ピピーーーッ!!

むせ返るほどの熱気が充満した体育館いっぱいに響き渡る笛の音。無情な程大きく響くその音は、短いようで長い、いや、やっぱり短かった私たちの2年半の終わりを告げるには余りにも呆気なくて。ネットを挟んだ向こう側で歓喜に沸く相手チームを、落胆するベンチの、コートの仲間を、惜しみなく拍手を送ってくれている観客を、どこか別世界の出来事のように感じながら。

「−−っ整列!」

なけなしのプライドで涙を堪え、号令をかけた。


−−−−−


「すごかったよ!みんなかっこよかった!!」

そう讃えてくれる友だちの言葉も。

「いやー、惜しかったね…。」

悔しがってくれるOGの声も。

「3回戦で新山女子と当たるとかツイてないなー。」

私たちのトーナメントの運を嘆いている他校の人たちの会話すらも、全て他人事に思えてくる。
整列し、相手チームや応援席への挨拶を済ませ、次の試合を控えているチームに場所を空けるべく手際良く後片付けをしながら。ふと隣を見れば、中学からのチームメイトである遥香が鼻をすすりながら荷物をまとめていた。他の皆もそうだ。スタメンだけではない、ベンチのメンバーも応援席から声を張り上げてくれていた後輩たちも、大粒の涙を流したり、鼻を赤くしたり、すすり泣いたり。笑顔の者は1人もいない。当たり前だ。負けて悔しくない試合があるはずがないんだから。いつもなら今日の反省点を考え、話し合い、次の目標に向かってまた走り出す。そうやってずっと、ただひたすらにバレーに打ち込んできた。でも。

−−それも全て終わったんだ。


−−−−−

「−−最後の最後で、勝たせてやることができなくてすまなかった。お前たちはよく戦ってくれた。ありがとう。」

体育館の外、他校の人に邪魔にならない隅のほうで行なっているミーティング。監督の言葉は温かくて、優しくて。それと同じくらい残酷だった。いつもなら誰かを叱って、両手では足りないぐらいの反省点を挙げて、厳しい言葉をかけて。それでも最後はキャプテンである自分にチームを任せてくれていたのに。今日は違う。
本当に、もうこのチームでプレーすることができないことを、何よりも監督の姿勢が、表情が物語っていた。

私たち、青葉城西高校女子バレー部は男子バレー部と違って春高には参加しない。理由は1つ。男子ほど『強豪』と呼ばれる存在ではないから。わざわざ大事な大学受験を控えている時期に部活に打ち込もうとする部員は少ない。
連絡事項や次のキャプテン、副キャプテンの挨拶。明日からの練習の予定の確認など一通り済ませれば、

「−−じゃあ、解散しよう。鳴海、よろしく。」

名指しで回ってきた号令。きっとこれが、私のキャプテンとしての最後の仕事になるのだろうと頭の片隅で思った。

「−−ありがとうございましたっ!」
「「「「「ありがとうございましたっ!!」」」」」


涙は、出なかった。


−−−−−


「結子、帰ろ?」

バスで青城に戻り、それぞれが帰り支度を済ませ帰路に着く中、ぼーっとしていた私は遥香の声で我に返った。

「え?あ、うん。そうだね。」

笑顔を浮かべようとして、失敗した。たぶん物凄く曖昧な表情を浮かべているであろう私に気付いてか否か。遥香は呆れるでも急かすでもなく、ただ入り口で待ってくれていた。

誰も居なくなった体育館。2階の窓の隙間から僅かに傾いた陽が射し込んでいる。少し周りよりも色の薄くなっている床が妙に目に付いた。−−そういえば、みんながここで滑り込みするからワックスが剥げちゃったんだっけ。近くの壁を見れば、2年生の時、うっかりポールを運んでいる時にぶつけてできた傷が残っていた。奥にある教官室のドアは、監督たちが強く閉めるせいで半開きになったままなんだっけ。そんなどうでもいいようなことが今になって思い出されて。知らないうちに鼻の奥がツンとしてきた。

「っ、ごめん。やっぱり先帰っといて?ボール拭いてから帰るから。」

あ、ダメだ。今遥香と一緒にいたら甘えてしまう。平気なふりができなくなってしまう。泣いて、しまう。そんな気がして咄嗟に出た言い訳は我ながら下手くそだったけど。

「−−そっか。ありがとね。気をつけて帰りなよ?」

一瞬探るような目が私を捉えたけれど、すぐに少し眉を下げて了承してくれた。さすが副キャプテン。いつだって遥香はわたしの気持ちを汲んでくれる。気付かないふりがとても上手だ。それが今はとてもありがたかった。

遥香が見えなくなって本当に一人きりになった体育館の隅、少し埃っぽい倉庫でボールケースの前に立ちながら。見つめていたはずのボールごと視界がじんわりと歪んでいくのがわかって、初めて自分が泣いていることに気付いた。
試合に負けて泣くなんて、したくないのに。最後ぐらい後悔のない試合をしたかったのに。でも、そんなことはあり得ない、できない。かけてきた時間が長いだけ、思いが大きいだけ、反省だってするし後悔も積もっていく。
何が、違ったんだろう。勝った新山女子と、負けた私たち。練習の量?質?それとも環境?勝ちたいという気持ち?どれをとっても私たちは相手チームに決して劣ってはいないと信じていた。でも実際試合が終われば、勝者と、そして敗者が生まれる。劣っていないなんて、ただ私がそう思っていただけなのかもしれない。そう考えると、自分の2年半が余りにも呆気なく感じて。次々とこぼれ落ちてくる涙を止めなければいけない理由は無かった。空っぽの体育館は広く、その隅の倉庫には涙を隠さなければいけない、声を聞かせたくない相手はいなかった。

そう、いない、はずだった。


−ギィィ……


不意に、倉庫の無駄に重い鉄扉が軋むのを背中で感じて、思わずびくっと肩を跳ねさせる。−−誰か、いる?土曜日の、この時間に?いや、大方、後輩か誰かが忘れ物か何かを取りに来たのだろうと考え、その『誰か』から顔を背けて素早く涙を拭う。

「−−、鳴海ちゃん?」

瞬間、鼓膜を揺らした声に体が強張った。聞き覚えのありすぎるそれと、射し込んでくるわずかな光が作り出す長い影が、『誰か』の答えを導くには十分で。

何で、どうして、今日に限って−−?

追いつかない思考の中、どうにか神経を総動員して笑顔を作る。大丈夫、作り笑いは慣れっこで、感情を隠すのは得意分野。こういう時に気持ちに気付くのはきっと遥香ぐらいだから。
そう思って、聞こえないぐらい小さく息を吐き、声が震えないよう注意しながら、ゆっくりと振り返る。

「あれ、及川くん?どうしたの?」

そこにいたのは予想通りの人で。ただ、脳内で思い浮かべていたのとは違う、私が思い出せる限り、初めて見る表情でこちらを見ていた。
学校で岩泉くんたちといる時に見せるような無邪気な大きな瞳でも、部活中の獲物を狙うような鋭い瞳でもなくて。真剣な、ただただ真っ直ぐな瞳が私を射抜いているのがわかった。男バレは今日も練習だったのか、上半身にはペールグリーンの見慣れた練習着を身につけていて。徐々にオレンジを濃くしている夕焼けとのコントラストが、彼の端正な顔立ちと相まってどこか浮世離れして見えた。その真剣な表情に釣られて自分の笑顔が硬くなってしまうを感じ、僅かに視線を逸らす。

「−−何、してたの?」

近づいてくるわけでもなく、ただ入り口からこちらの様子を伺っているのがわかる。

「ボールをね、綺麗に拭いておこうと思って。」
「ボール?」
「うん、今日で、最後だから。」

最後、というワードで合点がいったのか。そっか、と呟く及川くんはいつもと違って表情の変化が小さく、感情が読めない。

「男バレは今日も1日練習?お疲れさま。」

まだ赤いままであろう目に気付かれないよう、顔を逸らしたままで発した言葉は、静かな倉庫に不自然なほど明るく響いた。

「鳴海ちゃん、」

再び呼ばれた名前は先ほどより幾分か近くから聞こえて。少しだけ及川くんが歩み寄ってきているのを感じ、逃げ出したくなった。

−−トン、トン、

バレーシューズがコンクリートを踏みしめる音が狭い倉庫に反響して、目の前で止まった。

「ど、どうしたの−−」
「お疲れさま。」

その雰囲気に抗えず、顔を上げて問いかけた言葉を遮るように。耳障りのいいテノールが、鼓膜を揺らした。

それまで全く感情の読めなかった真っ直ぐな瞳が。綺麗な、本当に綺麗な鳶色の瞳が優しく細められ、自分の視線と交わった瞬間、

ドクン、

心臓が軋む音が聞こえた気がした。