関わりのようだった。
 あの人のために振るった拳は今は空を掠めるだけで、立ち上った煙も遺された灰すらも掴むことはままならない。
 
「つまんないの」
 
 私を好きだと言ったじゃない。それは私があの人より”弱い”存在だったからだけれど。
 握ることを諦めた爪は弔いの色に染め上げられて、エナメルの安っぽい光沢を放っている。一人歩く汚い街並みはビルの灯りで様々な色を落とし、昼間に出来た水溜りが七色に輝いた。それを踏みつけて私は歩く。
 
「……つまんないの」
 
 遊び相手を失った子供のような呟きだった。
 追いかけることが許されるのなら、今すぐにでも駆けていきたいのにそれを望む人も許す人も誰一人としていない。もしまた会えるとしても、きっとあの人は一人ではないだろう。私の知らない、あの人の大切な人が側にいてそこに私の居場所なんて無い。
 
 賭郎、誰も抜けることのない組織。己の中に様々な欲望を秘めた立会人たちはお屋形様という強い光に魅せられて集い生きていく。その結末は、まるで誘蛾灯に引き寄せられた夏虫のように皆等しく身を焼かれて落ちていく。
 立ち会うために生き、立ち会いのために死ぬ。その中に組み込まれた號奪戦は一体何をもたらしたのだろうか。
 フィラメントの切れた電球のように、私を導く光は潰えてしまった。
 その残り火が私を焼くことを止めない。
 
「貴方のためだけに生きたかったのに」
 
 喧騒の中に声は吸い込まれていく。振り返ったところで誰も居やしない。
 ぎらぎらとした街を抜けて部屋に戻っても虚しさだけが私を襲う。あぁ、傷跡が痛い。
 遠い昔、逆十字は悪魔崇拝の意があると教えられた。まるで私のようだと思う。あの人は神様なんかじゃない。私のような弱い生き物を拐かし、仮初の愛を与え、その生命を奪って生きる悪魔でしかない。それなのに離れられないのは、私が望んだから。
 同じ立会人という生き方を望み、同じ場所への傷を望み、同じ形の十字を望み、これ以上何を望むというのか。それは一つしか無い。
 
「私にだけ向けてほしかった」
 
 決して叶うことの無い願い。
 震える手で引き千切った。
 
 アセトンの匂いが鼻をついた。
 あの人の髪と同じ色だったそれを落として、短く切り揃える。握る指先まで入る力が心地よい。
 もう戻れないなら、私は進むしか無い。未来に背を向けて、堕ちるように過去へと進んでいく。あの人が生きていた痕跡をこぼさぬように。
 
「どうせなら、殺してほしかったな」
 
 一度くらい、挑めば良かったな。
 真っ白なハンカチは、拭った赤と黒で汚れてしまった。それはあの人の最期のような色。