『お疲れさま。』


−−どれくらいの時間そうしていたんだろう。3秒、いや、もっと短かったのかもしれない。オレンジの光が微かに差し込む埃っぽい倉庫の中、顔を上げれば、手を伸ばせば触れられそうな距離にある綺麗な鳶色の瞳。深い色をしたそれが、私は何となく苦手だった。滅多に自分に向けられることはないけれど、その真っ直ぐな視線に、私のちっぽけなプライドは全て見透かされてしまう気がした。それなのに、吸い込まれるように何故か視線を逸らすことができなくて。何となく息がつまるような感覚で呼吸すら止めていたことに気がつき、無意識に再び背を向けていた。

「鳴海ちゃん、」

やめて、見透かさないで。

「及川くんは、練習終わったの?風邪ひいちゃうから着替えてきたら?」

試合に負けて泣いているなんて。そんな情けない姿を見せたくない。

「あ、私もこれ拭き終わったらすぐ帰るから、鍵閉めちゃうよ?」

お願いだから、そっとしておいて。

「っ、鳴海ちゃ、」
「ね、私なら大丈夫だから−−」

せめて、今日が終わるまでは、キャプテンらしい私でいさせて。

「鳴海ちゃん!」
「−−っ!!」

突然倉庫内に響いた大きな声に遮られたわたしの弱々しい言葉。それに続いて、ゆらり、背中越しに人の影が揺れた感覚がした、その時。

「−−!!」

筋張った右手が私の右腕をしっかりと掴んで。軽く引っ張られるとくるりと振り返る形になった。突然のことに動揺している私の身体は当然のようにバランスを崩して倒れそうになる。そして、次の瞬間。
視界いっぱいに広がるペールグリーンに、頬と背中に感じる温かな温度。自分の家のものではない柔軟剤の香りに微かに混じった汗の匂い。そして、押し付けた場所から聴こえる自分と異なるリズムを刻む心音。混乱する思考とは別に、五感からダイレクトに伝わってくるのは。

「お、いかわくん、?」

−−彼の腕の中にいるということ。

「っな、なんで、」

それを理解した途端、自分の顔から火が出そうになるぐらいの熱を感じて。目の前の人から距離を取ろうと少しだけ身をよじろうとすると。

「待って。」

少し掠れたような声が脳内に響く。それと同時に頭に添えられた大きな手で、優しく、でも決して逃がさないとでも言うような強さで胸に引き寄せられた。

「何で、そんな顔すんの。」
「−−、え、?」
「無理して笑わないで。」

押し当てている胸から伝わる、直接鼓膜を震わす声。

「俺は、知ってるから。」
「なにが−−、」
「鳴海ちゃんが、誰よりも頑張ってて、誰よりも悔しがってること。」
「っ、」
「で、ほんとは誰より泣き虫なことも。」
「!!」

−−やっぱり、ばれていた。泣き顔を見られていた。恥ずかしさの余り声にならない私に気付いてか否か。

「ね、こうすれば見えないから。だから、好きなだけ泣いていいんだよ。」

赤子をあやすように背中をさするその温度に、張り詰めていた糸が緩んでしまったのか。

「っ、う、」

一度零れ落ちた液体は、堰を切ったように流れ出てきて。止まることなく、静かにペールグリーンのシャツを濡らしていった。

「…何が足りなかったのかな。」

自分でも気付かないうちに心の内が声になって。

「、何がダメだったのかな。」

ぽつり、ぽつりと話し出す私に静かに相槌を打ってくれる。

「みんな最後まで私について来てくれたのに、」
「…うん、」
「勝って、笑って、終わりたかった。」
「…うん。」
「私、決めなきゃいけないところで決められなかった。」
「…そっか。」
「もっといいプレーができたかもしれないのに、力を出し切れなかった。」
「…鳴海ちゃんだけのせいじゃないよ。」
「私が…もっと上手くトスを回せてたら、狙い通りにサーブが打てたら、って。そんなことばっかり考えちゃって、」

駄目だ。一度出てしまった本音は引っ込みがつかなくて、どんどん卑屈になってしまう。後悔なんてしても遅いのに。

「鳴海ちゃんは精一杯やった。」
「でも勝てなきゃ意味がないよ…」
「うん、」
「わたし、みんなともっとバレーしてたかった。っ、最後に、したくなかった…」

思わず声が上擦ってしまう。と、背中に回った及川くんの腕がほんの少しだけ力むのがわかった。

「ーー鳴海ちゃんが必死にやってたことは、女バレの子たちが1番わかってると思うよ。」

ゆっくりと耳元で紡がれる言葉。

「鳴海ちゃんがキャプテンでよかったって、きっとみんな思ってる。」
「っ、何で、そんなことわかるの。」
「…だって、ずっと見てたから。」
「−−え、?」
「鳴海ちゃんが頑張ってるの、純粋にすごいと思うよ。ちょっと心配になるぐらい頑張り屋さんだなって思ってる。」
「なっ、」

真正面から向けられる自分を肯定してくれる言葉が擽ったい。

「同期にも後輩にも、監督からも慕われてるの、外から見ててわかるよ。頑張りすぎるのは悪いことじゃない。でも、もうちょっと自分を認めてあげて。自分を責めないで。」
「−っ」

なぜか最後にはお願いされるような形になって。
お互い黙ってしまうと狭い倉庫には再び沈黙が落ちる。でも、それが不思議と嫌じゃなかった。寧ろ、何だか、

「−−落ち着いた?」
「!!」

聞き慣れた、穏やかなテノールが私の気持ちを代弁してくれるのと同時に。心の中を読まれたことに驚き、はっとして包まれていた腕から逃れる。先ほどまでとは違う意味で赤くなっている顔を隠すように俯いた。

徐々に冷静になってくる頭で状況を整理すればする程、顔を見ることができなくて。視線を不自然に彷徨わせていると、ふっと笑う声が聞こえた。

「よかった、」
「……え?」

この距離に居なければ確実に聞き逃していたであろう小さな声。と、思ったのも束の間、

「じゃ、俺もうちょっと練習してから帰るから。」

聞き間違いであったかのようにいつもの明るいトーンに戻っていた。

「え、練習中だったの?」
「いや、部活は終わってるよ、自主練。」
「わ、ご、ごめんね!」

男バレだって大会直前なのに、大事に練習時間を削ってしまったことに申し訳なさを感じて咄嗟に謝ると。

「うーん、俺ね、いいことしたからさ、ごめんじゃない言葉が聞きたいかな。」
「え、あ、ありがとう……?」

首を傾げながら様子を窺う。

「ん、合格。」

鳶色の目が細められると同時に、ごく自然に頭を撫でられるのがわかって。条件反射のように顔が熱くなるのを感じた。

「じゃ、俺遅くなるから送っていけないけど。気を付けて帰ってね。」
「い、いいよそんなの!」
「あ、」
「?」
「また月曜、学校でね」

ふわりと笑ったその姿は。
見慣れた笑顔の筈なのにどうしてか脳裏に焼き付いて離れなかった。