及川徹という人物の第一印象は、一歩コートの外に出てしまえば『変な人』だった。


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『他クラスにすごくかっこいい人がいるらしい』

青城に入学して半月も経たないうちに彼の存在は噂になっていた。もちろん遥香曰くそういう話に疎い私は友人経由で聞いただけ。他クラスどころか自分のクラスメイトの顔と名前もまだ曖昧で、同級生たちの、というか女子の情報網は流石だな、と感心したのを覚えている。
その噂の人が男子バレー部に所属していると知ったのはそれからすぐのことで。

「及川くーーん!」
「きゃ〜〜!!今絶対こっち見たよ!」
「かっこいぃぃぃ…」

振り分けの関係でたまたま男バレと体育館を半分ずつ使用していた日。いつもなら部活に励む人たちの掛け声やボールの弾む音、シューズの摩擦音、監督の大きな声なんかが飛び交っているはずの室内に。似つかわしくない、甲高い女の子の声が響いていることに流石の私でも気付かないはずがなかった。

「遥香、あれ、何…?」

サーブカットの順番が回ってくるまでの間、近くで同じくボール拾いをしていた遥香に尋ねると。

「あぁ…あれね。毎日ご苦労なことで。」
「誰かの応援なの?」

体育館の入り口付近や2階の応援席にまで群がっている制服姿の女の子たちを眺めながら首を傾げるしかない私を、信じられない、と言いたげな目で見ながら。

「結子…まさかあんたここまで世間に疎いとは…。」
「え、え??」

世間に疎いとは心外だったけれど強く否定も出来ず、遥香の言葉を待つ。

「今右のコートでコンビ確認してるあのセッター、あの人目当ての子たちだよ。」

遥香が顎で示すその先。チャンスボールからのAクイックの流れ。たったそれだけの一連の動作だったのに。
一瞬、時間が止まったような気がした。
正確で無駄の無い動きに加え、自信に満ち溢れた表情。スパイカーに敬語で話している様子が窺えて、セッターの人のほうが後輩であることがわかる。それを感じさせないトス回しに、1人1人に合わせた微妙なタイミングと位置の調整、堂々としたプレー。ほんの何秒間か見ていただけなのに。

同じセッターとして、見惚れてしまうと同時に。自分の求めているプレーを目の当たりにし、強く、憧れてしまった。

「及川くん、頑張ってー!」
「すっごい!上手!!」
「何であんなにかっこいいの…」

口々に声援を送る女の子の姿に、遥香は少し苦い顔をしながら。

「あれが、及川徹。ほら、同い年で去年ベストセッター取ってた。」
「ええ?!及川徹って、北一でセッターしてた、あの…?」
「やっぱり、結子、顔知らなかったんだ。」
「し、知らないよ!同じ学校だったんだ…。っていうか何で遥香は知ってるの?」
「そりゃあ、あれだけの有名人、どの高校に進学するかなんて嫌でも耳に入ってくるでしょ。」
「そ、そうなの…?」

さも当たり前でしょ、とでも言いたげな遥香の目線がこちらを向いたその時。

「こうたーい!!!」

私たちの内緒話を遮るように発せられたキャプテンの声で、漸く回ってくるサーブカットの番。部員が決して少なくはない女子バレー部において1年生がボール使った練習に参加できる機会は少ない。
反対側のコートでは男子たちが6人ずつに分かれての試合形式の練習を始めたところだったけれど。私の意識はもう目の前のボールにしか向いていなかった。


−−−−−


及川徹。もちろん名前は知っていた。そして、彼の功績も。同い年で中学最後の大会でベストセッター賞を受賞していた人。大会で何とかベスト16に入るのが精一杯だった私たちの中学と然程離れていない距離に位置する北一こと北川第一中学。男子バレー部が強いことで有名な学校、そのチームのキャプテンを務めていたのが、彼。
男子と女子の試合は違う会場で行われるから、姿を見たことは無い。それでも、その肩書きだけで私の記憶に残る理由には十分過ぎた。

「まさか同じ学校だったなんて…。」
「いやいや、同学年で既に1番モテてるって有名じゃん。あの顔にあの身長、そんでもって1年生にして名門青葉城西男子バレー部の期待のホープ。知らない人のほうが少ないでしょ。」

隣を歩く遥香がさっぱりとしたショートカットを揺らして。綺麗な形の眉を呆れたように下げながら説明してくれる。

「それよりも結子、早く行かないと売り切れちゃうんじゃない?」
「え、ほんとに?!」

あの練習から2日ほど経ったお昼休み。珍しく朝練に遅刻しそうで慌てて家を飛び出した結果、キッチンに置いてけぼりになってしまったお弁当の代わりを買いに行こうと遥香と購買に向かっていた。
青城の購買は品揃えが豊富なことで有名だけど、それを上回る生徒数とその育ち盛りの人たちの食欲があるため、おにぎりやパンが全部売り切れ、なんてことは珍しくないらしい。これも遥香から聞いたことなんだけど。
心なしか購買に向かう生徒がみんな早足なのも頷ける。

「うわ。ちょっと出遅れたのかな…すごい人。」
「ほんとだね…。何でもいいから残ってないかな…。」

どこかのバーゲンセールさながらに混み合っている購買。必死になって列に並ぶのは上級生も多く、やっぱり委縮してしまう。でも流石に放課後まで何も食べないのは練習に差し支えるから困る、そう意を決して列を成している人たちの最後尾に並んだ。

「結子、出口で待っとくよ?」
「あ、うん、ごめんね。」

わざわざ遥香のお昼休みの時間を削ってもらうことに申し訳なさを感じながら暫く並んで、やっとの思いで手にできたのはたらこのおにぎりと、牛乳パン。
何とかこれでお腹は満たさそうだな、と安心していたその時。

「ああああ!!牛乳パン売り切れてるじゃん!」
「ああ?」
「岩ちゃんが遅いから!」
「てめーが廊下で声かけられてちんたら喋ってたからだろーが!」
「あぁ…俺の牛乳パン…。」

近くで聞こえたその声に反射的に振り返ると、

「他のパン残ってたからいいだろ!」
「今日は牛乳パンの気分だったの!」
「んなもん知るか。」

頭2つ分ぐらい上で繰り広げられている会話。その1人には見覚えがある、というよりもついさっき遥香との会話で話題に上がっていた人物だったから。顔ははっきりと覚えていないし、しかも一昨日コートの上で見惚れる程のトス回しを披露していた人と同一人物とは到底思えない内容の話のはずなのに。不思議と、この人が及川徹であると確信できて。言い合う2人を視線を上げぽかん、と見つめてしまった。

「俺もう午後の授業頑張れない…。」
「んじゃさっさと帰れ。」
「岩ちゃんひどい!!」

この人、及川くん、そんなに牛乳パン食べたかったのかな…?なんて考えていると、向こうがこちらに気がつくほどじっと見つめてしまっていたようで。

「ん?なん、すか?」
「あれ、岩ちゃん知り合い?」
「えっ、えーっと…。」

及川くん、ではない方の人が私の視線に気付き、控えめに声をかけてくる。が、

「あっ!!牛乳パン!!」

次の瞬間には及川くんの視線は私の手元、左腕に大事に抱えた白いパンに注がれていた。その目だけでも、本当にこのパンが食べたいのが伝わってくる。
−−なんだか、想像していたよりも、ずっと。変わった人だ。

「おい、お前、いきなり失礼な−−」
「あの、もしよければ、これ。」
「え…」

すっ、と彼のお目当てのものを差し出すと、

「え、いいですよ、そんな!」

元々大きな眼をさらに丸くし、両手を顔の前でぶんぶんと振って『いらない』のアピールをしているけれど。

「いいんです。私、他のもありますから。」

牛乳パンを半分押し付けるように彼に渡して、もう一つ抱えていたおにぎりを見せる。

「じゃ、友だちが待ってるので…」

何で見ず知らずの人なのにそんなことをしたのか。強引な行動を取ってしまったことに自分でも驚きつつ、後には引けないので軽く会釈してその場を去ろうとすると。

「っ、ちょっと待って!」
「?」

後ろから呼び止める声に振り向くと、少し焦ったような声色で。

「代わり、にはならないかもしれないんですけど…」

困ったように眉を下げて差し出してくれているのは、焼きそばパン。

「でもこれ、」
「いや、だってそれだけじゃ昼飯足りないですよね?これと交換ってことにしませんか?」
「え、えっと…」
「そうすれば俺も心置きなく牛乳パン食べられるんで!」
「おい、及川…」

へらっと笑った顔に、断るのも悪いな、と考えて。

「じゃあ、お言葉に甘えて。」

受け取り、頭2つぶん程上にある顔を見上げると視線が交わった。何だか可笑しくてくすっと笑うと、及川くんがほんの少しだけ目を瞠った、ような気がした。

「結子ー、何やってんの?」
「あ、ごめん!」

少し離れたところから急かす声が聞こえ、もう一度2人に会釈し小走りで遥香の元へ向かった。

−−これが、及川くんとの初めての会話で。変な人のイメージがそれから暫く消えなかったことは彼には言ってない。



(ってか結子、及川徹と何話してたの?)
(んー…パン交換してた?)
(……は??)