時雨落つ


 夢主は死んでます
 
 
 
 
 人が死ぬとき、決まってあの男は現れる。
 真っ黒な影のようなあの男の顔を覚えている者はどこにもいない。ただ静かに佇むその姿はひどく不気味で、言いようのない嫌悪感すらあった。
 例えるならそう――死神というやつだろう。 
 
「なぁ、俺はそんなに酷ぇことしたって言うのかよ」
 
 その言葉に返事はなかった。蝉時雨の降る午後は極彩色の青空が美しい。咽せかえる程の夏の匂いも意にも介さず、静かにただそこにいた。
 まるでそこだけ写真に貼り付けたような違和感に、対峙するもう1人の男は脂汗をかきながらまた問う。
 
「答えろよ。俺はなんもしてねぇんだよ。ただそこにいたからムシャクシャして……それの何がいけないって言うんだよ。あの女が俺のことを誘ったんだろ!? じゃあ俺は被害者じゃねぇか。なぁ、反論してみろよ」
 
 やはり返事はない。痺れを切らした男が走り出そうとしたのを無言で足を引っ掛けて転ばせた。必要最低限の動きで制されたことに驚いて男は地面に伏したまま見上げる。その表情は逆光で、見えない。ただ真っ暗な影の中にぎらぎらと光る目がふたつ。
 
「おい、殺すのか俺を」
 
 こんな会話をするにはつくづく相応しくない場所だった。満開の向日葵が太陽に向かって背伸びし、入道雲が大きな形を作ってまるで一つの絵画のようだ。
 無言の間をジワジワと喧しい声が邪魔をする。
 
「俺が死んだら日本の経済は損失を受けるぞ? 知ってるだろ俺の立ち上げた企業がどれだけ影響を与えているか。俺が人を殺したってどうにでもなるんだよ。お前みたいな人間じゃ俺を殺せないんだよ」
 
 早口で捲し立てる男はひどく滑稽だった。殺気で立ち上がることもできないのに虚勢を張ることをやめない。肥大した醜さの塊のようなそれを見て、ようやく静かに口を開く。
 
「……言いたいのはそれだけか?」
「は?」
 
 男はしゃがみ込むとじっと目を見た。真っ黒い瞳には何も映らない。黒いスーツを着込んで、こんな天気なのに汗ひとつかいていないことに気がつき、その不気味さに全身に悪寒が走る。
 
「お前のような人間がいることが残念だ」
「それはどういう――」
 
 蝉時雨がぴたりと止んだ瞬間、くぐもった声がひとつだけ響いた。蛙が潰されたようなそれを隠すように辺りを夏の音が覆い尽くす。
 頭を潰された肉塊に虻が一匹止まり、喰む価値すらないとまたすぐに離れた。
 
「……お前に罪があるとするなら、それはこの世に生まれたことだろう」
 
 それだけ言うと、男はまるではじめから存在しなかったかのように夏空に溶けて消えた。
 
 ***
 
「……君の仇を取ったよ」
 
 墓前で立ち尽くす男は、色のない瞳でそこにいない人をじっと見つめていた。去年の夏に失った愛しい人はとうの昔に煙になって青空の向こうに逝ってしまった。
 あの向日葵畑の中、真っ白な肌が汚されたことを思い出して奥歯を噛み締める。
 Lファイルによって揉み消された罪を白日の元に晒すことはできない。だから彼は私怨であの男を殺したのだった。それが己の立場上決して許されないことと知っていても。
 
「密葬課、か」
 
 法で裁けぬ悪を裁く。それが例え矛盾で雁字搦めになっていたとしても、彼は歩むことを止めない。
 
「君の所に行くのは、まだ先になりそうだ」
 
 1人にさせて、すまないね。
 そう言って彼は墓前を後にする。鳴り止まない蝉時雨と青空。夏はまだ終わらない。