終わり
「静さん、ここに新しいタオル置いておきます」
「はい…ありがとうございます」
泰彦さんの部下に話しかけられても、極力話さずに俺は過ごした。あの日から俺は笑うことができなくなり、ふとした瞬間芹沢さんの笑顔が頭に浮かぶたび涙を流すようになっていた。
「静、ただいま」
「…おかえりなさい」
「土産にケーキ買ってきたんだ、食べるか?」
泰彦さんは怖いけれど以前より優しくなった。
怖いと思っていても、泰彦さんに触れられて見つめられると愛しい気持ちが湧いてくる。
ーー複雑な心境の中で俺は生きていた。
ある日、初めてこの家のインターホンが鳴らされた。その日は泰彦さんの部下も誰もいなくて、出ていいのかわからなかった。
カメラを見てみると黒いスーツを着た男が立っていた。
「…どちら様、でしょうか」
「新しく工藤さんに決められた世話役の葛西です。部屋に入れてもらえませんか」
「…?、わかりました」
そんな話聞いていなかった。世話役の方が変わるなんてこと泰彦さんは何も言っていなかった。
どうしていいのかわからなかった俺はオートロックを解除し、男を家の中に入れることにした。
カメラ越しではなく実際に見てみると男は見上げるほど背が高かった。
「…佐藤 静さんで合っていますか」
「は、はい」
「貴方は工藤泰彦の愛人で、芹沢は貴方の世話役だったんですよね」
芹沢さんを思い出し、顔を歪めながらも頷いた。すると思いっきり床に押し倒され、打ちつけた背中からの衝撃に一瞬息が止まった。
状況が理解できず男を見上げると、男が憎悪の感情を思い浮かべて俺を睨んでいた。
「アンタのせいで…芹沢は死んだんだ」
「っ、あなたは誰なんだ…っ」
「俺は芹沢と同じ組のもんだ。芹沢は工藤を見張るために、親父からテメェの組に送り込まれたんだよ」
芹沢さんはスパイということなのだろうか。
混乱して状況が飲み込めない。首に手をかけ、男は言葉を続けた。
「芹沢を…俺の相棒を殺しやがって…!」
「なっ、ぁ…ぐ…っ」
「工藤も俺と同じ思いをすればいい」
首の手に力を入れられ、俺は必死に暴れた。
暴れていると偶然男の腹に俺の足が当たった。結構な衝撃だったのか男が蹲る。
俺は噎せながらも逃げるために、背を向けて立ち上がろうとした。
「ぎっ、ああああっ!!」
太腿に鋭い衝撃が走った。
ナイフに太腿の裏を縦に切り裂かれたのだ。悲鳴をあげながら太腿を押さえて蹲る俺に、男はもう一度ナイフを持って振りかぶる。
ーーおれ、殺される…!
諦めた瞬間、空気を切り裂くような破裂音が聞こえた。
ドサリと重い音を立てて額に穴を開けた男が倒れた。
「静!無事か??」
「ぁ…やす、ひこさ…っ」
「クソが…っ、おい!病院に連れて行く、車回せ!」
ガタガタ震える俺を抱きしめて、泰彦さんは病院に連れて行ってくれた。
医者には思ったより傷は深く、暫く入院したほうがいいと言われた。
「まさか芹沢が楠木組のやつだとは思わなかった…あの時は見張りもいなかった…怖かったよな?ごめんな、静」
「………」
「ちゃんと信頼できるやつを用意して、側に置かせる」
泰彦さんの言葉を俺はぼんやりと放心した状態で聞いていた。
ーーもう、限界だ。
逃げ出そう、この世界から。白い天井を見つめながら俺はそう思った。事件があったからか、部屋の前には常に見張りが立っていた。
見張りを退かせるために売店でお菓子を買って来て欲しいと頼み、その場を離れさせた。
そして、パジャマのような服装のまま俺は病院を飛び出した。
*
銀行で全ての金を下ろし、俺は東京から遠く離れた四国地方に逃げた。携帯解約し、番号も変えた。
海沿いのアパートの一室を借りて細々と暮らすことにしたのだ。傷つけられた右脚はちゃんと治療を受けていなかったからか、後遺症が残り右脚を引きずって歩くことになった。それでも、逃げたことは後悔していない。
泰彦さんを愛していたがあの世界にはいられない。ーー泰彦さんだって、俺のことなんか忘れている。
そう、思って2年間を過ごしていたのに…
「ここは寒い…部屋に入れてくれよ」
たしかにこの地域は冬は寒い。仕方なく泰彦さんを部屋にあげた。
狭く何も置いていない部屋を見渡し、泰彦さんは口を開いた。
「ずっと…ここで暮らしていたのか」
「…はい、狭いですけど過ごしやすいですよ」
「……」
「あの…お茶淹れますね」
逃げるように台所へ向かう。ヤカンに水を入れているとギュッと後ろから抱き締められた。
また心臓の鼓動が速くなる。
「ずっと…お前を探してた」
「泰彦さん…」
「静を危険な目に合わせて、最低な男だったと思う…それでも、お前を愛してる。もう一度俺の元に戻って来てくれないか」
ヤカンをシンクに置いて、俺は首を横に振った。
「違うんです…俺は、あなたが怖いんです」
「こわい?」
「あなたの仕事を理解していたつもりだった。でも、人を平気で殺すことができる…っ、常に人の恨みが付き纏う…そんな世界理解できない、そこに身を置くあなたがこわい」
ーー俺はそんな強く生きられない…っ、平気でいることなんてできない!
涙を流しながら俺はそう叫んだ。
泰彦さんは俺を抱きしめたまま、耳元で優しく囁いた。
「俺は昨日、組長になった」
「……っ」
「お前を、静を危険な目になんて合わせない、絶対に守れる地位を手に入れたんだ」
体を回され、泰彦さんに向き直る。
「静…俺がお前を守って、ずっとずっと側で面倒を見てやる」
「…やすひこさ」
「お前が言うなら殺しはしないように気をつける」
声色は優しく、泰彦さんは笑みを浮かべていた。でも、俺は体が震えるほど寒気を感じていた。
「…戻ってくるよな?」
かつてはあんなに輝いていた黒曜石のような瞳。その瞳が今はどこか澱んで、怪しい光を発している。
ぽっかりとした闇が俺を閉じこめるように見つめていた。
ーーもう堕ちるしかないのか。
泰彦さんの腕の中で俺はそう思った。
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